〜Midnight Eden〜 episode3.【夏霞】
埼玉県戸田市の住宅街にヒールの音が響いている。夏の夕暮れの匂いは郷愁の懐かしい匂い。
その匂いに混ざって煮物と石鹸の香りが漂っていた。
神田美夜は自分と同じ苗字の表札がある平屋の前で立ち止まる。
マリーゴールドの黄色、アメリカンブルーの青、サルビアの赤にペチュニアの紫。鮮やかな夏色に彩られた庭を横切って、扉横の呼び鈴を鳴らした彼女は、東京では滅多に出さない大きな声で帰宅を告げた。
「お祖母ちゃん、ただいま」
「はいはい、いらっしゃい。あらま珍しい格好」
「電話で言ったでしょ? 今日は友達の結婚式だったの」
玄関の扉を開けた祖母は、美夜の服装を物珍しげに眺めている。美夜が纏っているのはドレッシーな黒のパンツドレス。
普段は履かない七センチヒールのパンプスから解放された脚をさすって、美夜は花束と紙袋を祖母に差し出した。
「ブーケと引き出物のバウムクーヘン。他にもタオルとか、色々入ってるから使って」
「美夜ちゃんがブーケいただいたの? 縁起がいいわねぇ」
夏の結婚式に似合う向日葵《ひまわり》とかすみ草のブーケが花嫁の手を離れて青空に舞った瞬間、一斉に空に手を伸ばす独身女性達。
最前列にいた女性が掴み損ねたブーケは、最後尾の美夜の腕に飛び込んできた。
「貰うつもりもなかったのに私のところに来ちゃったの。……ちゃちゃ丸ただいま。元気してた?」
廊下に出てきたちゃちゃ丸は、美夜が高校生の頃に祖父母が動物保護団体から引き取った虎猫だ。
あの頃は子猫だったちゃちゃ丸も今では貫禄のある十二歳、まだまだやんちゃな雄猫である。
「ごめん、すぐにお風呂借りていい?」
「まだお湯張っとらんよ」
「シャワーだけさっと浴びたい。外暑くて、汗だくなの」
すり寄る猫のぬくもりを名残惜しく手放した美夜は、脱衣場で着なれないパンツドレスやストッキングを脱ぎ捨てた。
昭和建築の定番であるモザイクタイルが床に敷き詰められたレトロな風呂場には、以前はなかった手すりが壁に取り付けられている。
足腰が弱ってきた祖母が滑って転倒しないようにと配慮したものだ。こうした細やかな気遣いができるのは近くに住む伯父だろう。
普段はしないフルメイクは顔が重たくなる。アイシャドウもマスカラも、アイラインもチークもリップもファンデーションも、顔に張り付くすべてを削ぎ落としてやっと顔が軽くなった。
「美夜ちゃん、バスタオル出しておいたからね」
「ありがとう」
浴室の扉越しに聴こえた祖母の声に返事を返す。今となっては、どこよりも寛げる祖母の家は甘え下手な美夜が甘えられる唯一の居場所だ。
その匂いに混ざって煮物と石鹸の香りが漂っていた。
神田美夜は自分と同じ苗字の表札がある平屋の前で立ち止まる。
マリーゴールドの黄色、アメリカンブルーの青、サルビアの赤にペチュニアの紫。鮮やかな夏色に彩られた庭を横切って、扉横の呼び鈴を鳴らした彼女は、東京では滅多に出さない大きな声で帰宅を告げた。
「お祖母ちゃん、ただいま」
「はいはい、いらっしゃい。あらま珍しい格好」
「電話で言ったでしょ? 今日は友達の結婚式だったの」
玄関の扉を開けた祖母は、美夜の服装を物珍しげに眺めている。美夜が纏っているのはドレッシーな黒のパンツドレス。
普段は履かない七センチヒールのパンプスから解放された脚をさすって、美夜は花束と紙袋を祖母に差し出した。
「ブーケと引き出物のバウムクーヘン。他にもタオルとか、色々入ってるから使って」
「美夜ちゃんがブーケいただいたの? 縁起がいいわねぇ」
夏の結婚式に似合う向日葵《ひまわり》とかすみ草のブーケが花嫁の手を離れて青空に舞った瞬間、一斉に空に手を伸ばす独身女性達。
最前列にいた女性が掴み損ねたブーケは、最後尾の美夜の腕に飛び込んできた。
「貰うつもりもなかったのに私のところに来ちゃったの。……ちゃちゃ丸ただいま。元気してた?」
廊下に出てきたちゃちゃ丸は、美夜が高校生の頃に祖父母が動物保護団体から引き取った虎猫だ。
あの頃は子猫だったちゃちゃ丸も今では貫禄のある十二歳、まだまだやんちゃな雄猫である。
「ごめん、すぐにお風呂借りていい?」
「まだお湯張っとらんよ」
「シャワーだけさっと浴びたい。外暑くて、汗だくなの」
すり寄る猫のぬくもりを名残惜しく手放した美夜は、脱衣場で着なれないパンツドレスやストッキングを脱ぎ捨てた。
昭和建築の定番であるモザイクタイルが床に敷き詰められたレトロな風呂場には、以前はなかった手すりが壁に取り付けられている。
足腰が弱ってきた祖母が滑って転倒しないようにと配慮したものだ。こうした細やかな気遣いができるのは近くに住む伯父だろう。
普段はしないフルメイクは顔が重たくなる。アイシャドウもマスカラも、アイラインもチークもリップもファンデーションも、顔に張り付くすべてを削ぎ落としてやっと顔が軽くなった。
「美夜ちゃん、バスタオル出しておいたからね」
「ありがとう」
浴室の扉越しに聴こえた祖母の声に返事を返す。今となっては、どこよりも寛げる祖母の家は甘え下手な美夜が甘えられる唯一の居場所だ。