〜Midnight Eden〜 episode3.【夏霞】
刑事に疑われた時点で犯した罪からは逃げられないと頭ではわかっていても、追い詰められた人間は我を忘れて獣になる。
『それを渡せっ!』
美夜からガラスポットを奪い取ろうとする藍川は彼女の腕を掴み、ポットに手を伸ばす。抵抗する美夜はポットに触れる藍川の手を退けようと必死でもがいた。
『神田! 頭下げて左に避けろっ!』
背後から聞こえた九条の声に美夜は即座に反応した。抱えたガラスポットと共に左側に重心を置いて頭を下げる。
帆を描くように空中を飛ぶのはヘアトリートメントのクリームケース。野球ボールのように回転がつけられたケースは、藍川の顔に命中した。
『ヤッベェと思って助けに来てやったぞ』
「九条くんはサッカー部じゃなかったの? なにあの野球選手みたいな回転技」
『野球は友達との草野球の経験しかねぇよ』
表で美夜と藍川の対峙をイヤホン越しに聞いていた九条が店内の異変に気付いて駆け付けたのだ。九条にクリームケースをぶつけられた藍川は鼻血を滴らせながら、手には美容師の第二の手とも言えるカット用のハサミを握っていた。
『神田は証拠品しっかり守ってろよ。転んで落として割ったりするなよ』
「私、そんなドジっ子じゃないんですけど」
ガラスポットを抱える美夜に微笑の一瞥を送った九条は、藍川が振り回すハサミの刃先を身体を反らせたり曲げたりを繰り返して避け続けた。
ヘアカット用のハサミは切れ味がいい。喉元を切り裂かれたら命も危うくなる。
医者も美容師も理容師も、刃物を扱うからこその国家資格だ。その道具で人を傷つけてはならない。
江東区看護師殺人の調書によれば、美容師の玉置理世もヘアカット用のハサミは犯行には使えなかったと語っていた。
理世が恋焦がれた藍川は美容師の誇りも人間の知性と理性も忘れて、刑事相手にハサミを振り回して暴れている。彼はもう、取り返しのつかない地獄まで堕ちていた。
乱闘の余波で積まれた段ボールの山がドミノ倒しに崩れた。散らばった気泡緩衝材のシートに藍川が足をすくわれた隙をついて、九条はハサミを持つ藍川の片腕をひねり上げる。
呻き声をあげる藍川の手からハサミが滑り落ち、そのまま九条の背負い投げを受けた藍川の身体は地震に似た振動を伴って床に叩きつけられた。
九条が取り押さえた藍川の手に手錠をかけたのは美夜だ。
『証拠品は無事か?』
「無事。外にいた南田くんに渡した」
『はぁ? あいつ、いつの間に……』
店のガラス扉の向こう、階段の踊り場に証拠品のガラスポットを入れた保管ケースを携えた南田が立っていた。美夜と九条の視線に気付いて呑気に片手を振る南田に、九条は肩で溜息をついた。
『あそこまで来たなら加勢しに来いよ……』
「南田くんは柔道の成績最下位って言ってなかった?」
『あー、そうそう、そうだった。南田と同じ班だったから、いつも連帯責任で柔道の補習に付き合わされてさぁ……。ほら、立て』
背中を打ち付けられた痛みで藍川はまだ唸っていた。鼻血まみれの顔には涙が流れている。
人々の髪に美の魔法をかけてきた彼の手には、犯罪者の烙印を示す鎖が巻かれた。
これが表参道の人気ヘアサロン店長の成れの果て。店の鏡が最後に映した姿は最新のヘアスタイルに満足げな笑顔を浮かべる客ではなく、誇りを失った涙の美容師。
明日もこの店に客は来ない。二度とこの店の鏡に幸福の笑顔は映らない。
『それを渡せっ!』
美夜からガラスポットを奪い取ろうとする藍川は彼女の腕を掴み、ポットに手を伸ばす。抵抗する美夜はポットに触れる藍川の手を退けようと必死でもがいた。
『神田! 頭下げて左に避けろっ!』
背後から聞こえた九条の声に美夜は即座に反応した。抱えたガラスポットと共に左側に重心を置いて頭を下げる。
帆を描くように空中を飛ぶのはヘアトリートメントのクリームケース。野球ボールのように回転がつけられたケースは、藍川の顔に命中した。
『ヤッベェと思って助けに来てやったぞ』
「九条くんはサッカー部じゃなかったの? なにあの野球選手みたいな回転技」
『野球は友達との草野球の経験しかねぇよ』
表で美夜と藍川の対峙をイヤホン越しに聞いていた九条が店内の異変に気付いて駆け付けたのだ。九条にクリームケースをぶつけられた藍川は鼻血を滴らせながら、手には美容師の第二の手とも言えるカット用のハサミを握っていた。
『神田は証拠品しっかり守ってろよ。転んで落として割ったりするなよ』
「私、そんなドジっ子じゃないんですけど」
ガラスポットを抱える美夜に微笑の一瞥を送った九条は、藍川が振り回すハサミの刃先を身体を反らせたり曲げたりを繰り返して避け続けた。
ヘアカット用のハサミは切れ味がいい。喉元を切り裂かれたら命も危うくなる。
医者も美容師も理容師も、刃物を扱うからこその国家資格だ。その道具で人を傷つけてはならない。
江東区看護師殺人の調書によれば、美容師の玉置理世もヘアカット用のハサミは犯行には使えなかったと語っていた。
理世が恋焦がれた藍川は美容師の誇りも人間の知性と理性も忘れて、刑事相手にハサミを振り回して暴れている。彼はもう、取り返しのつかない地獄まで堕ちていた。
乱闘の余波で積まれた段ボールの山がドミノ倒しに崩れた。散らばった気泡緩衝材のシートに藍川が足をすくわれた隙をついて、九条はハサミを持つ藍川の片腕をひねり上げる。
呻き声をあげる藍川の手からハサミが滑り落ち、そのまま九条の背負い投げを受けた藍川の身体は地震に似た振動を伴って床に叩きつけられた。
九条が取り押さえた藍川の手に手錠をかけたのは美夜だ。
『証拠品は無事か?』
「無事。外にいた南田くんに渡した」
『はぁ? あいつ、いつの間に……』
店のガラス扉の向こう、階段の踊り場に証拠品のガラスポットを入れた保管ケースを携えた南田が立っていた。美夜と九条の視線に気付いて呑気に片手を振る南田に、九条は肩で溜息をついた。
『あそこまで来たなら加勢しに来いよ……』
「南田くんは柔道の成績最下位って言ってなかった?」
『あー、そうそう、そうだった。南田と同じ班だったから、いつも連帯責任で柔道の補習に付き合わされてさぁ……。ほら、立て』
背中を打ち付けられた痛みで藍川はまだ唸っていた。鼻血まみれの顔には涙が流れている。
人々の髪に美の魔法をかけてきた彼の手には、犯罪者の烙印を示す鎖が巻かれた。
これが表参道の人気ヘアサロン店長の成れの果て。店の鏡が最後に映した姿は最新のヘアスタイルに満足げな笑顔を浮かべる客ではなく、誇りを失った涙の美容師。
明日もこの店に客は来ない。二度とこの店の鏡に幸福の笑顔は映らない。