〜Midnight Eden〜 episode5.【雪華】
厨房では園美の夫、オーナーシェフの白石雪斗が包丁を軽やかに操って食材を切り分けている。
「雪斗ー。美夜ちゃんも来たよ」
『いらっしゃい。神田さん、久しぶりだね』
「定休日にお邪魔してすみません」
『構わないよ。ちょうどもうひとり、お客様がいらしてるんだ』
雪斗の穏やかな眼差しがカウンターに注がれる。カウンター席に置かれたワイングラスがオレンジの灯りに煌めいて揺れた。
「……なんで……」
『奇遇だな』
ワイングラスを片手に、美夜を射抜く二つの瞳が三日月型に笑っている。何が面白いのか肩を震わせて失笑する木崎愁をねめつけて、美夜は彼の隣の席に腰掛けた。
「木崎さんとは私達が仕込みに来た時に表の道でバッタリ会ったの。美夜ちゃん、お夕御飯は食べた?」
「まだ……。忙しくて食べる暇がなかったんです」
『トマトクリームのパスタならすぐにご用意できますよ。神田さんトマトクリームお好きでしたよね』
客の好みを熟知する雪斗はさすがオーナーシェフだ。
こうも身体と心が疲れていると、只《ただ》でさえ億劫な食事がさらに面倒になる。美夜にとって食事とは、生命活動を維持する目的でしかない。
しかし誰かの手で作られたぬくもりが宿る食事は別だ。祖母の料理とムゲットの料理は、いつも美夜の心を救ってくれる。
ここは人肌が恋しい夜に辿り着いた唯一の居場所。東京で見つけた心許せる大切な場所。
「じゃあパスタを……」
『木崎さんもアラビアータの前につまみお出ししますね』
『お願いします』
美夜達のオーダーの準備に取りかかる白石夫婦を、美夜も愁も眺めている。数時間前に取調室で対峙していた男と貸切状態の店のカウンターにふたりきり。
何かを話したくても言葉が浮かばない。
『そんな嫌そうな顔するなよ。家が近所なら偶然会う確率はゼロじゃない』
「そちらの家は反対方向ですよね。ムゲットに寄るためでもないと、この道は通らないじゃない」
『ムゲットの定休日忘れてたんだ。あと、この道を通るのはムゲットに寄るためだけじゃない。誰かさんの家の通り道だからな』
聴取の名残の気まずさを引き連れているのは美夜だけらしい。澄まし顔の愁には、聴取で見せた翳《かげ》りの欠片も残っていない。
人の気も知らないで呑気に酒なんか飲んでる場合かと、吐き出したい毒も愁の甘い瞳に酔わされて吐けなくなった。
園美が愁と美夜の間にカプレーゼの皿を置いた。品よく盛り付けられたトマトが色鮮やかだ。
「二人ともご無沙汰だったから、どうしてるかなとは思ってたの。木崎さんは9月に美夜ちゃんと一緒に来店された時ぶりよね」
『そうですね。帰りが遅くてラストオーダーにも間に合わない日が続いていたんです』
愁の表と裏の顔の使い分けは、何度目にしても見事だった。無口と無愛想が服を着て歩くこの男も、馴染みの店での人付き合いは一応大切にしているようだ。
園美達の前で事件の話はできない。けれど他に愁と話せる適当な話題もない。
カプレーゼとワインで場を凌《しの》ぐ美夜が精一杯紡いだ言葉は、可愛いげとは程遠い憎まれ口だった。
「ラストオーダーにも間に合わない日が3ヶ月も続く? 次から次へと口から出任せが出るよね」
『出任せじゃなくて言葉のあや。本当はここに来るとお前に会いそうだから、わざと避けてた』
声を潜めたふたりの内緒話は厨房で作業をする園美と雪斗には聞こえまい。
「雪斗ー。美夜ちゃんも来たよ」
『いらっしゃい。神田さん、久しぶりだね』
「定休日にお邪魔してすみません」
『構わないよ。ちょうどもうひとり、お客様がいらしてるんだ』
雪斗の穏やかな眼差しがカウンターに注がれる。カウンター席に置かれたワイングラスがオレンジの灯りに煌めいて揺れた。
「……なんで……」
『奇遇だな』
ワイングラスを片手に、美夜を射抜く二つの瞳が三日月型に笑っている。何が面白いのか肩を震わせて失笑する木崎愁をねめつけて、美夜は彼の隣の席に腰掛けた。
「木崎さんとは私達が仕込みに来た時に表の道でバッタリ会ったの。美夜ちゃん、お夕御飯は食べた?」
「まだ……。忙しくて食べる暇がなかったんです」
『トマトクリームのパスタならすぐにご用意できますよ。神田さんトマトクリームお好きでしたよね』
客の好みを熟知する雪斗はさすがオーナーシェフだ。
こうも身体と心が疲れていると、只《ただ》でさえ億劫な食事がさらに面倒になる。美夜にとって食事とは、生命活動を維持する目的でしかない。
しかし誰かの手で作られたぬくもりが宿る食事は別だ。祖母の料理とムゲットの料理は、いつも美夜の心を救ってくれる。
ここは人肌が恋しい夜に辿り着いた唯一の居場所。東京で見つけた心許せる大切な場所。
「じゃあパスタを……」
『木崎さんもアラビアータの前につまみお出ししますね』
『お願いします』
美夜達のオーダーの準備に取りかかる白石夫婦を、美夜も愁も眺めている。数時間前に取調室で対峙していた男と貸切状態の店のカウンターにふたりきり。
何かを話したくても言葉が浮かばない。
『そんな嫌そうな顔するなよ。家が近所なら偶然会う確率はゼロじゃない』
「そちらの家は反対方向ですよね。ムゲットに寄るためでもないと、この道は通らないじゃない」
『ムゲットの定休日忘れてたんだ。あと、この道を通るのはムゲットに寄るためだけじゃない。誰かさんの家の通り道だからな』
聴取の名残の気まずさを引き連れているのは美夜だけらしい。澄まし顔の愁には、聴取で見せた翳《かげ》りの欠片も残っていない。
人の気も知らないで呑気に酒なんか飲んでる場合かと、吐き出したい毒も愁の甘い瞳に酔わされて吐けなくなった。
園美が愁と美夜の間にカプレーゼの皿を置いた。品よく盛り付けられたトマトが色鮮やかだ。
「二人ともご無沙汰だったから、どうしてるかなとは思ってたの。木崎さんは9月に美夜ちゃんと一緒に来店された時ぶりよね」
『そうですね。帰りが遅くてラストオーダーにも間に合わない日が続いていたんです』
愁の表と裏の顔の使い分けは、何度目にしても見事だった。無口と無愛想が服を着て歩くこの男も、馴染みの店での人付き合いは一応大切にしているようだ。
園美達の前で事件の話はできない。けれど他に愁と話せる適当な話題もない。
カプレーゼとワインで場を凌《しの》ぐ美夜が精一杯紡いだ言葉は、可愛いげとは程遠い憎まれ口だった。
「ラストオーダーにも間に合わない日が3ヶ月も続く? 次から次へと口から出任せが出るよね」
『出任せじゃなくて言葉のあや。本当はここに来るとお前に会いそうだから、わざと避けてた』
声を潜めたふたりの内緒話は厨房で作業をする園美と雪斗には聞こえまい。