〜Midnight Eden〜 episode5.【雪華】
 今頃、九条達は美夜の足取りを追っているだろう。
警察が掴める足取りはせいぜい美夜が溜池山王駅から新橋駅に向かい、新橋からゆりかもめ線を利用して芝浦ふ頭駅で下車したところまで。

そこから先の美夜の行動は目撃証言がなければ警察は追えない。芝浦南ふ頭公園への道すがら美夜は誰ともすれ違わなかった。目撃証言は皆無に等しい。

 警察が周辺道路の防犯カメラを捜索することを見越した愁は、芝浦南ふ頭公園の最寄りとなる芝浦出入口からは首都高に乗らず、渋谷区の富ヶ谷出入口より首都高中央環状線に乗り入れている。
美夜と愁の逃避行経路はまだ警察に知れていない。

 ひとつの家の同じ布団で目覚め、洗面台に並び立つ二人のかりそめの夫婦生活。今の美夜と愁は刑事でも指名手配犯でもない、どこにでもいるありふれた男女だ。

「髭伸びてるね。シェーバーは荷物に入ってなかったの?」
『ない。今日買ってくるか。でも髭あった方がよくない? 変装になるだろ』
「そうだけど……髭が肌に当たるとチクチクして痛かった」
『わかった剃りますよ。じゃないと、こういうこともさせてもらえないからな』

 洗顔を終えた愁の顔が美夜の首筋に沈んだ。二人きりの時はとことん甘えん坊になる愁の挙動に今さら戸惑いはない。

『お前も髪伸びた?』
「半年は切ってない。そろそろ切らないとって思ってたんだけど……切る必要もなくなっちゃったね」

 愁が一束すくった癖のない黒髪は胸の真上まで伸びていた。
警察官になってからはロングヘアとも無縁になった。ここまで伸びた髪を見るのは大学時代以来だ。

「長い髪の方がいい?」
『似合っていればどっちでもいい。けどロングの美夜も見てみたい』
「じゃあ伸ばそうかな」

 中身のない男と女の陳腐な会話劇。こんなくだらないやりとりをしたくなる心境の変化に、彼女自身が驚いている。

 ふたりは、ひとりでも生きていけた。
 ふたりは、ひとりでも寂しくなかった。
 ふたりは、ふたりを知ってしまった。

 彼女はやっとただの女になれた。
 彼はやっとただの男になれた。
 ふたりはふたりでいたかった。

 他人から見れば、ふたりが選んだ道は破滅の道。ここは楽園と見せかけた地獄の果てかもしれない。
でもふたりは“ふたり”を選んだ。
破滅の道にある刹那の幸せを噛み締める彼女と彼の顔には微笑みが宿る。

 これはふたりの“最後”と決めた恋だった。
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