〜Midnight Eden〜 episode5.【雪華】
 愁は口元を斜めにして笑った。長身の影はゆらりと揺れて九条に背を向ける。
九条はその背に向けて最後に問いかけた。

『なぁ、ジョーカーって一体何なんだ?』
『……トロイの木馬』
『は?』
『ギリシャ神話のトロイア戦争の話ですよ。帝国を崩壊させるために仕込まれたトロイの木馬、それがジョーカー……かもしれませんね』

 急に話題に挙がったギリシャ神話やトロイア戦争の知識が、九条にはすぐに思い出せない。元々ギリシャ神話には明るくなく、九条がトロイの木馬と聞いて浮かぶのはトロイア戦争ではなくコンピューターウイルスだ。

 霧のような細かな雨が降り始めた。鳥居の向こうに小さく見えていた黒い服の男は、傘も持たずに雨の街に消えていく。

『……主任、俺は上手くやれましたか?』

 九条が目を向けたのは女坂ではなく、女坂と隣のビルの敷地の狭間。茂みから姿を現した小山真紀が、コートの布地についた枯れ葉を払ってこちらに這い出てくる。

「まずまずかな。途中、刑事じゃなくてただの九条大河になってたね」
『木崎がただの九条大河を引き摺《ず》り出してくるんですよ。相手にしていてどっと疲れました。何なんだアイツ……』

肩をすくめた九条の隣に真紀が腰掛けた。穏やかな霧雨《きりさめ》はまだ地面を濡らすには至っていない。
朝に降っていた雨は日中は止んでいた。今は小降りな雨も、夜が深くなる頃に雨脚が強まるそうだ。

『女からすると、ああいう危なそうな男にハマってしまう気持ちはわかりますか?』
「私は好みじゃないけど……そうねぇ。恋愛でも友情でも自分に近い人間か自分と遠い人間か、人が縁を感じるのはどちらかだもの。神田さんは自分に近い人間に縁を感じてしまったのよ」

 言われてみれば恋人も友人も属性が近い人間か属性が遠い人間か、選ぶのはどちらかだ。
属性が近くも遠くもない、どちらでもない人間とは、言葉を交わす機会もないクラスメイトや同僚の関係で一生を終える。

「木崎愁は私の存在に気付いていた。私がいる側の狛犬に近付いた時には緊張したもの。階段を見るフリして、私を見ていた。あれはかなり手強《てごわ》いなぁ」
『関心してる場合ですか……。あそこに主任が隠れてるって木崎にバレバレだったんですよ?』

 ここに到着した愁は女坂側の狛犬を選んでそこにもたれていた。あの時の愁の位置では、反対側の狛犬の方が距離としては近かった。
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