〜Midnight Eden〜 episode5.【雪華】
半分の位置まで湯を張った浴槽は二人で入るには狭すぎる。浴槽の中で窮屈に折り曲げた脚の間に、愁は美夜を閉じ込めた。
ラベンダー色の発泡入浴剤がシュワシュワと音を立てて少しずつ小さくなり、人肌の温度が気持ちのいい湯船は、次第に透き通った綺麗な紫色に変化した。
美夜の肌に触れていた唇が湿り気を帯びている。口内も女の蜜の味が充満していた。
あれだけ激しく愛撫をしても抱かなかったのは初めてだ。下半身に残留する放出できなかった情念が、何故? と彼を問い詰めてくる。
抱かなかったのは、抱けなかったから。妊娠の恐怖に怯える美夜をまた不安の底に落としたくなかった。
『舞に雨宮の話をした。奴が伯父だと知ってパニックになってたよ』
「無理もないよね。私も雨宮のしたことを聞かされて吐き気がしたもの」
膝を抱えて身体を湯に沈める美夜のしなやかな背中にも、愁が刻み付けたキスマークがくっきり浮かんでいる。こうして見るとそれは薔薇の花弁に似ていた。
『だけど舞がもっとパニックになったのは、俺との本当の関係を知った時だった』
「本当の関係?」
『俺の父親も夏木十蔵だからな。舞は母親違いの俺の妹』
美夜が顔だけを後ろに向けた。かすかに開いた小さな口が、声を出さずに何か呟いている。
声のない美夜の呟きは「だから……」かもしれない、「なるほど……」だったかもしれない。
どちらにしろ彼女の表情に驚きは見えなかった。
「あなたが舞ちゃんを大切にしている理由がやっとわかった。妹だから、一生恋愛対象にならないのも納得」
『舞には申し訳なかったと思ってる。もっと早く俺が兄だと話していれば、舞は年相応の健全な恋愛ができたかもしれない』
鼻先で触れた美夜のうなじは、雨ではなくシャンプーの薫りに変わっていた。揃って洗った愁の髪も同じ薫りを放っている。
『舞にも伶にも話していない俺の昔話、聞いてくれる?』
「話の長さは逆上《のぼ》せない程度にお願いね?」
『了解』
引き寄せた彼女の細い肩に顎を乗せる。紫に染まる湯船の中で美夜と絡めた指が、海を揺らぐサンゴに見えた。
『俺が最初に殺した相手は自分の母親だ。母親を殺すことが、ジョーカーとしての最初の仕事だった。大学二年の夏の話』
「殺しの命令をしたのは夏木十蔵?」
『ああ。伶と舞の母親……紫音を自殺に追い込んだのが俺の母なんだ。夏木が誰よりも大切にしていたのは妻でも愛人でも子どもでもなく、雨宮紫音だからな。元凶が自分のくせに、夏木は俺に母親の始末を命じた。12年前の俺は父親に逆らう術《すべ》を知らないガキだったんだ』
忘れられない二十歳の夏。今となっては冷笑してしまう笑い話だが、あの頃の木崎愁は権力の象徴である父に見捨てられることを本気で恐れていた。
父に母を殺せと命じられた。
それが忠誠心と信じて疑わなかった未熟な青年は、だから殺すしかなかった。
ラベンダー色の発泡入浴剤がシュワシュワと音を立てて少しずつ小さくなり、人肌の温度が気持ちのいい湯船は、次第に透き通った綺麗な紫色に変化した。
美夜の肌に触れていた唇が湿り気を帯びている。口内も女の蜜の味が充満していた。
あれだけ激しく愛撫をしても抱かなかったのは初めてだ。下半身に残留する放出できなかった情念が、何故? と彼を問い詰めてくる。
抱かなかったのは、抱けなかったから。妊娠の恐怖に怯える美夜をまた不安の底に落としたくなかった。
『舞に雨宮の話をした。奴が伯父だと知ってパニックになってたよ』
「無理もないよね。私も雨宮のしたことを聞かされて吐き気がしたもの」
膝を抱えて身体を湯に沈める美夜のしなやかな背中にも、愁が刻み付けたキスマークがくっきり浮かんでいる。こうして見るとそれは薔薇の花弁に似ていた。
『だけど舞がもっとパニックになったのは、俺との本当の関係を知った時だった』
「本当の関係?」
『俺の父親も夏木十蔵だからな。舞は母親違いの俺の妹』
美夜が顔だけを後ろに向けた。かすかに開いた小さな口が、声を出さずに何か呟いている。
声のない美夜の呟きは「だから……」かもしれない、「なるほど……」だったかもしれない。
どちらにしろ彼女の表情に驚きは見えなかった。
「あなたが舞ちゃんを大切にしている理由がやっとわかった。妹だから、一生恋愛対象にならないのも納得」
『舞には申し訳なかったと思ってる。もっと早く俺が兄だと話していれば、舞は年相応の健全な恋愛ができたかもしれない』
鼻先で触れた美夜のうなじは、雨ではなくシャンプーの薫りに変わっていた。揃って洗った愁の髪も同じ薫りを放っている。
『舞にも伶にも話していない俺の昔話、聞いてくれる?』
「話の長さは逆上《のぼ》せない程度にお願いね?」
『了解』
引き寄せた彼女の細い肩に顎を乗せる。紫に染まる湯船の中で美夜と絡めた指が、海を揺らぐサンゴに見えた。
『俺が最初に殺した相手は自分の母親だ。母親を殺すことが、ジョーカーとしての最初の仕事だった。大学二年の夏の話』
「殺しの命令をしたのは夏木十蔵?」
『ああ。伶と舞の母親……紫音を自殺に追い込んだのが俺の母なんだ。夏木が誰よりも大切にしていたのは妻でも愛人でも子どもでもなく、雨宮紫音だからな。元凶が自分のくせに、夏木は俺に母親の始末を命じた。12年前の俺は父親に逆らう術《すべ》を知らないガキだったんだ』
忘れられない二十歳の夏。今となっては冷笑してしまう笑い話だが、あの頃の木崎愁は権力の象徴である父に見捨てられることを本気で恐れていた。
父に母を殺せと命じられた。
それが忠誠心と信じて疑わなかった未熟な青年は、だから殺すしかなかった。