そのモラハラ彼氏、いらないでしょ? ~エリート御曹司の略奪愛
「――ワークショップが終わって、さっき家に帰ったら……」

 その光景を思い出すと、落ち着いたかに見えた心がまた揺らぎ出す。泣くことはなかったが、声が詰まった。

「玄関に、女性の靴が……あって、それで」
「あぁ……。七瀬さん、もういいです。思い出さなくていいから」

 何があったかは、だいたい察してくれたのだろう。嫌なことを思い出さなくていいと言ってくれるのは、陣のやさしさだ。

「私が自分勝手だったんです――」

 そして、先日の帝鳳ホールディングスの帰り道から、今日に至るまでの事情を淡々と口にしたが、陣に聞かせるためというよりは、自分自身を振り返るためだった。

「自分のやりたいことだけを優先して、私は彼の望むことをできなかったから……」
「それは自分勝手とは違うでしょう? ヨガは七瀬さんの大事な仕事なんですから。センセーはたくさんの人に体を動かす楽しさや心身を労る方法を教えていて、それに救われている人は大勢いる。俺もその一人です」

「ありがとうございます。でも、私もそんなに卑屈に考えているわけではないんです。仕事は誇りに思っていますから。否定されるのは悲しいし、認めてもらえるよう努力しても、きっと届かない人には届かない。彼の気持ちを変える力も権限も、私にはありません。それは、私たちが付き合いの中で積み上げてきた結果です。でも、いつまでもその結果にかじりつくのではなく――」
「結果を手放す、ですか? よく七瀬センセーがレッスン中に言ってますよね」

 自分の伝えてきたことが、ちゃんと陣の中で受け止められていた。こんなにうれしいことはない。

「はい。集中すべきは行動や努力そのものに対してであって、その結果に過度な執着はしません。結果にこだわると、苦しいしストレスになりますから。自分の限界や状況を受け入れるのも、正直(サティヤ)に含まれるのではないかと。一番大事なのは、自分自身の心が平穏であること、平和であることですから。彼がこんな私に嫌気を覚えて他の女性の元に行くのも、すべては結果です」

 七瀬はマグカップを両手で握って膝の上に置くと、微かに笑って側机の上にある球体のランプを見つめた。
 やわらかいオレンジ色の光が、ささくれ立った心を包んでくれるようだ。
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