まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中
7 ディナーはまだ早いけれど
それからも北条は折につけ、由良の仕事を見に来てくれた。
由良は看護師を志したことがあったけど、医療現場で働いたことはない。だから実務についている北条のアドバイスはとても助けになった。
由良は、先生に教えてもらう生徒になったみたいだなぁと、ちょっと気恥ずかしい思い半分、うれしい気持ち半分でいた。
仕事で使うので医療の勉強は続けていたけれど、良い先生がずっとほしかった。その先生に北条はぴったりで、的確に由良に教えてくれる北条のことを尊敬していた。
……でも自分みたいな医療従事者でもない生徒に教えるのは、忙しい先生の時間をむやみに使わせていないかな。そんな気がかりで、来訪を断らないといけないのではとも思っていたとき。
「由良さん、ちょっと医務室に来ませんか」
昼前、分室で由良を見るなり北条が心配そうに声をかけた。
由良はそれを聞いて、やっぱり先生に気づかれてしまったと申し訳なく思った。
由良が時間休を取って医務室を訪れると、北条は白衣に着替えて由良を待っていた。
「口を開けて。……腫れてはいますが、扁桃腺ではありませんね」
北条は手早く由良の喉の状況を確認して、感染症の検査もした。幸い感染症の類は陰性だったが、その間も由良は絶え間なく咳をしていた。
「帰ります。先生にうつしたら申し訳ないですから」
由良は席を立とうとしたが、北条は険しい調子で制止した。
「待ってください。かなり苦しそうな呼吸が気になります。レントゲンも撮ってみましょう」
確かに由良はぜぇぜぇというような切迫した呼吸をしていた。言われるままにレントゲンを撮ると、北条はそれを見て目を鋭くした。
「すぐ病院に行きましょう。……おそらく肺炎になっています」
それから由良は北条の車で病院に連れていかれたらしいが、実は由良はあまり覚えていない。
呼吸のたびに苦しくて、熱も高いようで、周りのことをぼんやりとしか見ていられなくなったからだった。
夢か現実かあいまいな中で、北条がたびたび見舞いにきてくれたのを見ていた。由良はずっと呼吸器がついていて、話すこともできなかったけれど、北条が担当の医師とたびたび話しては、由良に「大丈夫ですよ」と励ましてくれたのを覚えている。
ようやく意識がはっきりしたのは、由良が入院して一週間が経った後だった。
「一週間!?」
見舞いに来た上川にそれを聞いて、由良はびっくりして声を上げた。
「落ち着いて、まだ安静にって言われてるんだから」
「わ、私の仕事どうなったんでしょうか? 突然で、ご迷惑をおかけして……!」
「大丈夫。北条先生が来て、「十日間は出勤できません」ってはっきり言ってたから」
由良はおぼろげな記憶で、北条が職場のことは心配いらないと言っていたのを思い出した。でもそこまで手を回していたのは初めて聞いた。
由良はばっと顔を上げて、息せき切って言った。
「すぐ出勤します! ごめんなさい、上川さんにも……!」
由良は申し訳ないやら、自分の失態に恥ずかしいやらで、焦って支度をしようとする。
でも上川は、そこはナースマンの迫力で反応した。
「だめったらだめ」
「むぐ……っ」
由良は上川の腕力で強制的にベッドに寝かされて、上から言い聞かせられる。
「仕事はみんなで分けてやってるから。由良さんは回復することだけ考えて。いい? 良くなるまで来ちゃだめだよ。……心配したんだからさ」
由良は上川がぼそりと付け加えた言葉が、一番言いたいことだったと気づいた。
由良は顔をくしゃりと歪めて、深く頭を下げる。
「すみません。良くなったら精一杯がんばります」
上川は由良の仕事を被ってしまっただろうに、明るく「そーそ。それでいいんだよ」と笑った。
由良はまた数日入院することになったが、担当の医師が由良に話してくれた。
「初動が遅ければもっと重篤な状態になっていました。北条先生に受診したのは適切でしたよ。元々救命医として前線で働いていらっしゃった方だからこそ、一刻を争うとわかったんでしょう」
「そうでしたか……」
由良はまた助けてもらったことも、先生に病院まで送ってもらったこともお礼を言わなければと思いながら聞いていた。
退院した日、由良は社員寮の北条の部屋を訪ねた。
北条は由良を部屋に入れてくれて、由良はまた菓子折を差し出しながらテーブル越しに向き合う。
「ありがとうございました! 先生には助けていただいてばかりで……」
「僕はいいんですよ。医師として当然のことです」
北条は優しく言葉を返すと、まだ心配そうに由良をのぞきこんで訊ねた。
「それより、由良さんは短期間に何度も調子を悪くされていますね。もしかして仕事で無理をされていませんか?」
由良はうつむいて、ずっと前からの自分のコンプレックスを答える。
「……虚弱体質なんです」
「子どもの頃からですか」
北条に問いかけられて、由良はうなずく。
「昔から肺炎は何度もかかりましたし、救急外来のお世話になったことも数えきれないんです。少し気を抜くとすぐに熱を出して、病気も拾いやすい。確かに今は仕事の繁忙期ではありますけど、体調を崩したのは私自身の体の問題です」
由良は顔を上げて、意を決したように言う。
「でも! 私も元気なときはありますし、そういうときは周りの人の助けになりたい。小さいときは自己嫌悪ばかりだったけど、今はそういう思いでいます」
北条はそれを聞いて、ほっと安らいだような顔で返した。
「それでいいんですよ。……周りはそんな由良さんに、救われているところがあると思います」
由良はそれを生徒のような顔で聞いて、ふいに北条にたずねた。
「先生にも何かお返ししたい。私に何かできることはありますか?」
由良がまっすぐに問いかけると、北条はいたずらっぽく問い返す。
「それはディナーのお誘いを受けてくださるということ?」
「え、えっと……」
由良が言葉に詰まると、北条は喉を鳴らして笑った。
「由良さん、僕はドクターである前に一人の男なんですよ。……好きな女性にプレゼントしたいものも、受け取りたいものもたくさんあります」
そういえばここは彼の部屋だったということに思い至って、由良は自分の慌てんぼうぶりに赤面する。お礼を言わなくてはということで頭がいっぱいで、そういうことにちっとも頭が回らなかった。
北条は辛抱強く由良の答えを待ってくれている。由良はおどおどしながら、下を向いて答えた。
「……ディナーは、まだどうしたらいいかわからなくて。でも、ランチなら……」
「本当ですか?」
北条は顔を綻ばせて言葉をかける。
「うれしいです。行きましょう、ぜひ」
「でも先生、忙しいんじゃないでしょうか? 外回りも多いですし」
「時間を作ります。日にちも今決めてしまいましょう。お店の希望はありますか?」
北条は喜色を隠さず乗ってくれて、由良ははにかみながらそれを聞いていた。
……先生とランチ、行っていいんだ。夢みたいだなぁ。
由良は思いがけず叶いそうな願いに胸を熱くして、来るその日を楽しみにしたのだった。
由良は看護師を志したことがあったけど、医療現場で働いたことはない。だから実務についている北条のアドバイスはとても助けになった。
由良は、先生に教えてもらう生徒になったみたいだなぁと、ちょっと気恥ずかしい思い半分、うれしい気持ち半分でいた。
仕事で使うので医療の勉強は続けていたけれど、良い先生がずっとほしかった。その先生に北条はぴったりで、的確に由良に教えてくれる北条のことを尊敬していた。
……でも自分みたいな医療従事者でもない生徒に教えるのは、忙しい先生の時間をむやみに使わせていないかな。そんな気がかりで、来訪を断らないといけないのではとも思っていたとき。
「由良さん、ちょっと医務室に来ませんか」
昼前、分室で由良を見るなり北条が心配そうに声をかけた。
由良はそれを聞いて、やっぱり先生に気づかれてしまったと申し訳なく思った。
由良が時間休を取って医務室を訪れると、北条は白衣に着替えて由良を待っていた。
「口を開けて。……腫れてはいますが、扁桃腺ではありませんね」
北条は手早く由良の喉の状況を確認して、感染症の検査もした。幸い感染症の類は陰性だったが、その間も由良は絶え間なく咳をしていた。
「帰ります。先生にうつしたら申し訳ないですから」
由良は席を立とうとしたが、北条は険しい調子で制止した。
「待ってください。かなり苦しそうな呼吸が気になります。レントゲンも撮ってみましょう」
確かに由良はぜぇぜぇというような切迫した呼吸をしていた。言われるままにレントゲンを撮ると、北条はそれを見て目を鋭くした。
「すぐ病院に行きましょう。……おそらく肺炎になっています」
それから由良は北条の車で病院に連れていかれたらしいが、実は由良はあまり覚えていない。
呼吸のたびに苦しくて、熱も高いようで、周りのことをぼんやりとしか見ていられなくなったからだった。
夢か現実かあいまいな中で、北条がたびたび見舞いにきてくれたのを見ていた。由良はずっと呼吸器がついていて、話すこともできなかったけれど、北条が担当の医師とたびたび話しては、由良に「大丈夫ですよ」と励ましてくれたのを覚えている。
ようやく意識がはっきりしたのは、由良が入院して一週間が経った後だった。
「一週間!?」
見舞いに来た上川にそれを聞いて、由良はびっくりして声を上げた。
「落ち着いて、まだ安静にって言われてるんだから」
「わ、私の仕事どうなったんでしょうか? 突然で、ご迷惑をおかけして……!」
「大丈夫。北条先生が来て、「十日間は出勤できません」ってはっきり言ってたから」
由良はおぼろげな記憶で、北条が職場のことは心配いらないと言っていたのを思い出した。でもそこまで手を回していたのは初めて聞いた。
由良はばっと顔を上げて、息せき切って言った。
「すぐ出勤します! ごめんなさい、上川さんにも……!」
由良は申し訳ないやら、自分の失態に恥ずかしいやらで、焦って支度をしようとする。
でも上川は、そこはナースマンの迫力で反応した。
「だめったらだめ」
「むぐ……っ」
由良は上川の腕力で強制的にベッドに寝かされて、上から言い聞かせられる。
「仕事はみんなで分けてやってるから。由良さんは回復することだけ考えて。いい? 良くなるまで来ちゃだめだよ。……心配したんだからさ」
由良は上川がぼそりと付け加えた言葉が、一番言いたいことだったと気づいた。
由良は顔をくしゃりと歪めて、深く頭を下げる。
「すみません。良くなったら精一杯がんばります」
上川は由良の仕事を被ってしまっただろうに、明るく「そーそ。それでいいんだよ」と笑った。
由良はまた数日入院することになったが、担当の医師が由良に話してくれた。
「初動が遅ければもっと重篤な状態になっていました。北条先生に受診したのは適切でしたよ。元々救命医として前線で働いていらっしゃった方だからこそ、一刻を争うとわかったんでしょう」
「そうでしたか……」
由良はまた助けてもらったことも、先生に病院まで送ってもらったこともお礼を言わなければと思いながら聞いていた。
退院した日、由良は社員寮の北条の部屋を訪ねた。
北条は由良を部屋に入れてくれて、由良はまた菓子折を差し出しながらテーブル越しに向き合う。
「ありがとうございました! 先生には助けていただいてばかりで……」
「僕はいいんですよ。医師として当然のことです」
北条は優しく言葉を返すと、まだ心配そうに由良をのぞきこんで訊ねた。
「それより、由良さんは短期間に何度も調子を悪くされていますね。もしかして仕事で無理をされていませんか?」
由良はうつむいて、ずっと前からの自分のコンプレックスを答える。
「……虚弱体質なんです」
「子どもの頃からですか」
北条に問いかけられて、由良はうなずく。
「昔から肺炎は何度もかかりましたし、救急外来のお世話になったことも数えきれないんです。少し気を抜くとすぐに熱を出して、病気も拾いやすい。確かに今は仕事の繁忙期ではありますけど、体調を崩したのは私自身の体の問題です」
由良は顔を上げて、意を決したように言う。
「でも! 私も元気なときはありますし、そういうときは周りの人の助けになりたい。小さいときは自己嫌悪ばかりだったけど、今はそういう思いでいます」
北条はそれを聞いて、ほっと安らいだような顔で返した。
「それでいいんですよ。……周りはそんな由良さんに、救われているところがあると思います」
由良はそれを生徒のような顔で聞いて、ふいに北条にたずねた。
「先生にも何かお返ししたい。私に何かできることはありますか?」
由良がまっすぐに問いかけると、北条はいたずらっぽく問い返す。
「それはディナーのお誘いを受けてくださるということ?」
「え、えっと……」
由良が言葉に詰まると、北条は喉を鳴らして笑った。
「由良さん、僕はドクターである前に一人の男なんですよ。……好きな女性にプレゼントしたいものも、受け取りたいものもたくさんあります」
そういえばここは彼の部屋だったということに思い至って、由良は自分の慌てんぼうぶりに赤面する。お礼を言わなくてはということで頭がいっぱいで、そういうことにちっとも頭が回らなかった。
北条は辛抱強く由良の答えを待ってくれている。由良はおどおどしながら、下を向いて答えた。
「……ディナーは、まだどうしたらいいかわからなくて。でも、ランチなら……」
「本当ですか?」
北条は顔を綻ばせて言葉をかける。
「うれしいです。行きましょう、ぜひ」
「でも先生、忙しいんじゃないでしょうか? 外回りも多いですし」
「時間を作ります。日にちも今決めてしまいましょう。お店の希望はありますか?」
北条は喜色を隠さず乗ってくれて、由良ははにかみながらそれを聞いていた。
……先生とランチ、行っていいんだ。夢みたいだなぁ。
由良は思いがけず叶いそうな願いに胸を熱くして、来るその日を楽しみにしたのだった。