まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中

8 最初の約束はほろ苦く

 由良が退院したばかりのことを気遣って、北条は少し日を置いてランチの日を設定してくれた。
 日取りは一週間後の土曜日。由良の春の仕事の山が終わる翌日でもある。
 由良は出勤すると、どきどきしながら卓上カレンダーのその日に丸をつけた。
「由良さん、調子どう? 無理しないでね」
「あ、ありがとうございます。こ、これご迷惑をかけたおわびに」
 同僚たちに声をかけられて、由良は慌ててお菓子を配って回る。
 ……そうだよ、みんなに迷惑をかけていたんだから、ランチで浮かれてちゃだめだってば。由良は自分を叱咤するものの、一週間後を思うと心が弾むのは止められなかった。
 由良は遅れを取り戻そうと、いつもに増してバタバタと忙しなく仕事を始めた。同僚たちが穴埋めをしてくれていたとはいえ、由良がいないと進まない部分も確かにある。由良はあちこちにお礼を言いながら、集まった統計を分析して資料を作った。
 幸い同僚たちの協力のおかげで、資料は後少しで完成だった。
 由良も、これなら何とか期限に間に合いそう……と安堵した矢先だった。
「あたし、今日で辞めますから」
 ところが期限の迫った前週の金曜日、由良にかかってきた一本の電話があった。
 それは男性社員たちに声をかけて回っていた、アルバイトの晴香からだった。
 今やめられたら間に合わない。由良はごくんと息を呑んで、自分を落ち着かせようとしながら言った。
「え、えと……期限まであと一週間です。もう少しがんばっていただけませんか?」
「十日も休んでた人が言うことじゃないでしょ。出勤させたいなら直接謝りに来てください。迷惑してたんですから」
 由良は慌てて言葉を選んで晴香に言う。
「お詫びは来てくださったらいくらでもします! お願いします!」
「……自分はいい子って顔してさ。取締役に庇ってもらわなきゃ何もできないくせに」
 晴香は電話口で低い声を出して、不機嫌に言い放つ。
「あんたみたいなのが一番むかつく! 責任取ったら?」
 電話を叩き切られて、由良はびくっと体を引きつらせた。
 呆然として恐る恐る受話器を置いた由良に、隣の席の上川が心配そうに言う。
「どうした? 何かもめてたみたいだけど」
「え、と……」
 由良はのろのろと顔を上げて、上川に説明を始めた。
 数分後、晴香とのやり取りを聞いて、上川は呆れたように言う。
「謝りになんて行く必要ないって! そんな子、辞めてもらった方がこっちのためだよ。どう考えても逆恨みなんだからさ」
「逆恨み……」
 由良がつぶやくと、上川はうなずいて苦い顔になる。
「北条先生を誘ったのに断られてたでしょ。あの子、いろんな社員に声かけたけど、北条先生には殊更何度もアプローチしてたからさ。……いや、あの子とランチ行った俺もちょっと思うとこあったからなんだけど」
 上川は何か言いかけて、首を横に振る。
「……それはいいや。とにかく北条先生が由良さんに甲斐甲斐しいのは、由良さんのせいじゃないんだから。あの子は大学のインターンシップだし、大学に連絡して対応を任せようよ」
 由良はまだショックから立ち直れないままだったが、ずっとそうしているわけにもいかない。
 由良は上川の言う通り、晴香の大学に連絡することにした。大学の方は晴香から何も聞いていなかったらしく、平謝りされて、月曜日には必ず行かせると約束してくれた。
 とはいっても晴香が休んだ分のシフトの交代や、期限が迫った集計に、由良の一日は大忙しだった。
 結局土曜日も少し仕事が食い込んで、週末の由良は疲れ切っていた。普段は寝過ごすこともほとんどないのに、日曜日は昼までぐったりして過ごしていた。
 週が明けて、月曜日になっても晴香は出勤してこなかった。それは大体想像していたので仕方がないが、由良の忙しさは目が回るほどだった。
 けれどここで期限が守れないのは、穴埋めをしてくれた同僚にも、たびたびアドバイスをくれた先生にも申し訳ない。その一心で、由良はかなり無理をしたものの、期限の金曜日にどうにか部長へ資料を提出した。
「お疲れ様、大変だったね。ありがとう」
 部長もここのところの由良の忙しさは承知していて、そっと労ってくれた。
「あっ……由良さん! 大丈夫!?」
 由良は部長の言葉を聞いて、思わずぺたんと座り込んでしまった。上川が席から飛んできて、由良は彼に手を借りてやっと立ち上がったくらい茫然自失だった。
 そんな調子だったものだから、由良はその日の晩から熱を出してしまった。
「由良さん、起きていますか?」
 北条は職場での由良のことを聞いたらしく、夜にアパートの由良の部屋に訪ねて来てくれた。
「はい……あ」
 北条は戸口に現れた由良を見て、くしゃりと顔を歪める。
「やっぱり熱がありそうですね。咳は……大丈夫そうですか。これ、良かったら飲んでよく寝てください」
 由良はふらふらしながら、北条に紙袋を渡された。中を見ると、熱さましとゼリー、冷却シートや飲み物がたくさん入っていた。
 北条は由良の顔をよく見て状況を確かめてから、優しく言った。
「仕事、お疲れさまでした。何も考えずに今日はよく休んで、明日調子が悪かったら声をかけてください」
「……先生」
 由良はじわりと目がにじんで、泣く直前の声で言う。
「すみません、ランチ、行けなくなっちゃって……」
「そのことはいいんです」
 北条は苦笑して、由良をのぞきこみながら返す。
「僕とのランチは、またいつでも行けますよ。由良さんは一仕事終えた。今はそれをよくやったと自分に言って、休んだらいいんです」
「先生は、優しすぎます……」
 由良がにじんだ声で言うと、北条はぽんと由良の頭を叩く。
「由良さんに好かれたいですから。頼ってもほしい。また元気になって笑う由良さんに会えたら、それで十分です」
 由良はやっぱり先生は優しいと思った。ディナーに誘っても逃げて、ランチさえ満足にできない由良でも、好かれたいと言ってくれる。
「おやすみなさい、由良さん」
 由良はまたにじんできた目をこすって、おやすみなさい、と言った。
 北条との初めてのランチの約束は、そんな苦い思い出になった。
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