まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中
9 嵐の吹き荒れるとき
虚弱体質は今更自分でよくわかっているのに、先生とのランチに行けなかったのが由良には悲しかった。
でも北条のくれた薬は確かによく効いた。それを飲んで、言われた通りよく休んだら、翌週の月曜日には出勤できるくらいに回復していた。
由良は出社して、また新しい期限に向かって新しい仕事に臨むことになった。今度は健康診断の検査機器のデータ解析。今までとは全然違う仕事だったけど、楽しみだった。
ただ前の仕事は、少し残っていた事案があった。提出期限から三日後、晴香が大学の担当者と一緒に、謝罪に訪れたのだった。
大学の担当者は恐縮した様子で頭を下げて言った。
「勝手にお休みして、ご迷惑をおかけしました」
上司と共に、由良は晴香の謝罪に立ち会った。ただ、謝っていたのも話していたのも大学の担当だけで、晴香は隣でふくれつらをしていただけだったから、上司の心証は良くなかっただろう。
由良と同席した上司は納得していないようだったが、ひとまずその場は収まって、由良は席に戻った。
新しい仕事に走り出そうとするときで、多少気が急いていたのかもしれない。その後、思いもよらない事態が由良を待っていた。
「話があるんだけど」
昼休み、お手洗いで由良は晴香に声をかけられた。どうやら待ち伏せされていたらしかった。
晴香の剣呑な目に、上川が言った逆恨みという言葉を思い返した。自分に良くない思いを持って声をかけてきたのは、何となく雰囲気でわかった。
お手洗いにいた同僚も、明らかに由良に心配そうな目を向けた。同僚に、大丈夫?と声をかけられて、由良は同僚を巻き込めないと思った。
由良は晴香の方を向いて、そっと告げる。
「わかりました。でもここは出ましょうか」
由良は同僚を安心させるように目配せして、先にお手洗いを出た。晴香は無言で、由良の後をついてきた。
昼時のオフィスは人通りが多く、二人きりになれるところを探すのは少し時間がかかった。
由良は空いた会議室をみつけると、先に入って晴香に振り向く。
「ここなら……」
そう、由良が声をかけたときだった。
由良は強く突き飛ばされて転んだ。その拍子に手をついて、手に擦り傷を負う。
「う……っ!」
でもそれで終わらなかった。由良は頭をつかまれて、会議机に押し付けられる。
ガン、と机に頭を打たれて、由良は痛みに喉をつまらせた。
「この馬鹿女。いい子の顔して、取締役にひいきされて。だからいいよね、もっと頭が悪くなるくらい」
「離し、て……っ!」
「いいもん。あたし、どうせ就職しないから。新しいバイトでイケメン探して結婚するだけだもん」
振りかざす滅茶苦茶な理屈に、由良は話が通じないことを悟った。けれど今は彼女の暴力から逃れるのが先だ。
由良は彼女の手を振り払おうとしてもがくが、会議机に打たれた頭がずきりと痛んで視界が歪む。頭から血がにじんだ気配も感じた。
……確かに自分は馬鹿なのかもしれない。一か月近く一緒に仕事をしたのに、この子の狂気的な性格に気づけなかったのだから。
由良はそんな考えても仕方のないことを考えて、定まらない視界に唇をかんだときだった。
「由良さん!」
そのとき、会議室に北条が飛び込んできた。北条はスーツ姿で、もう一人どこかで見た制服姿の男性が一緒だった。
「何をしてるんです!」
由良では晴香に手も足も出なかったが、北条はやはり男性だった。北条はすぐに晴香を引きはがすと、もう一人の男性が晴香の腕をつかんで確保した。
北条は膝をついて顔をしかめながら由良の状態を確認する。
「血が……頭を打ったんですね? 横になって、動かないで。救急車を呼びます」
「だい……丈夫、です」
「だめです。由良さんの大丈夫は信用ならない」
由良はそう言ったが、北条はその場で手早く救急車を呼んだ。
お医者さんってこういうとこ容赦ないなぁと、由良はこんな状況にもかかわらず苦笑いする。
騒ぎを聞きつけて人が集まってきていて、北条は手早く社員に指示を出す。
「医務室から救急セットを持ってきてください!」
きっとそれは、先生が来てくれたらもう大丈夫だと安心したからだ。由良はそんな自分に気づいて、大人しく横になって応急処置を受けていた。
ふいにもう一人の男性に腕をつかまれた晴香が、けたたましく怒鳴った。
「なんでよ! そんなかわいくもない、わざとらしい良い子ちゃんに!」
その言葉を、北条は鮮烈な怒りを持って聞いたらしかった。由良は聞いたこともない低い声で、晴香に言い返す。
「かわいいですよ。まじめで、誠実で」
北条は有無を言わせない調子で晴香に言葉を続ける。
「あなたこそ、ドクターの目を馬鹿にしていませんか? 結婚相手を狙うだけの理由で声をかけてきたのが、わからないとでも思っていますか」
北条は由良には決して向けなかった冷ややかさで断言すると、一緒に来た男性の方をちらと見て言う。
「……ところで、当社は警察官立ち寄り所だと知っていましたか」
晴香の顔色が変わる。恐る恐るというように男性を見上げて、彼から離れようとするが彼は決してつかんだ手を離す素振りがない。
北条は眼光鋭く晴香を見据えて言った。
「知り合いに弁護士もいます。大学生だからと容赦はしませんよ。二度と由良さんに近寄らないように、処置させてもらいますからね」
救急車が来るまで、晴香はもう言葉もなく震えていた。由良はそれが気がかりで、担架で運ばれるとき北条にそっと言った。
「本気じゃない……ですよね、先生。……まだ大学生なんです。こんなことで……」
「「こんなこと?」 由良さんを傷つけるなんて、僕には許せません」
北条はきっぱりと首を横に振って、けれど優しい目で由良を見下ろした。
「僕は結構冷たい人間なんですよ。そんな僕でも……由良さんには動揺させられっぱなしですが」
北条は由良の手を取って、安心させるように告げる。
「後のことは心配しなくて大丈夫です。自分のことだけ考えていてください」
北条は不安そうな由良を落ち着かせるように、一度強く由良の手を握ってくれた。
由良は救急車で搬送されたが、幸い脳に異常はなく、入院も一日で大丈夫だということだった。北条の応急処置も適切だったことがあって、傷を縫う必要もないと言われた。
自分って本当に病院と縁が切れないなぁ。由良はひとり自分に呆れて、でも無事でよかったと安堵の息をついていた。
……けれど、退院のとき。由良のところに、嵐をまとって現れた男性がいた。
「由良! 俺のところにいないからこういうことになるんだ」
彼は病室に入ってくるなり顔を歪めて、心配そうに由良を見下ろしたのだった。
でも北条のくれた薬は確かによく効いた。それを飲んで、言われた通りよく休んだら、翌週の月曜日には出勤できるくらいに回復していた。
由良は出社して、また新しい期限に向かって新しい仕事に臨むことになった。今度は健康診断の検査機器のデータ解析。今までとは全然違う仕事だったけど、楽しみだった。
ただ前の仕事は、少し残っていた事案があった。提出期限から三日後、晴香が大学の担当者と一緒に、謝罪に訪れたのだった。
大学の担当者は恐縮した様子で頭を下げて言った。
「勝手にお休みして、ご迷惑をおかけしました」
上司と共に、由良は晴香の謝罪に立ち会った。ただ、謝っていたのも話していたのも大学の担当だけで、晴香は隣でふくれつらをしていただけだったから、上司の心証は良くなかっただろう。
由良と同席した上司は納得していないようだったが、ひとまずその場は収まって、由良は席に戻った。
新しい仕事に走り出そうとするときで、多少気が急いていたのかもしれない。その後、思いもよらない事態が由良を待っていた。
「話があるんだけど」
昼休み、お手洗いで由良は晴香に声をかけられた。どうやら待ち伏せされていたらしかった。
晴香の剣呑な目に、上川が言った逆恨みという言葉を思い返した。自分に良くない思いを持って声をかけてきたのは、何となく雰囲気でわかった。
お手洗いにいた同僚も、明らかに由良に心配そうな目を向けた。同僚に、大丈夫?と声をかけられて、由良は同僚を巻き込めないと思った。
由良は晴香の方を向いて、そっと告げる。
「わかりました。でもここは出ましょうか」
由良は同僚を安心させるように目配せして、先にお手洗いを出た。晴香は無言で、由良の後をついてきた。
昼時のオフィスは人通りが多く、二人きりになれるところを探すのは少し時間がかかった。
由良は空いた会議室をみつけると、先に入って晴香に振り向く。
「ここなら……」
そう、由良が声をかけたときだった。
由良は強く突き飛ばされて転んだ。その拍子に手をついて、手に擦り傷を負う。
「う……っ!」
でもそれで終わらなかった。由良は頭をつかまれて、会議机に押し付けられる。
ガン、と机に頭を打たれて、由良は痛みに喉をつまらせた。
「この馬鹿女。いい子の顔して、取締役にひいきされて。だからいいよね、もっと頭が悪くなるくらい」
「離し、て……っ!」
「いいもん。あたし、どうせ就職しないから。新しいバイトでイケメン探して結婚するだけだもん」
振りかざす滅茶苦茶な理屈に、由良は話が通じないことを悟った。けれど今は彼女の暴力から逃れるのが先だ。
由良は彼女の手を振り払おうとしてもがくが、会議机に打たれた頭がずきりと痛んで視界が歪む。頭から血がにじんだ気配も感じた。
……確かに自分は馬鹿なのかもしれない。一か月近く一緒に仕事をしたのに、この子の狂気的な性格に気づけなかったのだから。
由良はそんな考えても仕方のないことを考えて、定まらない視界に唇をかんだときだった。
「由良さん!」
そのとき、会議室に北条が飛び込んできた。北条はスーツ姿で、もう一人どこかで見た制服姿の男性が一緒だった。
「何をしてるんです!」
由良では晴香に手も足も出なかったが、北条はやはり男性だった。北条はすぐに晴香を引きはがすと、もう一人の男性が晴香の腕をつかんで確保した。
北条は膝をついて顔をしかめながら由良の状態を確認する。
「血が……頭を打ったんですね? 横になって、動かないで。救急車を呼びます」
「だい……丈夫、です」
「だめです。由良さんの大丈夫は信用ならない」
由良はそう言ったが、北条はその場で手早く救急車を呼んだ。
お医者さんってこういうとこ容赦ないなぁと、由良はこんな状況にもかかわらず苦笑いする。
騒ぎを聞きつけて人が集まってきていて、北条は手早く社員に指示を出す。
「医務室から救急セットを持ってきてください!」
きっとそれは、先生が来てくれたらもう大丈夫だと安心したからだ。由良はそんな自分に気づいて、大人しく横になって応急処置を受けていた。
ふいにもう一人の男性に腕をつかまれた晴香が、けたたましく怒鳴った。
「なんでよ! そんなかわいくもない、わざとらしい良い子ちゃんに!」
その言葉を、北条は鮮烈な怒りを持って聞いたらしかった。由良は聞いたこともない低い声で、晴香に言い返す。
「かわいいですよ。まじめで、誠実で」
北条は有無を言わせない調子で晴香に言葉を続ける。
「あなたこそ、ドクターの目を馬鹿にしていませんか? 結婚相手を狙うだけの理由で声をかけてきたのが、わからないとでも思っていますか」
北条は由良には決して向けなかった冷ややかさで断言すると、一緒に来た男性の方をちらと見て言う。
「……ところで、当社は警察官立ち寄り所だと知っていましたか」
晴香の顔色が変わる。恐る恐るというように男性を見上げて、彼から離れようとするが彼は決してつかんだ手を離す素振りがない。
北条は眼光鋭く晴香を見据えて言った。
「知り合いに弁護士もいます。大学生だからと容赦はしませんよ。二度と由良さんに近寄らないように、処置させてもらいますからね」
救急車が来るまで、晴香はもう言葉もなく震えていた。由良はそれが気がかりで、担架で運ばれるとき北条にそっと言った。
「本気じゃない……ですよね、先生。……まだ大学生なんです。こんなことで……」
「「こんなこと?」 由良さんを傷つけるなんて、僕には許せません」
北条はきっぱりと首を横に振って、けれど優しい目で由良を見下ろした。
「僕は結構冷たい人間なんですよ。そんな僕でも……由良さんには動揺させられっぱなしですが」
北条は由良の手を取って、安心させるように告げる。
「後のことは心配しなくて大丈夫です。自分のことだけ考えていてください」
北条は不安そうな由良を落ち着かせるように、一度強く由良の手を握ってくれた。
由良は救急車で搬送されたが、幸い脳に異常はなく、入院も一日で大丈夫だということだった。北条の応急処置も適切だったことがあって、傷を縫う必要もないと言われた。
自分って本当に病院と縁が切れないなぁ。由良はひとり自分に呆れて、でも無事でよかったと安堵の息をついていた。
……けれど、退院のとき。由良のところに、嵐をまとって現れた男性がいた。
「由良! 俺のところにいないからこういうことになるんだ」
彼は病室に入ってくるなり顔を歪めて、心配そうに由良を見下ろしたのだった。