〜Midnight Eden Sequel〜【Blue Hour】
 片付けに追われる綾菜を二本の腕が拘束する。綾菜を後ろから抱き締めた日森は彼女の耳に熱い吐息を吹きかけた。

「日森くん。止めて」
『いいじゃん。今日、綾菜さんの家に行っていい?』
「私達は別れたでしょう。前に言ってた大学の後輩の子とはどうなったのよ?」
『あー……アレはもういいや。俺は年下より年上が合うんだ。久しぶりに相手してよ。綾菜さんが恋しい』
「私の身体が、恋しいの間違いじゃないの? ねぇ、本当にもう止めてってば」

耳たぶから首筋に日森の舌が這った途端、綾菜の身体に悪寒が走る。

『家がダメなら、このままここでヤッちゃうけどいい? ここで声出したら宮越先生に聞かれるかな』
「止めて。わかった。わかったから……っ」

 顔を上げた先に待ち構えていた日森の唇。優しさの欠片もない、男の性欲をぶつけるだけの気持ちの悪いキスに吐き気がしそうだ。

 二階堂も日森も山野も、綾菜にしてみれば同類だ。そしてどの男も自分はあの男とは違うと本気で思っているのだから、なんとも滑稽な話だった。

『綾菜、こっちにいるか?』
「……っ、先生っ!」

 宮越の声に怯んだ日森の一瞬の隙に、彼女は日森の不埒な拘束から逃れた。

二階のアトリエからバーに降りてきた宮越の目に飛び込んできた光景は、乱れた髪を手ぐしで撫で付け、胸元ではだけたシャツのボタンを必死で直す綾菜の姿だ。何があったか、誰が見ても一目瞭然だろう。

 宮越の非難の眼差しから逃げるように日森はバーを立ち去った。大きな溜息を繰り返す綾菜を包む大きな影は、先ほどの日森とは違って優しくて温かい。

『大丈夫だったか?』
「先生……。ごめんなさい」
『また日森くんにしつこくされてるのか。このままだと、彼にはここを辞めてもらうことも考えないといけないな』
「日森くんがいなくなったら、新しい人を雇わないといけないし……。またお気に入りの女の子ができれば私から離れますよ。それまでの辛抱です」

 髪を優しく行き来する宮越の痩せこけた手を綾菜は愛していた。この3年でずいぶんと老けた画家の左手を取って、彼女は自分の頬にそっと擦り寄せた。

まるで犬猫が喉を鳴らして飼い主に甘えているようだ。宮越の手のひらに頬を寄せ、時折甘い吐息を吐いては、彼の手のひらや手の甲に口付けた。

『綾菜……』
「先生」

 互いの名を呼び合う声は、誰にも聞かせられない。聞かせてはならない。
ふたりの声はとてもとても、甘ったるい。

 なんて愛しい、幸せなひととき。
ここに生じる熱は、愛か、恋か、他のものか。どれでもあってどれでもないと、心でひとりごちした綾菜は愉《たの》しげに微笑しながら、目の前の画家に一言、囁いた。

「先生、私は大丈夫ですよ」

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