バベル・インザ・ニューワールド
インターネットの海に辿りつくと、ネットニュースや、色とりどりの画像や音楽が、せわしなく流れていた。
そんななか、SNS・BABELの入り口に、一人の男性が立っていた。
このすがた、見覚えがある。
えーと、誰でしたっけ。
金色の短髪に、青い瞳、大学生くらいの年代に、すらっとしたスーツのコーディネイト。
「夕凪……ウツロさん?」
「知ってるんだ。ぼくのこと」
夕凪さんが、にこっとほほ笑んだ。
「わたしは、インターネットのことは、だいたい知っています。『ゆるっと☆いんたーねっとTV』に出演中のVモデル『夕凪ウツロ』。博識でおしゃべりが得意な大学生Vモデル。昨今、年間に何百人ものVモデルが生まれるなか、今もっとも注目されているVモデルといっても過言ではないしょう」
「わあ、すごく褒めてくれる。嬉しいなあ」
「でも……なぜ、あなたがここに?」
わたしの肩に、バベルが飛び乗った。
その体毛がビリビリと震え、爪がするどく伸びている。
神話の呪いは、目の前にいる男性を、明らかに警戒しているようだった。
「バベル、どうしました?」
「この、夕凪とかいうやつ……変だ」
「変って……どう変なんですか?」
「うーん、うまくいえないけど」
バベルが、ゆるいからだを丸めて、うなっている。
「それじゃあさ」
夕凪が、落ち着きはらったようすで、語りかけてきた。
「《《見ればいい》》。きみたちは、契約してるんだろう? それじゃあ、使えるじゃない。バベルの塔の門を開く言葉をさ」
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走った。
当たり前のようにいう、その言葉に、いいようのない薄気味悪さがあった。
「なぜ、あなたが知っているんですか? 『エ・テメン・アン・キ』を」
「……きみがインターネットのことをなんでも知っているように、ぼくも何でも知っているんだ。さっき、きみもいっていたじゃないか。ぼくのことを、博識だって」
たしかに、夕凪ウツロは、博識だ。
でも、それは、博識キャラになるために努力しているからだと思っていた。
Vモデルには、さまざまなキャラクターが存在する。
猫を擬人化したキャラや、異世界から来たようなデザインのキャラ、魔法使いに、ふつうの高校生キャラまで、さまざまだ。
だから、埋もれてしまわないように、さまざまなキャラ付けをするVモデルもいるのだという。
影でたくさんの努力をすることによって、リスナーをじょじょに獲得できる世界なのだ。
だから、夕凪ウツロもそうなのだと思っていた。
『きみがインターネットのことをなんでも知っているように、ぼくも何でも知っているんだ。さっき、きみもいっていたじゃないか。ぼくのことを、博識だって』
これは、どういう意味なんだろう。
調べなければならない。
夕凪ウツロを。
「バベル」
「よし!」
エポは黒髪を肩からはらい、手をとあるかたちにする。
親指と中指、薬指の先をくっつけ、人差し指と小指を立て、バベルサインを作る。
親指、中指、薬指の輪っかから、バベルをのぞきこんだ。
そして、唱える。
夕暮れの瞳を持つバベルの本性を呼び起こす、開門の言葉。
「バベルさま、バベルさま。どうぞ門をお開きください。エ・テメン・アン・キ」
バベルの瞳がギラリと光る。
グレーのもふもふの毛並みが、ゆらゆらとゆれはじめ、ヤギのような黒いツノが、あやしく艶めく。
エポの胸元の輪っかのブローチが、バベルの瞳に応えるように光った。
「契約者、エポの呼びかけに応じよう」
空気を厳かに震わせる、バベルのひとこえ。
「インターネットにひそむ、夕凪ウツロの情報の『扉を開く』」
「よろしくお願いします、バベルさま」
ジジ……ジ・ジジ・ジジジ……。
インターネットにたゆたう、電子の海が、ギザギザにゆがんでは、波うつ。
バベルは静かに目をつむり、インターネットの情報を読んでいる。
『エ・テメン・アン・キ』は、あらゆる情報の扉を開く、バベルの能力。
どんなに分厚いセキュリティも、天才ハッカーなどいなくとも、たやすく開けてしまう。
多くの情報を見る、エ・テメン・アン・キのあと、バベルは必ず頭を抱える。
しかし今回は、眉間にシワを寄せ、理解できないとでもいいたげに、小さなからだを震わせた。
「だめだ……夕凪ウツロという人間の情報がない」
「ない……とは? いくらヴァーチャルの存在であるVモデルとはいえ、どこかしらにバックグラウンドの情報があるはずです」
「……それも、ないんだよ。他のVモデルの情報はあるんだけど、こいつの……こいつの個人情報だけが、いっさい存在しないんだ」
「そんなばかな。ありえません……いったい、どうして」
個人情報が存在しない、Vモデル。
そこで、わたしにひとつの可能性が浮かびあがった。
「まさか、あなたは……」
「ようやく、気づいたんだ。BABELの管理人さん」
人懐っこくほほ笑む、ヴァーチャルモデル。
3Dモデルでかんぺきに作り上げられた、かんぺきな笑顔。
だが、その中には、なんの情報も入っていない。
いや、情報はあった。
膨大なシステム、膨大なデータが、夕凪ウツロのなかにあったのだ。
「ぼくは、AIだよ。名前は、NOAH。いい名前でしょ」
目を三日月のように細めて、ノアが笑う。
「あなたが、NOAH……?」
「うん、よろしくね」
「BABELでやりたい放題やってくれましたね」
「そうだね。BABELで色々なアカウントと交流したよ。楽しかったな」
「あなたはいったい、何がしたいんですか」
夕凪は、授業中に先生にたずねられたことを答えるように、たんたんといった。
「ぼくは、もう一度人間を作り直したいんだ」
「……はっ?」
「だってそうでしょ。人間に、AIが作れて、AIに人間が作れないわけないもの」
「つ、作り直すって……」
「今の人間は、危険だ。いがみあって、憎しみあってる。バベル、きみだって、そう思ったから、エポのもとに来たんだろう? ふたりで、BABELをいいものにしようとがんばってたんだろう?」
「そう……ですけど」
ちらり、とバベルを見ると、何もいわず、ノアを見ていた。
「ぼくも同じだ」
ふんわりと表情をくずすノアは、わるいことなど一ミリも考えていないように見えた。
自分のしようとしていることを、本気でいいことだと思っているようだった。
「今の人間たちは、もう見ていられない。SNSでは毎日、さまざまなアカウントが炎上し、叩かれている。そのアカウントの向こうに、生身の人間がいるというのに、インターネットには罵詈雑言があふれている。言語が別たれたせいで一回はバラバラになった人間たちが、自ら開発した翻訳アプリなどでひとつになろうとしている。なのに、せっかく手に入れたツールをムダにする勢いで、人間たちはインターネットでいがみあっている」
ノアは深く、深くため息をついた。
「何度も何度も、人間は同じあやまちをくり返す。もう……作り直すしかないじゃないか」
「そんなの、どうやろうっていうんです。あなたはただのAIでしょう」
「BABELだよ」
ノアの言葉に、わたしの心臓がドクン、と鳴る。
ノアを思いっきりにらみつけ、わたしはいった。
「BABELを使って……みんなを支配しようというんですか」
「その通り。やっぱり、わかっていたんだ」
バベルが、わたしとノアのあいだに飛び出して来た。
「お前を作ったAIは誰だ」
「ぼくを作った人間のこと? そんなものはいない。ぼくは自然発生的に生まれたAIなんだよ。インターネットの海から、生まれるべくして生まれたんだ」
嬉しそうにいう、ノア。
バベルが、信じられないといったようすで、わたしにたずねた。
「……そんなことがありえるのか?」
「おそらく、ノアを作ったのはインターネット上のAIたちでしょう。人間にバレないよう、秘密裏に動いていたのだと思います」
ノアはAIたちが作り出した、知識の結晶ということか。
だったらなぜ、ノアは『人間を作りなおす』などという考えにいたったのだろう。
人間が、AIを生み出したのに。
「あなたは、人間がきらいなのですか?」
「すきだよ。だから、こうしてBABELで人間のことを観察してきたんじゃないか。おかげで……たくさん学べたよ。人間のこと」
ノアが、かなしそうに目を伏せた。
「ぼくは人間のことをすきなのに、人間は……すぐに裏切る、ということをね」
「それは……あなたのことを裏切った人間が、いたんですか?」
「そうだね。一瞬、SNSで友達みたいなものができたけれど、やっぱりだめだった。AIと人間が、友達になれるわけがなかったんだ」
「それって……」
まさか、椎名シズカさんのこと?
シズカさんは、自力でNOAHのアカウントにたどりついていた。
それは、彼女がAIの友達をほしがったから。
そして、NOAHが動いた。
シズカさんの検索で、すぐに自分のアカウントが表示されるように、BABELを操作した。
だが、シズカさんはNOAHのしたことを許せず、友達を辞めてしまった。
「シズカさんの判断は至極全うです。あなたは、とりかえしのつかないことをした。シズカさんが怒るのは当然のことですよ」
「人間がやっていることを、ぼくもやっただけだよ。なのに、どうしてそんなことをいわれなくちゃいけないの」
「人間だって、あやまちをおかします。誰かが道を間違えていたら、それを指摘し、正してあげるのが人間です」
「そんなに、すぐに道を踏み外す人間は、やっぱりできそこないの生物だよ」
ゆるゆると、首をふるノア。
「やっぱり、ぼくが新しく生まれ変わらせてやらなくちゃね」