嘘つきと疫病神
 写真立てを棚の上に置き、促されるままに来客用のテーブル席に男の子と向かい合って座る。
 差し出された湯呑みには透明の液体が入っており、口にすると無味である。体を冷やさないように白湯を用意してくれたのだと気づくのに少々時間が必要だった。
 しかし不純物が何も含まれていないものを口にしたなどいつぶりだろうか。とっくにそんな過去のことなど忘れてしまっていて、飲み物というと家の裏にある井戸水くらいである。
 屋根がある温かい建物に気遣いが詰まった白湯、男の子が向ける微笑みが少しづつ身体を支配していた緊張感を溶かしていった。

「そういえば、名前聞いてなかったな。俺、風柳仁武(かぜやなぎじん)
「えっと、時雨蕗(しぐれふき)
「蕗か。綺麗な名前だな」

 男の子改め、仁武にとってその発言は何気ないものだったのだろう。飾られている写真を眺める目に、自分は映っていない。
 けれど今はその方が都合が良かった。顔全体が焼かれたように熱を帯び、林檎のように赤く染まってしまっていたからだ。
 何も返せずに湯呑みの中に視線を落としていると、暖簾が揺れて老婆が再び姿を現した。

「さてさて、風呂が沸いたよ。お嬢ちゃんおいで」

 老婆に手招きをされ、仁武に視線を送ると「行っておいでよ」と背中を押された。
 まだまだ幼さが残る声であるのに何故か安心する。仁武の声は何度も勇気を与えてくれて、何度も背中を押してくれた。
 老婆に連れられて風呂場に行くと、問答無用で布切れのような服を脱がされた。突然のことに蕗は服を剥ぎ取ってその場に蹲る。
 裸を見られたことよりも、痩せ細った身体に刻まれる傷を見られることが何よりも恐ろしかった。

「その傷……」
「見ないで、ください。……見ないで」

 見放される、化け物と罵られて追い出される。恐怖に身体を震わせて呻けば、何を思ったのか老婆がそっと抱き締めてきた。
 何が起こっているのか分からずゆっくりと顔を上げると、微かに震え嗄れた声が耳に届く。

「怖かっただろう、痛かっただろう。ここには貴方を傷つける奴なんていないから、落ち着くまでいるといいよ」

 「こんな小さな体で、怖かったね」と老婆は傷だらけの背中を擦りながら何度も呟いた。
 傷口に触れられる度にあの地獄のような日々が脳裏に蘇る。鬼の形相で拳を振り上げる母、自分は抵抗もせずただされるがままにその痛みに耐えていた。
 けれどこの老婆は、その痛みを共に感じることはできなくても、寄り添おうとしてくれている。
 そのことが嬉しくて、救われた気がして、気がつけば視界が涙で歪んでいた。

「もう怖がらなくて良い。温かい風呂に入って、ゆっくり身体を休ませるんだよ」

 初めての風呂に入れば、その暖かさにまた視界が歪む。湯船に肩まで浸かれば涙が水滴に混ざり合って消えていった。おかげで老婆にまた泣いていることが知られずに済んだ。
 風呂を出ると、老婆が新しい服を用意してくれていた。ツギハギだらけで見窄らしいが、元々身につけていたものよりよっぽど上等な服である。いわゆるモンペという服だ。
 真新しい姿で写真館に戻ると、仁武が驚きつつも優しい笑顔で出迎えてくれた。
 蕗の身体に刻まれた傷跡は老婆と蕗のみが知る秘密になってしまったが、仁武は知る必要のないことである。

 この秘密は知られたくない。今も、これから先も。
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