野いちご源氏物語 〇五 若紫(わかむらさき)
北山(きたやま)尼君(あまぎみ)はご病気が少しよくなって、(みやこ)のお屋敷に戻っておられた。
源氏(げんじ)(きみ)はときどきお手紙を差し上げたけれど、お返事はあいかわらず、
(ひめ)はまだ幼いので」
とおっしゃるだけ。
四月に藤壺(ふじつぼ)女御(にょうご)様とお会いになってから、源氏の君のお心は女御様でいっぱいで、姫君に対してはそれ以上のこともなく月日が経っていたの。

九月、源氏の君はひさしぶりにある恋人を訪ねようとなさった。
月が美しい夜だったけれど、急に雨が降って来たの。
「まだ目的の家までは距離があるのに、どうしようか」
と思っていらっしゃると、ちょうど尼君のお屋敷が近くにある。
ずいぶん荒れてしまって、お庭は薄暗い。

家来の惟光(これみつ)が、
「尼君の亡き夫である大納言(だいなごん)様のお屋敷でございますね。先日お訪ねしましたら、尼君はひどくご衰弱(すいじゃく)なさっていると女房(にょうぼう)が申しておりました」
と申し上げる。
源氏の君は、
「ご病気は少しおよろしくなったはずではなかったのか。お見舞いにうかがわなければ。私が来ていることをお伝えしてまいれ」
とお命じになる。

尼君の女房は突然のご訪問に驚いた。
「源氏の君がわざわざお見舞いにお越しくださるとは、なんと恐れ多いこと。尼君はひどくご衰弱なさって、とてもお会いできる状態ではいらっしゃらないけれど、お見舞いをお断りするのも申し訳ない」
と思って、いそいで尼君のお部屋を整えてお迎えしたわ。

女房は、
陰気(いんき)なところにお通しして恐縮でございます」
と申し上げる。
源氏の君が、
「ご病気は快方(かいほう)に向かわれたとばかり。お見舞いが遅れまして失礼いたしました。いつもご心配申し上げておりましたが、私をお認めいただけませんので、こちらのお屋敷に参るのも気が引けましたのでございます」
とおっしゃると、尼君はいつになく弱気なご様子でお答えになる。

「体調がすぐれないのはいつものことでございますが、もう先は長くないと思われます。最期(さいご)にあなた様にお見舞いいただきまして、恐れ多いことでございます。もう声もほとんど出ませんので、女房を通してしかお話しできません。お許しくださいませね。
姫のこと、何年かしてあなた様のお心がお変わりにならなければ、きっと、きっと、愛してくださいますように。頼る人もいない状態でこの世に残していくことが、ただひとつの気がかりでございます」

ついたてが間にあるので、源氏の君から尼君のお姿はご覧になれないけれど、すぐ近くに寝ていらっしゃるの。
だから、すっかり弱ってしまわれたお声がとぎれとぎれに聞こえてくる。
尼君が女房に、
「本当に恐れ多いこと。姫がもう少し大人びていてお礼を申し上げられたらよいのだけれど」
とおっしゃっているようなのも源氏の君のお耳に入る。

源氏の君は尼君がお気の毒で、なんとか安心していただこうとお思いになる。
「私は姫君(ひめぎみ)一目(ひとめ)ぼれしたのでございますよ。必ずお幸せにいたします。姫君はどちらにおいでですか。お声をお聞かせください」
と、尼君の前で姫君とご将来をお約束しようとなさる。
女房が申し訳なさそうに、
「何もお分かりでないご様子で、もうおやすみになってしまわれました」
とお答えしていると、奥から小さな足音が聞こえたの。

「おばあ様、おばあ様」
と姫君が尼君に話しかけた。
ついたての向こうに源氏の君がいらっしゃることをご存じない。
「源氏の君がいらっしゃっているのでしょう。ほら、お起きになって、お姿をこっそりご覧なされませ。源氏の君はどちらにいらっしゃるの?」
と、尼君を助け起こそうとなさる。
女房はあわてて、
「姫様、お静かになされませ」
とご注意するけれど、姫君は胸を張って、
「でも、おばあ様は北山のお寺で、源氏の君を拝見したらご気分がよくなったと(おお)せだったのよ」
とおっしゃる。

源氏の君は思わず笑ってしまいそうだったけれど、女房たちに気の毒なので、聞こえないふりをなさっていた。
丁寧にお見舞いをお伝えしてお帰りになる。
乗り物のなかでかわいらしかった姫君を思い出して、
「本当に子どもでいらっしゃるな。よく教えて育ててさしあげよう」
とほほえまれたわ。

次の日もお見舞いのお手紙をお送りになる。
また小さな恋文(こいぶみ)が入っていて、
「あなたのかわいらしいお声を聞いて、ますますあなたにお会いしたくなりました。ずっとあなたを思っていますよ」
と、わざと子ども向けに、まねしやすいように書かれていた。
それがまた見事なご筆跡(ひっせき)で、そのまま姫君のお習字のお手本になったわ。

姫君の乳母(めのと)からのお返事には、
「尼君はご危篤(きとく)状態で、これから北山(きたやま)のお寺にお移りになります。お見舞いのお礼は、あの世から申し上げることになられましょう」
とあった。
源氏の君は、
「最期の最期まで姫君のご将来をご心配なさって亡くなるのだろう。おいたわしいことだ」
とお思いになった。

源氏の君は、藤壺の女御様をどれほど思っても手に入れられないもどかしさから、せめて女御様の(めい)にあたる、よく似た姫君を手に入れたいと思われていたの。
今のところは姫君を恋しく思われているけれど、それが本物のご愛情になっていくか、はたまた姫君に何か欠点を見つけてがっかりなさるか、そこはまだ源氏の君にもお分かりにならない。
「とにかく手に入れたいのだ。藤壺の女御様と血のつながった、あの幼い姫君を」
と独り言をおっしゃった。

(ふじ)の花は紫色。
藤壺の女御様が紫なら、その姪の幼い姫君は若い紫ね。
それでこの幼い姫君を、これからしばらく「若紫(わかむらさき)(きみ)」ともお呼びいたしましょうか。
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