野いちご源氏物語 〇五 若紫(わかむらさき)
藤壺の女御様がご病気になられ、内裏からご実家に戻られたの。
源氏の君は、帝がとてもご心配なさるのをお気の毒なことだと拝見しながら、
「あのひとにお会いできるのは今しかない」
とお思いになっている。
お心は体から離れて藤壺の女御様のところへさまよっていく。
左大臣邸にも、恋人たちのところにも行っている余裕はないの。
昼間は、内裏にいらっしゃっても二条の院にいらっしゃっても、ぼんやりなさっている。
日が暮れれば藤壺の女御様のご実家へ行き、王命婦という女御様のおそばでお仕えしている女房にお願いなさる。
「藤壺の女御様にお会いしたい」と。
藤壺の女御様は、源氏の君の父である帝がこよなく愛するお妃様よ。
その藤壺の女御様を、恐れ多くも源氏の君は愛していらっしゃった。
王命婦がどのようにお連れしたのか、ある夜、源氏の君は女御様のご寝室にお入りになった。
目の前に女御様がいらっしゃっても、お抱きしめになっても、源氏の君はこれが現実だとはお信じになれない。
いつものむなしい夢かもしれないと思っていらっしゃる。
女御様は源氏の君のお腕のなかで、つらかったあのことを思い出しておられた。
前回もこうして、源氏の君は突然ご寝室に入っていらっしゃったの。
「あの一度でも帝に対して恐れ多く、申し訳のないことだったのに」
と苦しんでいらっしゃる。
ふつうの人妻でもこんなことはいけないけれど、女御様は帝のお妃様だもの。
絶対にこんな間違いがあってはならないのよ。
実際のところ、女御様はたしかに源氏の君を憎みきってはおられない。
かといってご自分も源氏の君を愛するわけにはいかないし、騒ぎたてて人を呼んでも誰のためにもならない。
源氏の君におだやかに満足してもらって、これ以降の過ちは避けるしかないの。
つまり、無かったことになさるしかない。
そうお悟りになっているご様子が、源氏の君には奥ゆかしくて上品でかわいらしいと見えてしまうのだから、皮肉なものよね。
源氏の君は、
「やはりこの方は特別だ。どうしてこんなに完璧でいらっしゃるのだろう。欠点がなければ、嫌うことも忘れることもできないではないか」
とつらく思っていらっしゃった。
お話しになりたいことは山ほどあった。
夜が永遠に続いてほしいとお思いになった。
源氏の君は子どものように泣きながら、
「もうお会いできませんでしょう。夢のような夜でございました。このまま、幸せなまま消えてしまいたい」
とおっしゃる。
女御様は、
「私もつらくて消えてしまいたいのですよ。でも、死んだあとも私たちの関係は世間で噂されつづけるのではと心配です」
とお返事なさる。
帝の女御様ともあろうお方がこのようにお苦しみなのは、本当に恐れ多いことね。
王命婦が源氏の君のお着物を集めて、お帰りをせかしはじめた。
源氏の君は、二条の院にお戻りになっても泣きつづけていらっしゃった。
女御様にお手紙をお書きになったけれど、いつもどおり、
「女御様はお読みになりませんでした」
というお返事が王命婦から届いただけ。
内裏にも上がらず二、三日閉じこもっていらっしゃるので、何もご存じない帝はまたご心配なさるにちがいないわ。
それが源氏の君には本当に恐ろしいの。
ご自分のせいなのにね。
女御様はご病気でご実家に戻っていらっしゃったのだけれど、源氏の君とお会いになってしまったことで、ますますご体調がお悪くなった。
帝はお使者をお出しになって、早く内裏に戻ってくるようにとしきりにおっしゃるけれど、本当にご無理なの。
暑くなってきてからは、起き上がることもできなくなってしまわれた。
その恐ろしいわけを女御様はお気づきだったわ。
源氏の君とお会いになったのは四月のこと。
六月になると、もう周りの女房たちにも隠しきれなくなった。
「ご懐妊でございましょう? どうしてもっと早く帝にお伝えなさらなかったのです」
と女御様に申し上げる。
お風呂のお世話係の女房などは「もしかして」と気づいていたけれど、勝手に噂してよいことでもないから黙っていたの。
王命婦は頭を抱えてしまった。
でも、とにかくすぐに帝にご報告しなければならない。
なるべくあやしまれないように、
「妖怪のしわざでご懐妊が分かりづらかったようでございます。ご実家にお戻りになる直前のご懐妊ですので、十二月ころお生まれになるはずでございます」
と申し上げた。
本当は二月ころにしかお生まれにならないはずだけれど、そのときはまた、妖怪のせいにでもするしかないわね。
帝はお信じくださった。
女御様のお体をご心配なさって、お使者が常にやって来る。
そのたびに女御様は震えて、一日中悩み苦しんでおられた。
源氏の君はそのころ、奇妙な恐ろしい夢をご覧になった。
夢占い師を呼んでご相談なさると、占い師は、
「その夢は、帝の父親になるというお告げの夢でございます」
と診断した。
源氏の君はあわてて、
「もちろん私の夢ではない。他のお方の夢である。お告げが本当になるまで、他の者に言ってはならぬ」
と取りつくろわれた。
占い師は、
「『他のお方』とおっしゃったのは帝のことであろう」
と納得していたようだったわ。
源氏の君は藤壺の女御様がご懐妊なさったと聞いて、
「あの夢はそういうことだったのか」
と思い当られた。
「もう一度女御様にお会いしたい」
と、言葉を尽くして王命婦にお頼みになる。
でも王命婦は自分の罪が恐ろしくて、源氏の君のお話を聞く余裕などないの。
以前は女御様から源氏の君に当たり障りのないお手紙がいただけることもあったけれど、ついにそれもなくなってしまった。
七月になって女御様は内裏にお戻りになった。
帝はひさしぶりのご対面をうれしくお思いになって、あれこれと優しいお言葉をおかけになる。
女御様は少しお腹がふくらんで、つわりでお顔がやせておられた。
それがまたたとえようもないほどお美しいの。
帝は一日中藤壺にいらっしゃる。
女御様を楽しませようと演奏会をさかんになさって、源氏の君もお呼びになる。
源氏の君はお琴や笛など、さまざまな楽器の演奏がお得意だから、帝はおそばからお離しにならない。
源氏の君はそしらぬふりをなさって演奏会にご参加なさるけれど、思わずため息が漏れることもある。
女御様も物陰から源氏の君の演奏をお聞きになって、思い悩んでいらっしゃったわ。
源氏の君は、帝がとてもご心配なさるのをお気の毒なことだと拝見しながら、
「あのひとにお会いできるのは今しかない」
とお思いになっている。
お心は体から離れて藤壺の女御様のところへさまよっていく。
左大臣邸にも、恋人たちのところにも行っている余裕はないの。
昼間は、内裏にいらっしゃっても二条の院にいらっしゃっても、ぼんやりなさっている。
日が暮れれば藤壺の女御様のご実家へ行き、王命婦という女御様のおそばでお仕えしている女房にお願いなさる。
「藤壺の女御様にお会いしたい」と。
藤壺の女御様は、源氏の君の父である帝がこよなく愛するお妃様よ。
その藤壺の女御様を、恐れ多くも源氏の君は愛していらっしゃった。
王命婦がどのようにお連れしたのか、ある夜、源氏の君は女御様のご寝室にお入りになった。
目の前に女御様がいらっしゃっても、お抱きしめになっても、源氏の君はこれが現実だとはお信じになれない。
いつものむなしい夢かもしれないと思っていらっしゃる。
女御様は源氏の君のお腕のなかで、つらかったあのことを思い出しておられた。
前回もこうして、源氏の君は突然ご寝室に入っていらっしゃったの。
「あの一度でも帝に対して恐れ多く、申し訳のないことだったのに」
と苦しんでいらっしゃる。
ふつうの人妻でもこんなことはいけないけれど、女御様は帝のお妃様だもの。
絶対にこんな間違いがあってはならないのよ。
実際のところ、女御様はたしかに源氏の君を憎みきってはおられない。
かといってご自分も源氏の君を愛するわけにはいかないし、騒ぎたてて人を呼んでも誰のためにもならない。
源氏の君におだやかに満足してもらって、これ以降の過ちは避けるしかないの。
つまり、無かったことになさるしかない。
そうお悟りになっているご様子が、源氏の君には奥ゆかしくて上品でかわいらしいと見えてしまうのだから、皮肉なものよね。
源氏の君は、
「やはりこの方は特別だ。どうしてこんなに完璧でいらっしゃるのだろう。欠点がなければ、嫌うことも忘れることもできないではないか」
とつらく思っていらっしゃった。
お話しになりたいことは山ほどあった。
夜が永遠に続いてほしいとお思いになった。
源氏の君は子どものように泣きながら、
「もうお会いできませんでしょう。夢のような夜でございました。このまま、幸せなまま消えてしまいたい」
とおっしゃる。
女御様は、
「私もつらくて消えてしまいたいのですよ。でも、死んだあとも私たちの関係は世間で噂されつづけるのではと心配です」
とお返事なさる。
帝の女御様ともあろうお方がこのようにお苦しみなのは、本当に恐れ多いことね。
王命婦が源氏の君のお着物を集めて、お帰りをせかしはじめた。
源氏の君は、二条の院にお戻りになっても泣きつづけていらっしゃった。
女御様にお手紙をお書きになったけれど、いつもどおり、
「女御様はお読みになりませんでした」
というお返事が王命婦から届いただけ。
内裏にも上がらず二、三日閉じこもっていらっしゃるので、何もご存じない帝はまたご心配なさるにちがいないわ。
それが源氏の君には本当に恐ろしいの。
ご自分のせいなのにね。
女御様はご病気でご実家に戻っていらっしゃったのだけれど、源氏の君とお会いになってしまったことで、ますますご体調がお悪くなった。
帝はお使者をお出しになって、早く内裏に戻ってくるようにとしきりにおっしゃるけれど、本当にご無理なの。
暑くなってきてからは、起き上がることもできなくなってしまわれた。
その恐ろしいわけを女御様はお気づきだったわ。
源氏の君とお会いになったのは四月のこと。
六月になると、もう周りの女房たちにも隠しきれなくなった。
「ご懐妊でございましょう? どうしてもっと早く帝にお伝えなさらなかったのです」
と女御様に申し上げる。
お風呂のお世話係の女房などは「もしかして」と気づいていたけれど、勝手に噂してよいことでもないから黙っていたの。
王命婦は頭を抱えてしまった。
でも、とにかくすぐに帝にご報告しなければならない。
なるべくあやしまれないように、
「妖怪のしわざでご懐妊が分かりづらかったようでございます。ご実家にお戻りになる直前のご懐妊ですので、十二月ころお生まれになるはずでございます」
と申し上げた。
本当は二月ころにしかお生まれにならないはずだけれど、そのときはまた、妖怪のせいにでもするしかないわね。
帝はお信じくださった。
女御様のお体をご心配なさって、お使者が常にやって来る。
そのたびに女御様は震えて、一日中悩み苦しんでおられた。
源氏の君はそのころ、奇妙な恐ろしい夢をご覧になった。
夢占い師を呼んでご相談なさると、占い師は、
「その夢は、帝の父親になるというお告げの夢でございます」
と診断した。
源氏の君はあわてて、
「もちろん私の夢ではない。他のお方の夢である。お告げが本当になるまで、他の者に言ってはならぬ」
と取りつくろわれた。
占い師は、
「『他のお方』とおっしゃったのは帝のことであろう」
と納得していたようだったわ。
源氏の君は藤壺の女御様がご懐妊なさったと聞いて、
「あの夢はそういうことだったのか」
と思い当られた。
「もう一度女御様にお会いしたい」
と、言葉を尽くして王命婦にお頼みになる。
でも王命婦は自分の罪が恐ろしくて、源氏の君のお話を聞く余裕などないの。
以前は女御様から源氏の君に当たり障りのないお手紙がいただけることもあったけれど、ついにそれもなくなってしまった。
七月になって女御様は内裏にお戻りになった。
帝はひさしぶりのご対面をうれしくお思いになって、あれこれと優しいお言葉をおかけになる。
女御様は少しお腹がふくらんで、つわりでお顔がやせておられた。
それがまたたとえようもないほどお美しいの。
帝は一日中藤壺にいらっしゃる。
女御様を楽しませようと演奏会をさかんになさって、源氏の君もお呼びになる。
源氏の君はお琴や笛など、さまざまな楽器の演奏がお得意だから、帝はおそばからお離しにならない。
源氏の君はそしらぬふりをなさって演奏会にご参加なさるけれど、思わずため息が漏れることもある。
女御様も物陰から源氏の君の演奏をお聞きになって、思い悩んでいらっしゃったわ。