野いちご源氏物語 〇五 若紫(わかむらさき)
源氏の君が流行り病にかかる少し前、藤壺の女御もご体調を崩されて、内裏から実家にお戻りになった。帝はひどくご心配なさる。それをお気の毒に拝見しながらも、
<今ならあの方にお会いできるかもしれない>
と源氏の君はお考えになる。ひたすらに恋しくて、他のどの女性のところにもお通いにならない。
内裏にいても二条の院にいても、昼間はぼんやりと物思いにふけっていらっしゃる。そして日が暮れれば女御の実家へ行き、王命婦という女房をお責めになる。
「藤壺の女御に会わせてくれ」と。
藤壺の女御は、源氏の君の父帝がこよなく愛するお妃。源氏の君の亡き母君そっくりなその女御を、恐れ多くも源氏の君は愛していらっしゃった。
北山でのお祈りの甲斐あって、流行り病から回復なさった四月のこと。
王命婦がどのようにお連れしたのか、源氏の君は女御の寝室にお入りになった。
目の前に女御がいらっしゃる。抱きしめても気が急くばかりで、源氏の君はこれが現実だとは信じられない。儚い夢のような気がなさる。
一方、女御は源氏の君のお腕の中で、いまわしい記憶を思い出されていた。
<あの夜も突然寝室に入っていらっしゃった。あれからずっと罪の意識に苦しんで、もう二度と同じ過ちはしないと決めていたのに>
いかにもおつらそうだけれど、やわらかい優しさがおありになる。源氏の君に気を許さないまま、奥ゆかしく品よくお拒みになる。
<やはりこの方は特別だ。どうしてこんなに完璧でいらっしゃるのだろう>
何の欠点もないせいでいつまでも忘れられず恋しいのだと、源氏の君はつらくさえなってしまわれる。
お話しになりたいことは山ほどある。夜が永遠に続いてほしいと思われたけれど、あいにく初夏の夜は短い。源氏の君にとってはかえって苦しい逢瀬だった。
「もうお会いできませんでしょう。夢のような夜でした。このまま、幸せなまま消えてしまいたい」
涙でむせかえりながらおっしゃるから、女御はさすがに同情なさった。
「私もつらくて消えてしまいたいのですよ。しかしたとえ死んだとしても、私たちの関係は世間が語り伝えるのでしょうね」
苦しまれるのもごもっともで恐れ多い。王命婦が源氏の君の着物を集めて、お帰りを急かしはじめた。
二条の院に帰っても、源氏の君は泣き伏していらっしゃる。女御に手紙をお書きになったけれど、
「お読みになりませんでした」
という返事が王命婦から届いただけ。この返事はいつものこととはいえ、今朝は特におつらい。参内もなさらず二、三日引きこもっていると、今度は親不孝の罪まで恐ろしい。流行り病から回復したばかりだというのに、また帝にご心配をおかけしてしまう。
女御はご自分の運命を嘆かれるうちに、ますますご体調が悪くなっていった。早く内裏に戻るようにという帝の使者はしきりにやって来るけれど、とてもそんなお具合ではない。原因に心当たりがあるから、
<あぁ、どうなってしまうのだろう>
と混乱なさる。暑くなってきてからは、ますますぐったりと横になっていらっしゃるばかり。
六月になると周りの女房たちも気づきはじめた。
「ご懐妊でございましょう。どうしてもっと早く帝にお伝えなさらなかったのですか」
驚いてお尋ねするけれど、女御はお腹の子の父親が帝ではないと分かっていらっしゃる。素知らぬ顔でお伝えできるはずがない。王命婦や、女御の乳母子である弁という女房は、お風呂のお世話もしている。「もしかして」と気づいていたけれど、お互いに言い出せず黙っていた。源氏の君を手引きした王命婦は、
<これが逃れられない運命というものか>
とぞっとしながら頭を抱えてしまった。とにかくすぐに帝にご報告しなければならない。
「妖怪のしわざでご懐妊が分かりづらかったようでございます」
と申し上げる。他の女房たちもそうとしか思わなかった。
実家にお戻りになる前に懐妊なさっていたなら、お子は十二月にお生まれになるはず。実際は二月のご出産になるだろうけれど、そのときはまた妖怪のせいにでもするしかない。
帝はますます女御を愛しくお思いになる。内裏から使者が常にやって来るので、女御は恐ろしくて、一日中悩み苦しんでいらっしゃった。
源氏の君はそのころ、おどろおどろしくて奇妙な夢をご覧になった。占い師を呼んでお尋ねになる。
「帝の父親におなりになるというお告げの夢でございます」
占い師はそうきっぱりと申し上げてから、
「しかしそれが実現する前に、ひとつ災いが起こります。謹慎して乗り越えなさらねばなりません」
と続けた。
「もちろん私の夢ではない。他のお方の夢だから、お告げが本当になるまで誰にも言ってはならぬ」
帝の夢だ、と匂わせて取りつくろわれる。
どういうことだろうかと考えているところに、源氏の君は女御の懐妊をお聞きになった。
<まさかあの夢はそういうことなのか>
言葉を尽くして女御に手紙をお書きになったけれど、お返事はない。王命婦は大変なことになったと懲りてしまっている。頼みこんでもまったく駄目だった。
以前は、女御からごくまれに一行だけのお返事がいただけることもあった。しかしそれもなくなった。
七月になって、女御は内裏にお戻りになった。
帝はひさしぶりのご対面がうれしくて、あれこれと優しくお労りになる。女御は少しお腹がふくらんで、つわりでお顔がやせていらっしゃった。それがまたたとえようもないほどお美しい。
帝は藤壺でばかりお過ごしになる。音楽会にうってつけの季節になるころだったから、源氏の君をしょちゅうお呼びになって、いろいろな楽器を担当させなさった。源氏の君は女御へのお気持ちをひた隠しになさるけれど、思わずため息が漏れることもある。それを聞いて女御は簾の奥で思い悩んでいらっしゃった。
<今ならあの方にお会いできるかもしれない>
と源氏の君はお考えになる。ひたすらに恋しくて、他のどの女性のところにもお通いにならない。
内裏にいても二条の院にいても、昼間はぼんやりと物思いにふけっていらっしゃる。そして日が暮れれば女御の実家へ行き、王命婦という女房をお責めになる。
「藤壺の女御に会わせてくれ」と。
藤壺の女御は、源氏の君の父帝がこよなく愛するお妃。源氏の君の亡き母君そっくりなその女御を、恐れ多くも源氏の君は愛していらっしゃった。
北山でのお祈りの甲斐あって、流行り病から回復なさった四月のこと。
王命婦がどのようにお連れしたのか、源氏の君は女御の寝室にお入りになった。
目の前に女御がいらっしゃる。抱きしめても気が急くばかりで、源氏の君はこれが現実だとは信じられない。儚い夢のような気がなさる。
一方、女御は源氏の君のお腕の中で、いまわしい記憶を思い出されていた。
<あの夜も突然寝室に入っていらっしゃった。あれからずっと罪の意識に苦しんで、もう二度と同じ過ちはしないと決めていたのに>
いかにもおつらそうだけれど、やわらかい優しさがおありになる。源氏の君に気を許さないまま、奥ゆかしく品よくお拒みになる。
<やはりこの方は特別だ。どうしてこんなに完璧でいらっしゃるのだろう>
何の欠点もないせいでいつまでも忘れられず恋しいのだと、源氏の君はつらくさえなってしまわれる。
お話しになりたいことは山ほどある。夜が永遠に続いてほしいと思われたけれど、あいにく初夏の夜は短い。源氏の君にとってはかえって苦しい逢瀬だった。
「もうお会いできませんでしょう。夢のような夜でした。このまま、幸せなまま消えてしまいたい」
涙でむせかえりながらおっしゃるから、女御はさすがに同情なさった。
「私もつらくて消えてしまいたいのですよ。しかしたとえ死んだとしても、私たちの関係は世間が語り伝えるのでしょうね」
苦しまれるのもごもっともで恐れ多い。王命婦が源氏の君の着物を集めて、お帰りを急かしはじめた。
二条の院に帰っても、源氏の君は泣き伏していらっしゃる。女御に手紙をお書きになったけれど、
「お読みになりませんでした」
という返事が王命婦から届いただけ。この返事はいつものこととはいえ、今朝は特におつらい。参内もなさらず二、三日引きこもっていると、今度は親不孝の罪まで恐ろしい。流行り病から回復したばかりだというのに、また帝にご心配をおかけしてしまう。
女御はご自分の運命を嘆かれるうちに、ますますご体調が悪くなっていった。早く内裏に戻るようにという帝の使者はしきりにやって来るけれど、とてもそんなお具合ではない。原因に心当たりがあるから、
<あぁ、どうなってしまうのだろう>
と混乱なさる。暑くなってきてからは、ますますぐったりと横になっていらっしゃるばかり。
六月になると周りの女房たちも気づきはじめた。
「ご懐妊でございましょう。どうしてもっと早く帝にお伝えなさらなかったのですか」
驚いてお尋ねするけれど、女御はお腹の子の父親が帝ではないと分かっていらっしゃる。素知らぬ顔でお伝えできるはずがない。王命婦や、女御の乳母子である弁という女房は、お風呂のお世話もしている。「もしかして」と気づいていたけれど、お互いに言い出せず黙っていた。源氏の君を手引きした王命婦は、
<これが逃れられない運命というものか>
とぞっとしながら頭を抱えてしまった。とにかくすぐに帝にご報告しなければならない。
「妖怪のしわざでご懐妊が分かりづらかったようでございます」
と申し上げる。他の女房たちもそうとしか思わなかった。
実家にお戻りになる前に懐妊なさっていたなら、お子は十二月にお生まれになるはず。実際は二月のご出産になるだろうけれど、そのときはまた妖怪のせいにでもするしかない。
帝はますます女御を愛しくお思いになる。内裏から使者が常にやって来るので、女御は恐ろしくて、一日中悩み苦しんでいらっしゃった。
源氏の君はそのころ、おどろおどろしくて奇妙な夢をご覧になった。占い師を呼んでお尋ねになる。
「帝の父親におなりになるというお告げの夢でございます」
占い師はそうきっぱりと申し上げてから、
「しかしそれが実現する前に、ひとつ災いが起こります。謹慎して乗り越えなさらねばなりません」
と続けた。
「もちろん私の夢ではない。他のお方の夢だから、お告げが本当になるまで誰にも言ってはならぬ」
帝の夢だ、と匂わせて取りつくろわれる。
どういうことだろうかと考えているところに、源氏の君は女御の懐妊をお聞きになった。
<まさかあの夢はそういうことなのか>
言葉を尽くして女御に手紙をお書きになったけれど、お返事はない。王命婦は大変なことになったと懲りてしまっている。頼みこんでもまったく駄目だった。
以前は、女御からごくまれに一行だけのお返事がいただけることもあった。しかしそれもなくなった。
七月になって、女御は内裏にお戻りになった。
帝はひさしぶりのご対面がうれしくて、あれこれと優しくお労りになる。女御は少しお腹がふくらんで、つわりでお顔がやせていらっしゃった。それがまたたとえようもないほどお美しい。
帝は藤壺でばかりお過ごしになる。音楽会にうってつけの季節になるころだったから、源氏の君をしょちゅうお呼びになって、いろいろな楽器を担当させなさった。源氏の君は女御へのお気持ちをひた隠しになさるけれど、思わずため息が漏れることもある。それを聞いて女御は簾の奥で思い悩んでいらっしゃった。