野いちご源氏物語 〇五 若紫(わかむらさき)
若紫の君のお屋敷から二条の院までは近いので、まだ明るくなる前にご到着なさった。
乗り物をお屋敷の縁側に寄せさせると、源氏の君は姫君を軽々と抱いてお降りになった。
一時は覚悟を決めた乳母だったけれど、源氏の君のあとをついて縁側に降りようとすると勇気が出ない。
「これは夢ではございませんでしょうか。私はどうしたらよろしいのでしょう」
とお尋ねすると、
「そなたは好きにしたらよい。姫君をお移しできたのだから、帰りたければその車で送らせよう」
と源氏の君は冷たくおっしゃる。
乳母は降りた。
急に鼓動が速くなる。
「お父宮はどうお思いになるだろう。姫様はどうなってしまわれるのだろう。頼れる人がいない姫様は、こんな目にお遭いになるしかないのか」
と思うと涙が止まらない。
でもこれはお輿入れ——妻として夫の家に入った、というおめでたいことだもの。
泣いていてはいけない。
晴れ晴れとした笑顔で姫君をお祝いするのが乳母の仕事だと、無理やり涙をこらえる。
姫君がお入りになった建物は、広い二条の院のなかで普段使われていない建物だった。
家具などもないので、源氏の君は惟光にお命じになって、ひととおりおそろえになる。
おやすみになれるような準備もさせて、姫君とならんで横になられた。
姫君は震えていらっしゃる。
声を立てて泣くのもかえって恐ろしくて、
「源氏の君は私をどうなさるのだろう」
と気味悪く思っていらっしゃるの。
「乳母と寝たいわ」
とおっしゃるお声が、本当に子どもっぽくてかわいらしい。
いよいよ源氏の君の教育が始まる。
「いつまでも乳母と寝てはいけませんよ。もう大きくなられたのだから」
とおっしゃると、姫君は悲しくてそのまま泣いてしまわれた。
乳母は眠ることなどできなくて、はらはらしながら一晩中起きていたわ。
朝になって、乳母は明るい光のなかであたりを見わたした。
まだ暗いうちにお屋敷に入ったから気づかなかったけれど、建物も家具もお庭も、きらきらと輝いているの。
自分がいてよい場所ではないような気がして乳母は気が引けてしまったけれど、自分の他に姫君のお世話をするような人もいない。
お部屋の外には源氏の君の家来がいる。
「どこかの女性をお迎えになったらしいが」
「どなたであろう。二条の院にお迎えになるなんて、よほど特別な方なのだろう」
とひそひそ話す声が聞こえた。
洗面のお水やご朝食が運ばれてきた。
源氏の君は日が高くなってからお起きになって、
「女房がいなくては姫君がお困りになるだろう。夕方になったら元のお屋敷から何人かお呼びなさい」
とおっしゃる。
二条の院の別の建物にいる女童を姫君のところへお呼びになると、小さなかわいらしい女の子が四人やって来た。
姫君はお着物にくるまって、まだ起きていらっしゃらない。
「そのように陰気にしていてはいけませんよ。私の誠意をお分かりにならないと。女性は素直でいることが大切です」
と、お教えになる。
姫君は、近くでよく見るととても上品でかわいらしいの。
源氏の君は気さくに話しかけて、おもしろい絵やおもちゃなどを姫君にお見せになる。
なんとか二条の院とご自分を気に入っていただこうと必死ね。
姫君はやっと起きていらっしゃった。
祖母君が亡くなったばかりなので、喪服を着ておられる。
にこにこして絵やおもちゃを眺めていらっしゃるのがとてもかわいらしくて、源氏の君もついほほえみがこぼれたわ。
姫君はお庭の方もご覧になった。
木々もお池も植え込みも、絵に描いたように美しい。
貴族たちが出入りして源氏の君の御用をしているのも、姫君は見たことがない光景で、
「おもしろいお屋敷だわ」
とわくわくなさる。
ついたてにも見事な絵が描いてあるから、そちらを見てまわるのも忙しい。
だんだん新しいお屋敷に慣れていらっしゃったわ。
源氏の君は、二、三日の間内裏へも上がられない。
姫君とお話しなさって、もっと仲良くなろうと努力なさる。
姫君のお手本にするために、字や絵も何枚かお書きになった。
どれもとてもすばらしい作品なの。
そのなかの一枚を、姫君はじっとご覧になっている。
紫色の紙に、
「紫草がなつかしくてため息が出る」
という意味の古い和歌が書いてあるの。
和歌のとなりに小さく、源氏の君のお気持ちが書かれていた。
「まだ本当の夫婦になったわけではないけれど、あなたが愛しくてならないのです。紫草のご親戚のあなたが」
意味はほとんど分からなくても、ご筆跡の美しさは姫君にもお分かりになったわ。
「さぁ、あなたも書いてごらん」
と源氏の君がお誘いになると、
「まだ上手には書けないの」
と上目づかいでおっしゃる。
その無邪気さが源氏の君にはかわいらしくてたまらない。
思わずほほえんで、
「上手になるために書くのですよ。お教えしましょう」
と優しくおっしゃる。
姫君がお書きになる手つきや筆の持ち方は、まだ子どもっぽい。
源氏の君は、かわいらしいという感情しか浮かばないご自分にお気づきになって、
「これでは父親ではないか。本当にこの人を妻にできるだろうか」
と姫君をご覧になる。
姫君は、
「うまく書けなかった」
とおっしゃって、紙を隠そうとなさった。
「見せてごらん」
と取り上げてご覧になると、
「どうしてため息が出るの。どういう草のごしんせきなの」
と、この先が楽しみになるようなふっくらとした字が書かれていたわ。
亡き祖母君がくださったお手紙の筆跡に似て上品だけれど、少し古風なの。
「現代風のお手本で練習すれば、もっとお上手になるだろう」
と、源氏の君は予想なさっている。
他にもお人形遊びなどもご一緒になさる。
お人形のための立派なお屋敷までお作らせになったのよ。
姫君のおかげで、源氏の君はずいぶんとお心がいやされていたわ。
乗り物をお屋敷の縁側に寄せさせると、源氏の君は姫君を軽々と抱いてお降りになった。
一時は覚悟を決めた乳母だったけれど、源氏の君のあとをついて縁側に降りようとすると勇気が出ない。
「これは夢ではございませんでしょうか。私はどうしたらよろしいのでしょう」
とお尋ねすると、
「そなたは好きにしたらよい。姫君をお移しできたのだから、帰りたければその車で送らせよう」
と源氏の君は冷たくおっしゃる。
乳母は降りた。
急に鼓動が速くなる。
「お父宮はどうお思いになるだろう。姫様はどうなってしまわれるのだろう。頼れる人がいない姫様は、こんな目にお遭いになるしかないのか」
と思うと涙が止まらない。
でもこれはお輿入れ——妻として夫の家に入った、というおめでたいことだもの。
泣いていてはいけない。
晴れ晴れとした笑顔で姫君をお祝いするのが乳母の仕事だと、無理やり涙をこらえる。
姫君がお入りになった建物は、広い二条の院のなかで普段使われていない建物だった。
家具などもないので、源氏の君は惟光にお命じになって、ひととおりおそろえになる。
おやすみになれるような準備もさせて、姫君とならんで横になられた。
姫君は震えていらっしゃる。
声を立てて泣くのもかえって恐ろしくて、
「源氏の君は私をどうなさるのだろう」
と気味悪く思っていらっしゃるの。
「乳母と寝たいわ」
とおっしゃるお声が、本当に子どもっぽくてかわいらしい。
いよいよ源氏の君の教育が始まる。
「いつまでも乳母と寝てはいけませんよ。もう大きくなられたのだから」
とおっしゃると、姫君は悲しくてそのまま泣いてしまわれた。
乳母は眠ることなどできなくて、はらはらしながら一晩中起きていたわ。
朝になって、乳母は明るい光のなかであたりを見わたした。
まだ暗いうちにお屋敷に入ったから気づかなかったけれど、建物も家具もお庭も、きらきらと輝いているの。
自分がいてよい場所ではないような気がして乳母は気が引けてしまったけれど、自分の他に姫君のお世話をするような人もいない。
お部屋の外には源氏の君の家来がいる。
「どこかの女性をお迎えになったらしいが」
「どなたであろう。二条の院にお迎えになるなんて、よほど特別な方なのだろう」
とひそひそ話す声が聞こえた。
洗面のお水やご朝食が運ばれてきた。
源氏の君は日が高くなってからお起きになって、
「女房がいなくては姫君がお困りになるだろう。夕方になったら元のお屋敷から何人かお呼びなさい」
とおっしゃる。
二条の院の別の建物にいる女童を姫君のところへお呼びになると、小さなかわいらしい女の子が四人やって来た。
姫君はお着物にくるまって、まだ起きていらっしゃらない。
「そのように陰気にしていてはいけませんよ。私の誠意をお分かりにならないと。女性は素直でいることが大切です」
と、お教えになる。
姫君は、近くでよく見るととても上品でかわいらしいの。
源氏の君は気さくに話しかけて、おもしろい絵やおもちゃなどを姫君にお見せになる。
なんとか二条の院とご自分を気に入っていただこうと必死ね。
姫君はやっと起きていらっしゃった。
祖母君が亡くなったばかりなので、喪服を着ておられる。
にこにこして絵やおもちゃを眺めていらっしゃるのがとてもかわいらしくて、源氏の君もついほほえみがこぼれたわ。
姫君はお庭の方もご覧になった。
木々もお池も植え込みも、絵に描いたように美しい。
貴族たちが出入りして源氏の君の御用をしているのも、姫君は見たことがない光景で、
「おもしろいお屋敷だわ」
とわくわくなさる。
ついたてにも見事な絵が描いてあるから、そちらを見てまわるのも忙しい。
だんだん新しいお屋敷に慣れていらっしゃったわ。
源氏の君は、二、三日の間内裏へも上がられない。
姫君とお話しなさって、もっと仲良くなろうと努力なさる。
姫君のお手本にするために、字や絵も何枚かお書きになった。
どれもとてもすばらしい作品なの。
そのなかの一枚を、姫君はじっとご覧になっている。
紫色の紙に、
「紫草がなつかしくてため息が出る」
という意味の古い和歌が書いてあるの。
和歌のとなりに小さく、源氏の君のお気持ちが書かれていた。
「まだ本当の夫婦になったわけではないけれど、あなたが愛しくてならないのです。紫草のご親戚のあなたが」
意味はほとんど分からなくても、ご筆跡の美しさは姫君にもお分かりになったわ。
「さぁ、あなたも書いてごらん」
と源氏の君がお誘いになると、
「まだ上手には書けないの」
と上目づかいでおっしゃる。
その無邪気さが源氏の君にはかわいらしくてたまらない。
思わずほほえんで、
「上手になるために書くのですよ。お教えしましょう」
と優しくおっしゃる。
姫君がお書きになる手つきや筆の持ち方は、まだ子どもっぽい。
源氏の君は、かわいらしいという感情しか浮かばないご自分にお気づきになって、
「これでは父親ではないか。本当にこの人を妻にできるだろうか」
と姫君をご覧になる。
姫君は、
「うまく書けなかった」
とおっしゃって、紙を隠そうとなさった。
「見せてごらん」
と取り上げてご覧になると、
「どうしてため息が出るの。どういう草のごしんせきなの」
と、この先が楽しみになるようなふっくらとした字が書かれていたわ。
亡き祖母君がくださったお手紙の筆跡に似て上品だけれど、少し古風なの。
「現代風のお手本で練習すれば、もっとお上手になるだろう」
と、源氏の君は予想なさっている。
他にもお人形遊びなどもご一緒になさる。
お人形のための立派なお屋敷までお作らせになったのよ。
姫君のおかげで、源氏の君はずいぶんとお心がいやされていたわ。