野いちご源氏物語 〇五 若紫(わかむらさき)
そのころ源氏の君は左大臣邸にいらっしゃった。奥様は今夜もなかなかお出ましにならない。気まずさを紛らわせるように和琴をお弾きになる。
「まさかあの姫君のことに勘付かれたわけではないだろうが」
奥様に対して後ろめたさは感じていらっしゃるらしい。
惟光が姫君の屋敷から戻ってくると、すぐにご様子をお尋ねになった。
「明日、兵部卿の宮のお屋敷へお移りになるそうでございます」
もっとも恐れていた報告だった。
<それでは困ったことになる。宮邸へ婿として通うならともかく、いきなり二条の院へ引き取ろうとすれば世間がどう言うか。しかも相手はまだ幼い。子どもを盗むように連れていったと噂されるだろう。やはり宮より先にお迎えにあがらなければ。乳母や女房にはきつく口止めをして、二条の院にお移ししてしまおう>
宮は明日のいつお迎えにいらっしゃるか分からない。こちらはなるべく早く、とお考えになる。
「明け方前にお訪ねしよう。乗り物はここまで乗ってきたものをそのまま使えばよい。護衛をひとりかふたり準備させておくように」
惟光はすぐに伝えにいった。まだ源氏の君のお心は揺れる。
<私が連れ去ったことが世間に知られたら、とんだ好色だと非難される。せめて相手も大人なら、合意の上なのだろうと見過ごしてもらえるものだけれど。宮に見つけられたときにはさぞかし気まずいことになるだろう。しかしこの機会を逃せば後悔する>
やっとお出ましになった奥様は、あいかわらずとり澄ましていらっしゃる。
「二条の院に急用があることを思い出しました。今から帰って、またこちらに戻ってまいります」
女房たちさえ気づかないうちに寝室を出て、ご自分の部屋で着替えをなさる。護衛の他は惟光だけにお供をさせ、まだ深夜のうちにご出発なさった。
姫君の屋敷に着くと、乳母が物音に気づいて出てきた。
「源氏の君がお越しです」
と言う惟光に困り顔をする。
「姫様はまだお休みでございます。深夜にお越しいただきましても」
恋人の家からの帰りにちょっとお寄りになったのだろうと想像している。
源氏の君は乗り物から降りて、濡れ縁にお立ちになった。
「父宮のお屋敷へ移られると聞いた。その前に申し上げたいことがあるのだ」
「まぁ、何事でございましょう。寝ぼけておいででしょうから、しっかりしたお返事がおできになりますかしら」
乳母の冗談を無視して、源氏の君は部屋の中へ入っていかれる。
「年寄りの女房たちが見苦しく寝ておりますから」
乳母はあわてて追いかけるけれど、源氏の君は横たわる女房たちの間を歩いて姫君の寝室へ向かわれる。
「まだお休みか。私が起こしてあげよう。こんなに美しい朝の霧を見ずに寝ておられるなんて」
そう言って寝室に入ってしまわれた。乳母は言葉も出ない。
姫君は何も知らずにぐっすり眠っていらっしゃる。源氏の君が抱き起こすと目を覚まされた。
<父宮がお迎えに来てくださったのね>
寝ぼけてぼんやりなさっている。源氏の君はお髪をなでて整えてあげながら、
「さぁ、いらっしゃい。宮のお使いで参ったのですよ」
と嘘をおっしゃった。姫君は父宮ではないことに気づいてぞっとなさる。
「おやおや、ひどいではありませんか。私も父宮とたいして変わりませんよ」
姫君をさっと抱き上げて、濡れ縁までお連れになる。乳母や惟光はびっくりして、
「どうなさるおつもりです」
とお尋ねした。
「私が引き取りたいとお願いしてあったのに、父宮の方へ行かれると聞いた。そうなってはお手紙も差し上げにくくなるだろう。今から二条の院へお移しする。女房が誰かついてまいれ」
悪びれることもなくおっしゃる。乳母は源氏の君に取りすがった。
「さすがに今日というのは困ります。夜が明ければ父宮がお越しになりますのに、どう申し上げたらよろしいでしょう。今こんな無茶をなさいませんでも、数年後にはきっとうまくいくご縁と存じます。私どもの立場もお考えくださいませ」
乳母の懇願など源氏の君のお心には届かない。
「そうか。では気が向いたらあとから参るがよい」
姫君を抱いたまま乗り物に乗ろうとなさる。女房たちはうろたえている。姫君も不安になって泣いてしまわれた。
もはや誰にもお止めできない。乳母は部屋へ戻ると、昨夜急いで縫った姫君の着物を持ってきた。自分もそれらしい格好に着替え、源氏の君の後について乗り物に乗った。
「まさかあの姫君のことに勘付かれたわけではないだろうが」
奥様に対して後ろめたさは感じていらっしゃるらしい。
惟光が姫君の屋敷から戻ってくると、すぐにご様子をお尋ねになった。
「明日、兵部卿の宮のお屋敷へお移りになるそうでございます」
もっとも恐れていた報告だった。
<それでは困ったことになる。宮邸へ婿として通うならともかく、いきなり二条の院へ引き取ろうとすれば世間がどう言うか。しかも相手はまだ幼い。子どもを盗むように連れていったと噂されるだろう。やはり宮より先にお迎えにあがらなければ。乳母や女房にはきつく口止めをして、二条の院にお移ししてしまおう>
宮は明日のいつお迎えにいらっしゃるか分からない。こちらはなるべく早く、とお考えになる。
「明け方前にお訪ねしよう。乗り物はここまで乗ってきたものをそのまま使えばよい。護衛をひとりかふたり準備させておくように」
惟光はすぐに伝えにいった。まだ源氏の君のお心は揺れる。
<私が連れ去ったことが世間に知られたら、とんだ好色だと非難される。せめて相手も大人なら、合意の上なのだろうと見過ごしてもらえるものだけれど。宮に見つけられたときにはさぞかし気まずいことになるだろう。しかしこの機会を逃せば後悔する>
やっとお出ましになった奥様は、あいかわらずとり澄ましていらっしゃる。
「二条の院に急用があることを思い出しました。今から帰って、またこちらに戻ってまいります」
女房たちさえ気づかないうちに寝室を出て、ご自分の部屋で着替えをなさる。護衛の他は惟光だけにお供をさせ、まだ深夜のうちにご出発なさった。
姫君の屋敷に着くと、乳母が物音に気づいて出てきた。
「源氏の君がお越しです」
と言う惟光に困り顔をする。
「姫様はまだお休みでございます。深夜にお越しいただきましても」
恋人の家からの帰りにちょっとお寄りになったのだろうと想像している。
源氏の君は乗り物から降りて、濡れ縁にお立ちになった。
「父宮のお屋敷へ移られると聞いた。その前に申し上げたいことがあるのだ」
「まぁ、何事でございましょう。寝ぼけておいででしょうから、しっかりしたお返事がおできになりますかしら」
乳母の冗談を無視して、源氏の君は部屋の中へ入っていかれる。
「年寄りの女房たちが見苦しく寝ておりますから」
乳母はあわてて追いかけるけれど、源氏の君は横たわる女房たちの間を歩いて姫君の寝室へ向かわれる。
「まだお休みか。私が起こしてあげよう。こんなに美しい朝の霧を見ずに寝ておられるなんて」
そう言って寝室に入ってしまわれた。乳母は言葉も出ない。
姫君は何も知らずにぐっすり眠っていらっしゃる。源氏の君が抱き起こすと目を覚まされた。
<父宮がお迎えに来てくださったのね>
寝ぼけてぼんやりなさっている。源氏の君はお髪をなでて整えてあげながら、
「さぁ、いらっしゃい。宮のお使いで参ったのですよ」
と嘘をおっしゃった。姫君は父宮ではないことに気づいてぞっとなさる。
「おやおや、ひどいではありませんか。私も父宮とたいして変わりませんよ」
姫君をさっと抱き上げて、濡れ縁までお連れになる。乳母や惟光はびっくりして、
「どうなさるおつもりです」
とお尋ねした。
「私が引き取りたいとお願いしてあったのに、父宮の方へ行かれると聞いた。そうなってはお手紙も差し上げにくくなるだろう。今から二条の院へお移しする。女房が誰かついてまいれ」
悪びれることもなくおっしゃる。乳母は源氏の君に取りすがった。
「さすがに今日というのは困ります。夜が明ければ父宮がお越しになりますのに、どう申し上げたらよろしいでしょう。今こんな無茶をなさいませんでも、数年後にはきっとうまくいくご縁と存じます。私どもの立場もお考えくださいませ」
乳母の懇願など源氏の君のお心には届かない。
「そうか。では気が向いたらあとから参るがよい」
姫君を抱いたまま乗り物に乗ろうとなさる。女房たちはうろたえている。姫君も不安になって泣いてしまわれた。
もはや誰にもお止めできない。乳母は部屋へ戻ると、昨夜急いで縫った姫君の着物を持ってきた。自分もそれらしい格好に着替え、源氏の君の後について乗り物に乗った。