野いちご源氏物語 〇五 若紫(わかむらさき)
源氏(げんじ)(きみ)岩穴(いわあな)からお寺へ下りていかれた。
お経を読むなどなさっていたのだけれど、ずいぶんと日が高くなってきたから、また熱が上がってくることをご心配なさる。

(とも)が、
「あまりご心配にならない方がよろしゅうございます。少しご気分を変えられては」
とおすすめ申し上げるので、山を少し登って(みやこ)の方角を見下ろしてごらんになる。
一面に(かすみ)がただよって、桜色や若葉色がところどころからぼんやりと顔を出しているの。
源氏の君は、
「絵に描いたような景色だな。こんなところに住んだら、一年中景色を(なが)めて()きないだろう」
とおっしゃる。

「ここなどはまだまだでございます。地方の海や山をお目にかけとうございますよ」
とお供は申し上げて、絶景として有名な海や山の名前を挙げていったわ。
「ご趣味でお描きになる絵も、絶景をご自身でご覧になれば、ますますご上達なさいますでしょうね」
と、あれこれ地名を並べて、源氏の君のご気分がまぎれるようにおしゃべりをする。
お供たちは源氏の君よりも身分が低いから、仕事などでいろいろな場所に行った経験があるのね。

「都から近いところでは、播磨国(はりまのくに)明石(あかし)(うら)という海が見事でございますよ。何か特別な見どころがあるわけではありませんが、ゆったりとした海面に心が落ち着くという点では、あそこが一番でございました」
と、良清(よしきよ)という名前のお供が申し上げる。
この人は父親が播磨国の長官をしていて、先日父のところへ行ったついでに、あれこれ見てきたらしいの。

「そういえば、私の父の何代か前に播磨国の長官をしていた人は、なんとも変わった人でございましてね。任期が終わっても都に戻らず、あちらで出家(しゅっけ)して住みつづけているのです。明石の浦の近くに豪邸を建てたのですよ。出家して山奥に住むかと思いきや、人の多い明石の浦の近くに住んでおりますのは、大切な一人娘のためらしゅうございますが。

その人はもともと家柄(いえがら)が良く、あと少しで上級貴族に出世(しゅっせ)できそうな人だったのですが、内裏(だいり)での人付き合いを面倒がりましてね。自分から申し出て、地方長官などという格下の役職に移ったのでございます。地方長官の仕事は内裏で働くよりも気楽だと思っていたのかもしれませんが、地方は地方で()(ごと)が多うございます。役人としての人生がほとほと嫌になったらしく、都に戻らず出家してしまったというわけなのです。

先日父のところへ参りましたとき、見事な豪邸にあいさつに寄りました。地方長官はうまくやれば大層(たいそう)もうかりますから、役人を辞めて出家したあとの暮らしも安泰(あんたい)のようでございます。今は仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)に明け暮れておりますよ。出家すると見栄えがしなくなる者が多いのですが、あの人は逆に生き生きしておりました」

そう申し上げると、源氏の君には聞き捨てできないところがおありになった。
「一人娘というのはどのような人なのだ」
とお尋ねになる。

良清が、
「見た目や性格などは悪くはないようで、そのあとに播磨国の長官になった人たちが、丁寧に結婚を申し込んだそうでございます。でも、父親がすべて断ってしまうのです。『私は娘の結婚相手に理想がある。私が生きている間はその理想のために精一杯の努力をするが、私が死んだあとが問題だ。理想の結婚ができそうになければ、海にもぐって死ぬ道を選べ』と言っているそうなのです」
とお答えすると、源氏の君もお供も、
「なんだそれは」
とあきれてしまわれた。

「播磨国の地方長官などとして都からやって来た貴族では、娘の結婚相手にふさわしくないと言うのか。海底の神のお(きさき)にさせた方がましだとは、なんという思い上がりだ」
と苦笑いなさる。

お供たちは良清をからかって口々に言う。
「そなたは女好きだから、なんとかしてその娘を手に入れようとしているのだろう。娘は父親の言いつけを破ってくれそうか」
「それで播磨国などに出かけたのだな。自分の父を訪ねるだけだなんて私たちには言っておいて」
「まぁ、そうは言っても田舎(いなか)(むすめ)じゃないか。幼いころからそんなところで育ったのだろう。しかも古風(こふう)な親の言いなりではな」

良清はむくれて言い返す。
「父親もだが、母親もよい家柄の出身らしいのだ。立派な女房(にょうぼう)たちを都から呼び寄せて、娘の世話をさせている」
「それじゃあ、力づくで欲しいものを手に入れるような人が長官になったら、娘の父親もおちおち安心していられなくなるな」
と、また笑いが起きたわ。

源氏の君は、静かにお供たちの話を聞いていらっしゃった。
「どうしてそこまで極端なことを言うのだろう。父親の死後に娘が後追(あとお)い自殺なんてしたら、それはそれで世間から悪く言われるだろうに」
とおっしゃる。
のんびりとほほえんでいらっしゃるけれど、お心のなかではその娘のことが気になって仕方がないの。
お供たちは、
「変わった女性を好まれる方だから、きっと気にしていらっしゃるだろう」
と見抜いていたわ。

いつもは午後になると発熱なさるのに、今日は夕暮れ時になってもお熱は出なかった。
「さっそくお祈りが効いたのでございましょう。もう都にお戻りになりましょう」
と申し上げるお供もいたけれど、山伏は、
「一晩様子をご覧になった方がよろしゅうございます。今夜はお祈りなどをいたしますから、明日の朝、ご出発なされませ」
とおすすめした。
源氏の君もめずらしい外泊をしてみたいとお思いになって、
「それでは明日の朝出発しよう」
とおっしゃったわ。
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