野いちご源氏物語 〇五 若紫(わかむらさき)
まだ日が暮れきってはいない。
お暇なので、源氏の君は宿舎をお出になった。
霞にまぎれてあの上品なお屋敷のところまで行かれる。
お供には一番の家来である惟光しかお連れにならない。
垣根の隙間から覗いてごらんになると、尼——出家した女性が二人いた。
一人は小さな仏像に花をお供えしている。
もう一人は部屋の中央の柱にもたれかかっているのだけれど、こちらの尼君はなかなかご身分の高い方みたい。
ひじ置きにお経の本を置いて、悩みがありそうなご様子で読んでいらっしゃるの。
四十歳を少し過ぎたころかしら、肌がとても白くて上品な女性よ。
尼君なのでお髪は肩の下あたりで切りそろえていらっしゃるのが、ふつうの四十代の女性よりも安心できる感じがするの。
美しい女房二人と、女童——ちょっとした仕事をする女の子が何人か、お部屋に出たり入ったりして遊んでいる。
そのなかに十歳くらいの女の子がいた。
白い着物に黄色のやわらかい着物を重ねて走ってくるの。
他の子どもとは比べ物にならないほどかわいらしい。
源氏の君の目はくぎ付けになってしまった。
髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、将来はさぞかし美人になるだろうと期待できる顔立ちなのに、なぜか泣いて顔が赤くなっている。
尼君がお顔をお上げになった。
「どうしたの、女童とけんかなさったの?」
とおっしゃる。
女の子とよく似ているので、母と娘だろうかと源氏の君はお思いになったわ。
「子すずめをあの子が逃がしてしまったの。籠のなかに閉じこめておいたのに」
と、くやしそうに言う。
髪が長くて美しい女房が、
「あのうっかり者には困ったものですわ。子すずめはどこへ行ってしまったのでしょう。懐いてきておりましたのに。からすにでも見つかったらかわいそうでございます」
と言って探しにいってしまった。
女の子の乳母のようだったわ。
尼君は、
「あぁ、なんて子どもっぽい。私は今日明日にでも死んでしまいそうな体調なのに、そんなことお構いなしですずめに夢中になっておられるとは。生き物を閉じこめるのは罰当たりですよといつもご注意しているのに」
とおっしゃって、
「こちらへいらっしゃい」
と女の子をお呼びになる。
女の子は尼君の前に座った。
とても上品な顔で、眉のあたりが優しい。
髪も美しいの。
成長が楽しみな女の子だと源氏の君はご覧になっていた。
というのも、あのひとによく似ているような気がなさるの。
源氏の君は思わず涙をこぼされたわ。
尼君は女の子の髪をなでて、
「髪をとくのを嫌がるけれど、見事なお髪ですね。あなたがあまりに子どもっぽいので私は心配でなりませんよ。このくらいのお年になれば、もっと大人びた人もいらっしゃるのに。あなたの母君は十歳で父親を亡くしましたけれど、そのときすでにずいぶん分別のあるご様子でした。今私が死んでしまったら、あなたはどうやって生きていくおつもりなのです」
とおっしゃってお泣きになる。
悩みがありそうなご様子でお経を読んでいらっしゃったのは、きっとこれが原因ね。
女の子は幼心にも悲しくなったのかしら、伏し目になってうつむいたわ。
そうすると、顔にこぼれかかった髪がつやつやして美しいの。
尼君が、
「あなたがどのように成長して生きていくかが気になって、私は死ぬに死ねませんよ」
とおっしゃると、女房は泣きながら、
「そんなことをおっしゃらないでくださいませ。姫様が大人になるまで、祖母君にお見守りいただかねば」
と申し上げた。
尼君は女の子の祖母で、女の子の母親がもう亡くなっているから、母親の代わりに女の子を育てているのね。
そこへ僧都がいらっしゃったの。
このお屋敷に二年ほど住んでいらっしゃるという、身分の高いお坊様ね。
「ここは外から覗かれてしまいますよ。いつもは屋敷の奥にいらっしゃるのに、今日に限ってこんな端の方にいらっしゃるとは。
もうお聞きになりましたか。ここの山伏にお会いになるために、源氏の君が来ていらっしゃるそうですよ。はやり病から回復するお祈りをなさるとかで。あまりにこっそりおいでになったので、私は気づかず、まだごあいさつもしておりませんが」
とおっしゃる。
尼君は、
「おかえりなさいませ、兄上。源氏の君でございますか。お供もたくさんお連れでしょうし、こんなところをどなたかに覗かれては大変だわ」
と、あわててお隠れになる。
僧都が、
「かの有名な源氏の君がせっかくお越しなのだから、あなたも物陰から拝見できるとよいですね。私が以前にお目にかかったときは、寿命が延びるようなお美しさでしたよ。さて、遅くなったがごあいさつの使者を出さなければ」
とおっしゃって立ち上がる音が聞こえたので、源氏の君はあわてて宿舎までお戻りになった。
源氏の君は、
「とてもかわいらしい女の子だった。これだから女好きな男はあちこち出歩いて、せっせと覗き見をしたがるのだろう。そうすればよい女性が見つかるのだ。私などはたまに出歩いただけなのに、こんなによい女の子を見つけられたのだから。それにしても美しい子だった。父親は誰なのだろう。あのひとの代わりに、毎日かわいがりたいものだ」
とお考えになりながら、宿舎のお部屋で横になっていらっしゃる。
僧都の使者がやってきて、僧都からのご伝言を申し上げる。
「お越しになっていることを先ほどうかがいました。おくつろぎかと存じまして代わりの者をごあいさつに参らせます。私の住んでいる屋敷の方にお泊まりいただく準備をいたしております。どうぞお越しくださいませ」
源氏の君がお返事をなさる。
「はやり病がなかなかよくならないので、人にすすめられて急遽こちらに来たのだ。有名な山伏がいると聞いてきたのだが、万が一お祈りが効かなかった場合、山伏が世間で気まずい思いをするだろう。それで、私が来ていることを広めたくはなかったのだよ。そなたの屋敷にもあいさつに行こうと思う」
それを聞いた僧都はすぐに源氏の君のところへいらっしゃった。
世間からも尊敬されている立派な方なので、源氏の君は粗末な格好でいることを恥ずかしく思っておられたわ。
僧都は、
「こちらと似たような建物でございますが、私の方には涼しい小川がございます。ぜひ今からお越しくださいませ」
と申し上げる。
先ほど覗き見なさったとき、僧都が源氏の君のことを尼君におおげさにほめていたでしょう?
源氏の君はそれを思い出して少し気まずく思われたけれど、かわいらしい女の子のことが気になるから、出かけてみることになさったわ。
お暇なので、源氏の君は宿舎をお出になった。
霞にまぎれてあの上品なお屋敷のところまで行かれる。
お供には一番の家来である惟光しかお連れにならない。
垣根の隙間から覗いてごらんになると、尼——出家した女性が二人いた。
一人は小さな仏像に花をお供えしている。
もう一人は部屋の中央の柱にもたれかかっているのだけれど、こちらの尼君はなかなかご身分の高い方みたい。
ひじ置きにお経の本を置いて、悩みがありそうなご様子で読んでいらっしゃるの。
四十歳を少し過ぎたころかしら、肌がとても白くて上品な女性よ。
尼君なのでお髪は肩の下あたりで切りそろえていらっしゃるのが、ふつうの四十代の女性よりも安心できる感じがするの。
美しい女房二人と、女童——ちょっとした仕事をする女の子が何人か、お部屋に出たり入ったりして遊んでいる。
そのなかに十歳くらいの女の子がいた。
白い着物に黄色のやわらかい着物を重ねて走ってくるの。
他の子どもとは比べ物にならないほどかわいらしい。
源氏の君の目はくぎ付けになってしまった。
髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、将来はさぞかし美人になるだろうと期待できる顔立ちなのに、なぜか泣いて顔が赤くなっている。
尼君がお顔をお上げになった。
「どうしたの、女童とけんかなさったの?」
とおっしゃる。
女の子とよく似ているので、母と娘だろうかと源氏の君はお思いになったわ。
「子すずめをあの子が逃がしてしまったの。籠のなかに閉じこめておいたのに」
と、くやしそうに言う。
髪が長くて美しい女房が、
「あのうっかり者には困ったものですわ。子すずめはどこへ行ってしまったのでしょう。懐いてきておりましたのに。からすにでも見つかったらかわいそうでございます」
と言って探しにいってしまった。
女の子の乳母のようだったわ。
尼君は、
「あぁ、なんて子どもっぽい。私は今日明日にでも死んでしまいそうな体調なのに、そんなことお構いなしですずめに夢中になっておられるとは。生き物を閉じこめるのは罰当たりですよといつもご注意しているのに」
とおっしゃって、
「こちらへいらっしゃい」
と女の子をお呼びになる。
女の子は尼君の前に座った。
とても上品な顔で、眉のあたりが優しい。
髪も美しいの。
成長が楽しみな女の子だと源氏の君はご覧になっていた。
というのも、あのひとによく似ているような気がなさるの。
源氏の君は思わず涙をこぼされたわ。
尼君は女の子の髪をなでて、
「髪をとくのを嫌がるけれど、見事なお髪ですね。あなたがあまりに子どもっぽいので私は心配でなりませんよ。このくらいのお年になれば、もっと大人びた人もいらっしゃるのに。あなたの母君は十歳で父親を亡くしましたけれど、そのときすでにずいぶん分別のあるご様子でした。今私が死んでしまったら、あなたはどうやって生きていくおつもりなのです」
とおっしゃってお泣きになる。
悩みがありそうなご様子でお経を読んでいらっしゃったのは、きっとこれが原因ね。
女の子は幼心にも悲しくなったのかしら、伏し目になってうつむいたわ。
そうすると、顔にこぼれかかった髪がつやつやして美しいの。
尼君が、
「あなたがどのように成長して生きていくかが気になって、私は死ぬに死ねませんよ」
とおっしゃると、女房は泣きながら、
「そんなことをおっしゃらないでくださいませ。姫様が大人になるまで、祖母君にお見守りいただかねば」
と申し上げた。
尼君は女の子の祖母で、女の子の母親がもう亡くなっているから、母親の代わりに女の子を育てているのね。
そこへ僧都がいらっしゃったの。
このお屋敷に二年ほど住んでいらっしゃるという、身分の高いお坊様ね。
「ここは外から覗かれてしまいますよ。いつもは屋敷の奥にいらっしゃるのに、今日に限ってこんな端の方にいらっしゃるとは。
もうお聞きになりましたか。ここの山伏にお会いになるために、源氏の君が来ていらっしゃるそうですよ。はやり病から回復するお祈りをなさるとかで。あまりにこっそりおいでになったので、私は気づかず、まだごあいさつもしておりませんが」
とおっしゃる。
尼君は、
「おかえりなさいませ、兄上。源氏の君でございますか。お供もたくさんお連れでしょうし、こんなところをどなたかに覗かれては大変だわ」
と、あわててお隠れになる。
僧都が、
「かの有名な源氏の君がせっかくお越しなのだから、あなたも物陰から拝見できるとよいですね。私が以前にお目にかかったときは、寿命が延びるようなお美しさでしたよ。さて、遅くなったがごあいさつの使者を出さなければ」
とおっしゃって立ち上がる音が聞こえたので、源氏の君はあわてて宿舎までお戻りになった。
源氏の君は、
「とてもかわいらしい女の子だった。これだから女好きな男はあちこち出歩いて、せっせと覗き見をしたがるのだろう。そうすればよい女性が見つかるのだ。私などはたまに出歩いただけなのに、こんなによい女の子を見つけられたのだから。それにしても美しい子だった。父親は誰なのだろう。あのひとの代わりに、毎日かわいがりたいものだ」
とお考えになりながら、宿舎のお部屋で横になっていらっしゃる。
僧都の使者がやってきて、僧都からのご伝言を申し上げる。
「お越しになっていることを先ほどうかがいました。おくつろぎかと存じまして代わりの者をごあいさつに参らせます。私の住んでいる屋敷の方にお泊まりいただく準備をいたしております。どうぞお越しくださいませ」
源氏の君がお返事をなさる。
「はやり病がなかなかよくならないので、人にすすめられて急遽こちらに来たのだ。有名な山伏がいると聞いてきたのだが、万が一お祈りが効かなかった場合、山伏が世間で気まずい思いをするだろう。それで、私が来ていることを広めたくはなかったのだよ。そなたの屋敷にもあいさつに行こうと思う」
それを聞いた僧都はすぐに源氏の君のところへいらっしゃった。
世間からも尊敬されている立派な方なので、源氏の君は粗末な格好でいることを恥ずかしく思っておられたわ。
僧都は、
「こちらと似たような建物でございますが、私の方には涼しい小川がございます。ぜひ今からお越しくださいませ」
と申し上げる。
先ほど覗き見なさったとき、僧都が源氏の君のことを尼君におおげさにほめていたでしょう?
源氏の君はそれを思い出して少し気まずく思われたけれど、かわいらしい女の子のことが気になるから、出かけてみることになさったわ。