野いちご源氏物語 〇五 若紫(わかむらさき)
屋敷の庭は特別な風情があった。同じ木や草でも雰囲気よく植えてある。月がないときなので、小川の近くに篝火が焚かれていた。
おもてなしの部屋はすっきりと美しく、よい香りがする。部屋のお香と、仏様のためのお香が混ざりあったところに、源氏の君の着物からひときわすばらしい香りが漂った。
奥の部屋まで香りは届く。尼君や女房たちは緊張していたでしょうね。
僧都は仏教に関するお話をした。この世は儚いものだから、罪を犯さず来世の幸せを祈って淡々と生きるべきだ、とお教えする。ありがたいお話だけれど、源氏の君のお胸にはずしりと重い。
<あの罪が恐ろしい。とんでもないことをしてしまった。生きている限り悩み、死ねば地獄でさらに苦しむことになるだろう。出家したら罪が消えるというから、いっそこの僧都のような暮らしをしようか>
そう思う一方で、昼間見た少女が恋しい。
「こちらにお住まいの女性はどなたですか。その方をお訪ねするようにという夢のお告げがあったのです」
下手な嘘を見抜いて僧都は苦笑した。
「ずいぶん突然な夢のお話でございますね。訪ねてごらんになっても期待外れでがっかりなさいますよ。ここに住んでいるのは私の妹です。夫を亡くして尼になっておりましたが、最近病気になり、私を頼ってやってまいりました。それで一緒に住んでいるのです。夫というのはずっと昔に大納言をしていた人ですが、お若いあなた様はご存じありますまい」
源氏の君としては尼君よりも少女が気になる。
「亡き大納言と尼君には姫君がいらっしゃいませんか。いえ、浮気心でお尋ねしているのではなく、真面目にお尋ねしています」
少女は尼君の娘だろうと予想して話を誘導なさった。
「ええ、娘がひとりおりましたが」
話は思わぬ方へ進む。
大納言と尼君は娘を入内させようと大切に育てていたけれど、大納言が亡くなって入内の話はなくなってしまったらしい。
「すると、ひょんなことから兵部卿の宮がこっそりお通いになりはじめたのです。ところが宮のご正妻がご身分の高い方で、何かと嫌がらせをなさいます。それを気に病みまして、かわいそうに亡くなってしまいました。もう十年ほど昔のことでございますが」
<では、その姫君が生んだ兵部卿の宮のお子だろうか>
もしそうなら尼君は少女の母親ではなく祖母。予想と少し違ったけれど、ある意味では納得なさる。
<兵部卿の宮はあの方の兄君でいらっしゃる。少女が宮のお子なら、あの方と少女は叔母と姪だ。それでよく似ていたのだろう。覗き見した感じでは、まだ幼くて利口ぶったところがなかった。あの少女を自分好みに育てあげて妻にしたい>
つい先ほどまで出家をお考えだったのに、煩悩がむくむくとふくれ上がる。確信を得ようとさらにお尋ねになった。
「お気の毒なことですね。亡くなった姫君に忘れ形見はいらっしゃらないのですか」
「亡くなる少し前に生まれました。しかも困ったことに女の子なのです。男の子よりも将来の心配をしてやらなければなりませんから、どうしたらよいものか、老い先短い妹は悩んでおります」
やはり兵部卿の宮のお子だったと、源氏の君はひそかにうなずかれた。
「突然の申し出で怪しく思われるかもしれませんが、ぜひ私に幼い姫君の後見をさせていただきたいと、尼君にお伝えくださいませんか。私は左大臣の姫君を正妻にしておりますが、どうもしっくりいかず、いつも自宅の二条の院で独り住まいをしているのです。こちらの姫君がまだ幼くていらっしゃることは分かっております。見境のない女好きだとはお思いにならないでください」
「たいそうありがたい仰せでございますが、まだ本当に幼いのでございますよ。奥様にしていただくどころか、お話し相手さえ務まりませんでしょう。とはいえ、女の子の結婚相手は育てた人が決めるものですから、私が口をはさむことではございません。妹に今のお話をお伝えしておきましょう」
男女の橋渡しなど僧侶にはふさわしくない。堅苦しい態度を崩さずにお返事する。お若い源氏の君は恥ずかしくなって、これ以上何か言うのはためらってしまわれた。
沈黙をきっかけに僧都は立ち上がった。
「では、私はまだ少し修行が残っておりますので。済ませてからまた戻ってまいります」
と申し上げてお堂へ向かった。
源氏の君はご体調が悪くなっていく。
雨が降って、山風が冷ややかに吹いている。そのせいで近くの滝の音が大きくなった。僧都のお経を読む声がとぎれとぎれに聞こえてくる。
どんな人でも人生を考えてしまうような場所だった。まして悩み事の多い源氏の君はまどろむこともできない。すぐ戻ってくるような口ぶりだったのに、僧都は帰らないまますっかり夜が更けてしまった。
屋敷の奥の方では、女性たちもまだ起きている気配がした。
静かにするよう気を遣っているけれど、数珠の音や、そっと動くときの着物の音が、優しく上品に聞こえてくる。それほど遠くにいるわけではないらしい。
源氏の君はついたてを少しずらすと、扇を鳴らして女房を呼ぶ合図をなさった。
突然のことに女房は驚いたけれど、無視もできないから近づいてみる。ついたての向こうの源氏の君が何か御用をおっしゃるふうでもない。首をかしげて、
「聞き間違いかしら」
と奥へ戻ろうとした。
「仏様のお導きですから、暗いところでも聞き間違いはしないはずですよ」
聞こえてきたお声はあまりに若々しくて優雅だった。気後れしながらもなんとかお返事をする。
「どなたのところへお導き申し上げたらよろしいのでしょう。ここにはあなた様にふさわしい女性はいらっしゃいませんが」
「唐突なことだと思われるのはもっともですが、『姫君にご同情して泣いております』とお伝えください」
「本当にそういう人はいらっしゃらないお屋敷ですのに、どなたにお伝えすればよろしいのでしょう」
女房は困ってしまう。うかつに引き受けられないご伝言だった。
「そちらのご事情はすべて分かっています。何も心配はいりません」
重ねてきっぱりとおっしゃるので、女房は奥へ戻って尼君にお伝えした。
<最近のお若い方は強引だこと。姫が結婚できるようなお年だと勘違いなさっているのだろう。それにしても、この屋敷に姫がおいでだとどうしてご存じなのか>
尼君はいろいろと腑に落ちない。動揺しながらも、お待たせしてはみっともないと、女房を通じてお返事なさった。
「あなた様のたった一晩の涙を、私の長年の涙と比べようとおっしゃるのですか」
姫君の存在は認めるお返事だった。
「人づてではなく直接お話しくださいせんか。まじめにご相談申し上げたいことがあるのです」
困りはてた尼君は女房にささやかれる。
「おそらく聞き違いをなさったのだろう。ああいうご立派な男性に、いったい何と申し上げたらよいものか」
「ごもっともですが、あちら様に恥ずかしい思いをおさせするのは、さらに恐れ多いことでございますから」
やはり尼君が源氏の君のおそばまで、と女房たちはお願いした。
「そうだね。年寄りがむやみに恥ずかしがっていてはいけないだう。丁寧に申し入れてくださったのだから」
ついたて越しに話ができるところまで尼君はお出になった。
「いきなり浅はかなことを言うとお思いになるかもしれませんが、まったくそんなつもりではないのです。私の強い意志は仏様もご存じでございましょう」
勢いよく切り出されたはよいものの、尼君の落ち着きはらったご様子に気後れして、次のお言葉が出てこない。
「そうまで熱心にお話しくださるのですから、浮ついたご興味ではございませんでしょう」
尼君は優しく言って、続きを促された。
「お気の毒な姫君の親代わりを、この私にさせていただけませんか。私も幼いころに母と祖母を亡くしました。ずっと一人ぼっちで年を取ってきたのです。こちらの姫君には祖母君のあなたがいらっしゃいますが、私はどうしても姫君が他人とは思われません。寂しい境遇の者同士としてお近づきになれたらと、そう申し上げたかったのです。こうしてお話しできる機会はめったにありませんから、つい失礼も顧みず、焦ってしまいました」
「ありがたいお話でございますが、何か聞き違いをなさったのではと存じます。たしかに孫娘は私しか頼る者がおりません。しかし本当にまだ子どもなのですよ。あなた様にお預けできるほどではありませんから、どうかお許しくださいませ」
「おっしゃることは何もかも承知しております。常識でお考えにならず、私の真剣な気持ちをお分かりください」
源氏の君はなおも言い募るけれど、尼君は源氏の君が垣間見なさったことをご存じない。姫君の年齢を勘違いしていらっしゃると思いこんで、さりげなくかわしてしまわれる。
僧都がやっと帰ってきたらしい。
「私がこう考えているということだけでもお聞きいただけましたから、今夜のところはこれで。詳しいことはおいおいご相談いたします」
源氏の君は、少し開けていたついたての隙間を元にお戻しになった。
もう明け方が近くなっていた。
お経を読む尊い声が、山風に乗って遠くから聞こえ、滝の音と響きあう。
源氏の君は僧都に朝の挨拶をおっしゃる。
「ありがたい音で目が覚めました。山風の音は煩悩を消し、滝の音は涙を誘いますね」
「さようでございますか。私はもう聞き慣れてしまいましたが」
僧都はあっさりとお返事した。
明けてゆく空はぼんやりと霞んで、鳥のさえずりがほのかに聞こえてくる。見たこともない色とりどりの花が散って、地面はまるで美しい布を敷いたよう。そこへ鹿がのんびりと歩いていく。めずらしい光景をご覧になっていると、ご病気の苦しさはすっかりまぎれてしまった。
山伏は昨日からのお祈りでもはや動けないほどになっていた。それでも僧都の屋敷まで下りてきて、源氏の君のために最後のお祈りをする。いかにもご利益のありそうなかれた声だった。
おもてなしの部屋はすっきりと美しく、よい香りがする。部屋のお香と、仏様のためのお香が混ざりあったところに、源氏の君の着物からひときわすばらしい香りが漂った。
奥の部屋まで香りは届く。尼君や女房たちは緊張していたでしょうね。
僧都は仏教に関するお話をした。この世は儚いものだから、罪を犯さず来世の幸せを祈って淡々と生きるべきだ、とお教えする。ありがたいお話だけれど、源氏の君のお胸にはずしりと重い。
<あの罪が恐ろしい。とんでもないことをしてしまった。生きている限り悩み、死ねば地獄でさらに苦しむことになるだろう。出家したら罪が消えるというから、いっそこの僧都のような暮らしをしようか>
そう思う一方で、昼間見た少女が恋しい。
「こちらにお住まいの女性はどなたですか。その方をお訪ねするようにという夢のお告げがあったのです」
下手な嘘を見抜いて僧都は苦笑した。
「ずいぶん突然な夢のお話でございますね。訪ねてごらんになっても期待外れでがっかりなさいますよ。ここに住んでいるのは私の妹です。夫を亡くして尼になっておりましたが、最近病気になり、私を頼ってやってまいりました。それで一緒に住んでいるのです。夫というのはずっと昔に大納言をしていた人ですが、お若いあなた様はご存じありますまい」
源氏の君としては尼君よりも少女が気になる。
「亡き大納言と尼君には姫君がいらっしゃいませんか。いえ、浮気心でお尋ねしているのではなく、真面目にお尋ねしています」
少女は尼君の娘だろうと予想して話を誘導なさった。
「ええ、娘がひとりおりましたが」
話は思わぬ方へ進む。
大納言と尼君は娘を入内させようと大切に育てていたけれど、大納言が亡くなって入内の話はなくなってしまったらしい。
「すると、ひょんなことから兵部卿の宮がこっそりお通いになりはじめたのです。ところが宮のご正妻がご身分の高い方で、何かと嫌がらせをなさいます。それを気に病みまして、かわいそうに亡くなってしまいました。もう十年ほど昔のことでございますが」
<では、その姫君が生んだ兵部卿の宮のお子だろうか>
もしそうなら尼君は少女の母親ではなく祖母。予想と少し違ったけれど、ある意味では納得なさる。
<兵部卿の宮はあの方の兄君でいらっしゃる。少女が宮のお子なら、あの方と少女は叔母と姪だ。それでよく似ていたのだろう。覗き見した感じでは、まだ幼くて利口ぶったところがなかった。あの少女を自分好みに育てあげて妻にしたい>
つい先ほどまで出家をお考えだったのに、煩悩がむくむくとふくれ上がる。確信を得ようとさらにお尋ねになった。
「お気の毒なことですね。亡くなった姫君に忘れ形見はいらっしゃらないのですか」
「亡くなる少し前に生まれました。しかも困ったことに女の子なのです。男の子よりも将来の心配をしてやらなければなりませんから、どうしたらよいものか、老い先短い妹は悩んでおります」
やはり兵部卿の宮のお子だったと、源氏の君はひそかにうなずかれた。
「突然の申し出で怪しく思われるかもしれませんが、ぜひ私に幼い姫君の後見をさせていただきたいと、尼君にお伝えくださいませんか。私は左大臣の姫君を正妻にしておりますが、どうもしっくりいかず、いつも自宅の二条の院で独り住まいをしているのです。こちらの姫君がまだ幼くていらっしゃることは分かっております。見境のない女好きだとはお思いにならないでください」
「たいそうありがたい仰せでございますが、まだ本当に幼いのでございますよ。奥様にしていただくどころか、お話し相手さえ務まりませんでしょう。とはいえ、女の子の結婚相手は育てた人が決めるものですから、私が口をはさむことではございません。妹に今のお話をお伝えしておきましょう」
男女の橋渡しなど僧侶にはふさわしくない。堅苦しい態度を崩さずにお返事する。お若い源氏の君は恥ずかしくなって、これ以上何か言うのはためらってしまわれた。
沈黙をきっかけに僧都は立ち上がった。
「では、私はまだ少し修行が残っておりますので。済ませてからまた戻ってまいります」
と申し上げてお堂へ向かった。
源氏の君はご体調が悪くなっていく。
雨が降って、山風が冷ややかに吹いている。そのせいで近くの滝の音が大きくなった。僧都のお経を読む声がとぎれとぎれに聞こえてくる。
どんな人でも人生を考えてしまうような場所だった。まして悩み事の多い源氏の君はまどろむこともできない。すぐ戻ってくるような口ぶりだったのに、僧都は帰らないまますっかり夜が更けてしまった。
屋敷の奥の方では、女性たちもまだ起きている気配がした。
静かにするよう気を遣っているけれど、数珠の音や、そっと動くときの着物の音が、優しく上品に聞こえてくる。それほど遠くにいるわけではないらしい。
源氏の君はついたてを少しずらすと、扇を鳴らして女房を呼ぶ合図をなさった。
突然のことに女房は驚いたけれど、無視もできないから近づいてみる。ついたての向こうの源氏の君が何か御用をおっしゃるふうでもない。首をかしげて、
「聞き間違いかしら」
と奥へ戻ろうとした。
「仏様のお導きですから、暗いところでも聞き間違いはしないはずですよ」
聞こえてきたお声はあまりに若々しくて優雅だった。気後れしながらもなんとかお返事をする。
「どなたのところへお導き申し上げたらよろしいのでしょう。ここにはあなた様にふさわしい女性はいらっしゃいませんが」
「唐突なことだと思われるのはもっともですが、『姫君にご同情して泣いております』とお伝えください」
「本当にそういう人はいらっしゃらないお屋敷ですのに、どなたにお伝えすればよろしいのでしょう」
女房は困ってしまう。うかつに引き受けられないご伝言だった。
「そちらのご事情はすべて分かっています。何も心配はいりません」
重ねてきっぱりとおっしゃるので、女房は奥へ戻って尼君にお伝えした。
<最近のお若い方は強引だこと。姫が結婚できるようなお年だと勘違いなさっているのだろう。それにしても、この屋敷に姫がおいでだとどうしてご存じなのか>
尼君はいろいろと腑に落ちない。動揺しながらも、お待たせしてはみっともないと、女房を通じてお返事なさった。
「あなた様のたった一晩の涙を、私の長年の涙と比べようとおっしゃるのですか」
姫君の存在は認めるお返事だった。
「人づてではなく直接お話しくださいせんか。まじめにご相談申し上げたいことがあるのです」
困りはてた尼君は女房にささやかれる。
「おそらく聞き違いをなさったのだろう。ああいうご立派な男性に、いったい何と申し上げたらよいものか」
「ごもっともですが、あちら様に恥ずかしい思いをおさせするのは、さらに恐れ多いことでございますから」
やはり尼君が源氏の君のおそばまで、と女房たちはお願いした。
「そうだね。年寄りがむやみに恥ずかしがっていてはいけないだう。丁寧に申し入れてくださったのだから」
ついたて越しに話ができるところまで尼君はお出になった。
「いきなり浅はかなことを言うとお思いになるかもしれませんが、まったくそんなつもりではないのです。私の強い意志は仏様もご存じでございましょう」
勢いよく切り出されたはよいものの、尼君の落ち着きはらったご様子に気後れして、次のお言葉が出てこない。
「そうまで熱心にお話しくださるのですから、浮ついたご興味ではございませんでしょう」
尼君は優しく言って、続きを促された。
「お気の毒な姫君の親代わりを、この私にさせていただけませんか。私も幼いころに母と祖母を亡くしました。ずっと一人ぼっちで年を取ってきたのです。こちらの姫君には祖母君のあなたがいらっしゃいますが、私はどうしても姫君が他人とは思われません。寂しい境遇の者同士としてお近づきになれたらと、そう申し上げたかったのです。こうしてお話しできる機会はめったにありませんから、つい失礼も顧みず、焦ってしまいました」
「ありがたいお話でございますが、何か聞き違いをなさったのではと存じます。たしかに孫娘は私しか頼る者がおりません。しかし本当にまだ子どもなのですよ。あなた様にお預けできるほどではありませんから、どうかお許しくださいませ」
「おっしゃることは何もかも承知しております。常識でお考えにならず、私の真剣な気持ちをお分かりください」
源氏の君はなおも言い募るけれど、尼君は源氏の君が垣間見なさったことをご存じない。姫君の年齢を勘違いしていらっしゃると思いこんで、さりげなくかわしてしまわれる。
僧都がやっと帰ってきたらしい。
「私がこう考えているということだけでもお聞きいただけましたから、今夜のところはこれで。詳しいことはおいおいご相談いたします」
源氏の君は、少し開けていたついたての隙間を元にお戻しになった。
もう明け方が近くなっていた。
お経を読む尊い声が、山風に乗って遠くから聞こえ、滝の音と響きあう。
源氏の君は僧都に朝の挨拶をおっしゃる。
「ありがたい音で目が覚めました。山風の音は煩悩を消し、滝の音は涙を誘いますね」
「さようでございますか。私はもう聞き慣れてしまいましたが」
僧都はあっさりとお返事した。
明けてゆく空はぼんやりと霞んで、鳥のさえずりがほのかに聞こえてくる。見たこともない色とりどりの花が散って、地面はまるで美しい布を敷いたよう。そこへ鹿がのんびりと歩いていく。めずらしい光景をご覧になっていると、ご病気の苦しさはすっかりまぎれてしまった。
山伏は昨日からのお祈りでもはや動けないほどになっていた。それでも僧都の屋敷まで下りてきて、源氏の君のために最後のお祈りをする。いかにもご利益のありそうなかれた声だった。