冷徹ドクターは初恋相手を離さない
「そうなんですね。たしかに、私も今回の実習で乳がんの患者さん特有の思いってあるんじゃないかなって思っていたところです。難しいと感じました」
「詩織も乳腺外科の面白さに気づいてくれて嬉しいよ。まあでも、患者からしたら男の乳腺外科医は嫌だろうけれどね。だからこそ、不快に思われないよう説明をしっかりして、納得してもらった上で診察している」
 直哉さんは自分の仕事に誇りを持っている。
 吉村さん、あれから元気にしているかな。直哉さんに聞けばきっと術後の経過観察などで診察しているだろうし、わかるかもしれない。けれど、私はむやみに聞いたりはしなかった。
 きっと元気に過ごしているだろうと信じているから。
「あ、そろそろ着くぞ。……あれだな」
「わぁ! すごーい!」
 カーブの多い舗装された道路を道なりに進んでいく途中に現れた『ほしかわ屋』と達筆で書かれた大きな看板が目印。
 その看板の先には手入れの行き届いたカエデが緑色に生い茂り、鮮やかなトンネルのようになっていて、それを抜けると駐車場があった。秋になると紅葉が綺麗な紅葉トンネルになるのだろう。
 広々とした駐車場に直哉さんが車を停め、車から降りる。すると、平地よりも涼しくひんやりとした空気が私たちを包んだ。緑に囲まれた自然豊かな旅館の環境は、日々の疲れを癒してくれる。
「空気が澄んでるな」
 駐車場の付近に生える木々が陰になっていて涼しいのか。思いっきり深呼吸をすると、肺の隅々まで綺麗になるような気がする。
 ひっそりと構える旅館は上品でありながら派手ではない落ち着いた風雅な日本建築。
 レトロな雰囲気を漂わせる風貌はまさしく百年の時を紡いできた老舗としての佇まいだろうか。こんな素敵なところ、初めてだ。
(直哉さん、ここに連れてくるつもりだったとは知らなかった。だってここ、お高いけれど美味しいお料理と気持ちいい温泉が揃うで有名な老舗旅館だよ? 今回は俺が払うよって言っていたのはこういうことだったの!?)
「こんなお高いところ……本当にいいんですか?」
「気にするな。俺はここで詩織と泊まってみたいと思って選んだだけだから」
 そう言うと直哉さんは私の手を取り、歩き始めた。
 旅館の中に入ると、スーツを着た女性がお辞儀をして出迎えてくれた。
 チェックインを済ませ、宿泊に関する説明や食事、温泉についての話を一通り聞いた後、『星の間』と呼ばれる部屋を案内されたため、該当する部屋を見つけて入室する。
 赤の絨毯が敷かれた廊下には大きな窓戸から西からの日差しが射していた。長い真っ直ぐな廊下を歩き、突き当りを右に曲がった一番奥の部屋だというので、『星の間』と木札に記されている部屋の戸を開ける。
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