野いちご源氏物語 〇七 紅葉賀(もみじのが)
頭中将も美しい貴公子だった。
<源氏の君の代わりにしてもよいかもしれない>
典侍はちらりとそんなことも考えてみるけれど、やはり源氏の君がよい。ぜいたくな選り好みだこと。
頭中将と典侍の関係を源氏の君はご存じない。典侍は内裏で源氏の君をお見かけするたびに恨み言を言った。相手の年齢を考えれば気の毒で、
<慰めてやらなければ>
と源氏の君は思ったものの、忙しくなさっているうちに面倒になって、ずいぶん日が経ってしまった。
夕立が降って涼しくなった夕暮れ時、典侍の控室のあたりまで行かれると、部屋から琵琶の音が聞こえてくる。典侍は琵琶が得意で、男性貴族にも負けないほどの腕前だった。物悲しい音色が、藤壺の女御のことで苦しむ源氏の君のお心にしみる。
弾きおえたところで、源氏の君は「東屋」という歌を歌いながらそっと近づかれた。
「どうぞ戸を押し開いて」
という歌詞を典侍は一緒に歌って、源氏の君をお招きした。こういう機転がふつうの女性とは違う。
「私のところへなど誰も来てくださらないのですよ。それなのに雨雲だけはやって来て、私を涙で濡らすのです」
部屋の中で典侍が嘆いた。
<あてつけがましいな。なぜそんなに悲しがるのだ>
できればこのまま通り過ぎてしまいたい。
「そなたには夫がいるだろう。人妻は面倒だ」
つれなく返したけれど、それもあんまりかと思い直して、戸を開けて中へお入りになる。典侍と軽薄な冗談を言いあっているうちに、これはこれでおもしろいような気もなさった。
源氏の君が典侍の部屋にお入りになったところを偶然見かけた人がいた。
<ついに見つけたぞ。少し脅かしてさしあげよう>
にやりとなさったのは頭中将。源氏の君がいつも真面目ぶって、義兄の自分にまでお説教なさるのが癪だった。
<源氏の君にだって秘密の恋人がたくさんいるはずだ。なんとかして現場を押さえたい>
つねづねそう思っていらっしゃったから、まさにこれは絶好の機会。しばらく部屋の外で待って、事が済んだころに乗りこむおつもりらしい。
風が冷ややかに吹いて少し夜が更けたころ、部屋の物音がやんだ。お休みになったのだろうと頭中将は忍び足で入っていかれる。源氏の君はこういうところで気を許して眠る気にはなれず、起きていらっしゃった。
<典侍の夫か>
まさか頭中将だとはお思いにならない。典侍の年老いた夫にこんなところを見つけられるのは恥ずかしかった。
「誰か来るなら言ってくれればよかったものを。私は帰る」
あわてて典侍を起こすと、ご自分の着物を持ってついたての後ろにお隠れになる。
頭中将はおかしくてたまらない。笑いをこらえながら、わざと大きな音を立ててついたてを動かしなさる。典侍はこれまでにも似たような経験があったらしい。動揺しながらも冷静だった。
<源氏の君をお助けしなければ>
頭中将の袖をつかんで引っ張ろうとする。源氏の君は正体がばれる前に部屋をお出になりたい。
<しかし冠も着物も乱れたまま出ていけば、その後ろ姿はあまりにみっともないだろう>
しいてお心を落ち着かせようとなさる。
頭中将も正体を隠すために声をお出しにならない。ただ非常に怒っているふりをして、腰の太刀をお抜きになった。
典侍は頭中将の袖をぱっと離す。
「あなた、あなた、お願いですからそれだけは」
手を合わせて拝みはじめたから、頭中将は思わず笑ってしまいそうになった。五十代後半の典侍が、二十歳前後の貴公子ふたりにはさまれておろおろしている。なんともすさまじい光景だった。
頭中将の大げさすぎるお芝居のおかげで、源氏の君は相手の正体にお気づきになった。太刀を持つ腕をつかまえてつねってごらんになると、頭中将はついに笑ってしまわれた。
源氏の君は驚きと安心で大きく息を吐いておっしゃる。
「あぁもう、何をしていらっしゃるのだ。正気ですか。着物を着るから、そこをどいてください」
頭中将はまだお許しにならない。源氏の君の着物をぐいっとお引きになった。
「それならあなたもだ」
源氏の君は笑って、頭中将の帯をほどいて着物を脱がせようとなさる。お互いに引っぱり合いをしていらっしゃるうちに、着物の縫い目がほつれてしまった。
「このほつれたところから、あなたの浮いた噂が漏れていくでしょうね。どうなさいます。お召しになりますか」
頭中将がおからかいになると、
「今夜のことを誰かにお話しになったら、あなただってこの老女官との関係を世間に教えることになる」
と源氏の君は言い返しなさる。ふたりで笑いあって、ぼろぼろな姿のままで仲良く部屋から出ていかれた。
<源氏の君の代わりにしてもよいかもしれない>
典侍はちらりとそんなことも考えてみるけれど、やはり源氏の君がよい。ぜいたくな選り好みだこと。
頭中将と典侍の関係を源氏の君はご存じない。典侍は内裏で源氏の君をお見かけするたびに恨み言を言った。相手の年齢を考えれば気の毒で、
<慰めてやらなければ>
と源氏の君は思ったものの、忙しくなさっているうちに面倒になって、ずいぶん日が経ってしまった。
夕立が降って涼しくなった夕暮れ時、典侍の控室のあたりまで行かれると、部屋から琵琶の音が聞こえてくる。典侍は琵琶が得意で、男性貴族にも負けないほどの腕前だった。物悲しい音色が、藤壺の女御のことで苦しむ源氏の君のお心にしみる。
弾きおえたところで、源氏の君は「東屋」という歌を歌いながらそっと近づかれた。
「どうぞ戸を押し開いて」
という歌詞を典侍は一緒に歌って、源氏の君をお招きした。こういう機転がふつうの女性とは違う。
「私のところへなど誰も来てくださらないのですよ。それなのに雨雲だけはやって来て、私を涙で濡らすのです」
部屋の中で典侍が嘆いた。
<あてつけがましいな。なぜそんなに悲しがるのだ>
できればこのまま通り過ぎてしまいたい。
「そなたには夫がいるだろう。人妻は面倒だ」
つれなく返したけれど、それもあんまりかと思い直して、戸を開けて中へお入りになる。典侍と軽薄な冗談を言いあっているうちに、これはこれでおもしろいような気もなさった。
源氏の君が典侍の部屋にお入りになったところを偶然見かけた人がいた。
<ついに見つけたぞ。少し脅かしてさしあげよう>
にやりとなさったのは頭中将。源氏の君がいつも真面目ぶって、義兄の自分にまでお説教なさるのが癪だった。
<源氏の君にだって秘密の恋人がたくさんいるはずだ。なんとかして現場を押さえたい>
つねづねそう思っていらっしゃったから、まさにこれは絶好の機会。しばらく部屋の外で待って、事が済んだころに乗りこむおつもりらしい。
風が冷ややかに吹いて少し夜が更けたころ、部屋の物音がやんだ。お休みになったのだろうと頭中将は忍び足で入っていかれる。源氏の君はこういうところで気を許して眠る気にはなれず、起きていらっしゃった。
<典侍の夫か>
まさか頭中将だとはお思いにならない。典侍の年老いた夫にこんなところを見つけられるのは恥ずかしかった。
「誰か来るなら言ってくれればよかったものを。私は帰る」
あわてて典侍を起こすと、ご自分の着物を持ってついたての後ろにお隠れになる。
頭中将はおかしくてたまらない。笑いをこらえながら、わざと大きな音を立ててついたてを動かしなさる。典侍はこれまでにも似たような経験があったらしい。動揺しながらも冷静だった。
<源氏の君をお助けしなければ>
頭中将の袖をつかんで引っ張ろうとする。源氏の君は正体がばれる前に部屋をお出になりたい。
<しかし冠も着物も乱れたまま出ていけば、その後ろ姿はあまりにみっともないだろう>
しいてお心を落ち着かせようとなさる。
頭中将も正体を隠すために声をお出しにならない。ただ非常に怒っているふりをして、腰の太刀をお抜きになった。
典侍は頭中将の袖をぱっと離す。
「あなた、あなた、お願いですからそれだけは」
手を合わせて拝みはじめたから、頭中将は思わず笑ってしまいそうになった。五十代後半の典侍が、二十歳前後の貴公子ふたりにはさまれておろおろしている。なんともすさまじい光景だった。
頭中将の大げさすぎるお芝居のおかげで、源氏の君は相手の正体にお気づきになった。太刀を持つ腕をつかまえてつねってごらんになると、頭中将はついに笑ってしまわれた。
源氏の君は驚きと安心で大きく息を吐いておっしゃる。
「あぁもう、何をしていらっしゃるのだ。正気ですか。着物を着るから、そこをどいてください」
頭中将はまだお許しにならない。源氏の君の着物をぐいっとお引きになった。
「それならあなたもだ」
源氏の君は笑って、頭中将の帯をほどいて着物を脱がせようとなさる。お互いに引っぱり合いをしていらっしゃるうちに、着物の縫い目がほつれてしまった。
「このほつれたところから、あなたの浮いた噂が漏れていくでしょうね。どうなさいます。お召しになりますか」
頭中将がおからかいになると、
「今夜のことを誰かにお話しになったら、あなただってこの老女官との関係を世間に教えることになる」
と源氏の君は言い返しなさる。ふたりで笑いあって、ぼろぼろな姿のままで仲良く部屋から出ていかれた。