公爵令嬢の婚活事情〜王太子妃になりたくないので、好きな人と契約結婚はじめました〜
 公爵家に返すつもりで渡した婚姻届をルキに受け取ってもらえなかった。
 しかも好きにしていいという。

「どうしようかな、これ」

 とりあえず婚姻届は当面シルヴィアに見つかるわけにはいかないのでどこかに隠すとして、家庭教師をして欲しいと頼まれた件もそろそろ答えを出さなくてはいけない。
 そもそも財力で解決できるお嬢様に教えることなんて特にない気もするのだけど。
 困った、とハルが自宅に向かって歩いていると。

「とにかくすっごい煙なんだって!」

 パタパタと駆けていく子どもの会話を耳が拾う。

「消防団来るかな!!」

 空気が乾燥してきたし、火事かなとぼんやり考えていたハルが角を曲がった時、自宅方面に沢山の人だかりができておりその先に上がる煙が目に入った。
 嫌な想像が頭を掠め、背筋がゾッとする。
 芋蔓式にハルの記憶の蓋が開く。

『ごめん、ハル。ごめん、ね』

 何も遺してあげられなくて。
 強張った声と泣くなと言い聞かせて作った笑顔。そう言って伸ばされた姉の手はいつも冷たかった。
 それは兄に拾われるより少し前の出来事で。
 転々と転々と姉に手を引かれ住処を渡り歩いていた日々で、色んなところで火の手が上がっていたのを朧気ながら覚えている。
 疫病が広がったストラル領では、疫病で亡くなった人や家屋は容赦なく焼かれていたのだとずっと後になって知った。
 そして、ごめんといったベルの言葉の意味も。
 
「……シル、ちゃん?」

 火は一瞬で全部持って行く。
 そして、大事なモノは絶対に手放してはいけないのだとあの時学んだ。
 ハルは嫌な想像を追い出すように、人混みを避け裏路地から自宅方面に走って行った。
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