公爵令嬢の婚活事情〜王太子妃になりたくないので、好きな人と契約結婚はじめました〜
 多分、その時点で彼女は公爵家という家門の責任と自分の影響力について正しく理解していた。
 だから、自分一人の責で済むように、自ら動くしかなかったのだ。
 安全圏から何の役にも立たない的外れな小言を向ける無関心な大人達に、ただの癇癪で片付けてもらうために。
 自分にとって大事なモノを守るためなら、悪評()が増えても構わないとばかりにシルヴィアはいつも捨て身で。
 その姿は伯爵家とルキのために自ら幕引きを選んだベルと重なって見えて。
 どれだけシルヴィアが泣き叫んでもベルが彼女の前に出てくることはないと知っていたから、尚更放って置けなくて。

『ここ、空いてる?』

 だから、あの日泣いているシルヴィアに声をかけたのはただの偽善だった。

「ハイ、ストーップ」

 パンッと耳元で音がし、はっとハルの思考が止まる。

「ねぇねぇ、ハルくん。君が優秀なのは十二分に知ってるんだけどね? 君、本当にうちの部署から異動しちゃう気?」

 もしくは転職? とやや呆れた口調のレインが手を伸ばし書類をとりあげる。

「ほぼ完璧な引き継ぎ書に、観光誘致プレゼン用資料から、学生向けイベント準備に来期の決算書案まで」

「……あ」

 ほぼ無意識に準備していたそれらに視線を落とし、ハルはパチパチとアクアマリンの瞳を瞬かせる。

「よくもまぁこの短時間でここまで作り上げたものだよ。しかも何やら違う事を考えている片手間で」

 すっごい集中力、と言いながらグリグリと雑に頭を撫でられ、正気にもどったハルからさっと血の気が引く。

「べ、別に今までも手を抜いていたわけではなくてですね」

 見透かされた、と思うと同時に誤魔化さなくてはと反射的に口を開くハルに、

「うん、花丸満点。ここまでできたなら今日は帰ってよし」

 レインはハルの言い訳も詳しい事情も問いただす事なくいつもの口調でそう言った。

「へ? いや、まだ終業時間まで」

「君は俺に"ずっと従順な後輩のままでいたい"って言ってくれたね」

 驚いた顔をするハルに、

「俺もね、君にとって"いい先輩"でありたいと思うよ」

 できる上司は忙しいんだよ、と揶揄うように笑うと、

「気がかりを解消しておいで。体調悪くなったら明日は休んでもいいから」

 その時は連絡してねと職場からハルを追い出した。
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