冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む
3・それぞれの思い
拓也と偶然の再会に驚き、逃げるようにその場を立ち去ってから五日が過ぎた。
「水守さん、主治医の先生が、術後の回復が順調だって話されていましたよ」
遠鐘病院の外来の奥にあるレントゲン室からエレベーターに向かって車椅子を押す香苗は、そこに座る男性に声をかけた。
「九重さんのおかげだよ」
そんな社交辞令を返すのは、バイク事故による骨折で入院している水守という患者だ。
彼が事故を起こしたのは四月後半。
今日は検査病棟をいくつか回るため、負担を考え移動には車椅子を利用しているが、普段の移動は松葉杖があれば可能となっている。
先ほどの検査結果も良好とのことだったので、近く退院できるだろう。
「じゃあ、退院したらデートしようよ」
水守の誘いを聞こえないフリをして聞き流す。
時々、入院ついでといった感じで看護師を口説く間者がいるけど、こちらは仕事中なのだから、そういった誘いは迷惑でしかない。
無視することで断ったつもりなのだけど、水守はそのまましつこく香苗をデートにさそってくる。
「九重さん、恋人はいるの?」
入院病棟に戻るためにエレベーターの前で車椅子を止めると、水守が腰をひねってこちらを見上げてきた。
自分に向けられる水守の眼差しにただならぬ熱を感じ、香苗は居心地の悪さを覚えた。
「はい。結婚も考えています」
それは全くの嘘だけど、そういうことにしておこう。
彼に諦めてほしくてそう話して、香苗は腕を伸ばしてエレベーターの昇降ボタンを押す。
すると水守が、その腕を掴んだ。
「え?」
思いがけない強さで手首を掴まれ、香苗が驚きの声を漏らした。
水守は香苗の手首を掴んだまま言う。
「それ嘘でしょ。他の看護師が、九重さんは恋人がいないって話してた。だから俺が、九重さんの恋人に立候補してやるって言ってやってんだよ」
口元は笑みを湛えているが、瞳の色に有無を言わせぬ強引さがある。
自分の望んだ言葉以外聞く耳を持たないと言いたげな相手の雰囲気に、香苗は本能的な危機感を覚えた。
それでも相手は、入院中の患者だ。過剰反応するのもよくないと思い、香苗は薄く笑って掴まれた手を自分の方に引く。
「そういう冗談は困ります」
笑い話として受け流そうとしたのだけど、水守は手の力を緩めてくれない。
それどころか、掴む手により力を込めてくる。
「俺、マジで口説いているんだけど」
そう話す間も手首を掴む力が強まり、鈍い痛みに指先が痺れる。
周囲に人の気配はないだけに気持ちが焦る。
そんな状況で、このまま彼とふたりきりでエレベーターに乗り込むことに恐怖を覚え始めた時、男性の声が聞こえてきた。
「それは困るな」
そんな言葉と同時に、横から伸びてきた手が水守の手を押さえた。
「えっ」
突然のことに驚いたのか、水守の手の力が和らぐ。
その隙を突いて声の主は、香苗の肩を自分へと引き寄せた。
「彼女は俺の婚約者だ。口説くなら他の女性にしてもらいたい」
(婚約者?)
自分にそんな者はいない。
香苗は背中に男性的なたくましい胸板が触れるのを感じながら、わけのわからない状況に目を丸くしていた。
そして驚きつつ背後を確認して、さらに目を丸くする。
「拓也君……」
香苗は自分の目を疑った。
守るように自分の肩を抱いているのは、間違いなく拓也だ。
「嘘だ。そんな話、聞いてないぞ」
「君が誰からどんな話を聞いたのかは知らないが、彼女は俺と結婚の約束をしている」
拓也はそう言って、香苗に目配せをする。
彼の視線を受けて、香苗は頷く。
だけどその約束を交わしたのは、ふたりが付き合っていた頃の話だ。
今さらそんな昔の話しを持ち出されても戸惑うしどうして彼がここにいるかわからない。
拓也は混乱する香苗に構うことなく、彼女をしっかりと抱き、視線で水守を威嚇する。
「そういうわけだ。彼女は俺のものだから、口説くなら他の女にしてくれ」
突き放すような拓也の言い方には、反論の余地を与えない気迫がある。
その勢いに気負され水守は一瞬怯んだが、すぐに車椅子の肘かけに乗せている手に力を込めて反論する。
「他の看護師からも、そんな話を聞いたことないぞっ!」
「個人情報の保護が尊重される時代、同僚ナースが軽々しく君に彼女の情報を晒すとは思えない。本当に、誰かに聞いたのか? 君が自分に都合のいい用にそう話しているだけじゃないのか?」
あっさり切り替えされ、水守は奥歯を噛む。
その反応を見るに、彼の発言は確信を突いていたらしい。
水守がおとなしくなったのを確認して、拓也は香苗の肩から手を離して言う。
「香苗、仕事中に声をかけて悪かった。今日はこちらの依田先生と会う予定があって訪問させてもらったんだが」
親しげな雰囲気を漂わせながら拓也が言う。
改めて彼を見ると、彼はシックなデザインのスーツを着ている。
どうやら医師としての用があって、ここを訪れたらしい。
「何科の先生でしょうか?」
彼が口にした苗字に、自分の科にいる医師の顔が思い浮かぶが、念のために確認すると、拓也は「外科」と答える。
香苗が思い浮かべた依田医師で合っていたようだ。
ただ、今日の彼は非番ではなかっただろうか。そう思った時、離れた場所から拓也を呼ぶ声が聞こえた。
見ると、その依田がこちらに手を振りながら歩いてくるのが見えた。
「矢崎、捜しただろ。なんでこんなところにいるんだよ」
かなり拓也を探し回ったのか、駆けつけた依田は膝に両手をついて肩で息をする。
「受付ロビーで待ち合わせのはずだろ」
姿勢を直した依田が拓也に文句を言う。
依田もスラックスにジャケットを羽織っているが、オフィスカジュアルと言った感じで、拓也ほどかっちりしたスーツ姿ではない。
「悪い。暇だからコンビニを探してた」
ふたりの親しげなやり取りを静かに見守っていると、視線に気付いた依田が言う。
「ごめんね。九重さん、意味わかんないから驚くよね。こちら僕の大学時代の同級生の矢崎拓也先生、ふじき総合病院の救命救急に勤務しているんだ。まだ若いけど“断らないドクター”なんて呼ばれて、敏腕ということもあり救命救急の間では信頼されている」
依田が口にしたのは、都内にある総合病院の名前だ。
大学付属の総合病院で、二十四時間体制で高度救急医療をおこなう三次救急指定病院として知られている。
そこで勤務するということは、拓也はかなり優秀な医師なのだろう。
「そう……なんですね」
香苗は、今さらながらに拓也にお辞儀をし本来の自分の仕事に立ち戻る。
「では私は、入院病棟に戻ります」
そう言って水守に視線を向ける。
水守も、上手く状況が飲み込めず戸惑っているようだ。
先ほどの荒々しさは消え去り、おとなしく車椅子に座っている。
この状態なら、ふたりきりでエレベーターに乗っても大丈夫だろう。
「じゃあ僕たちも行くとするか。とりあえず、コンビニに行けばいいのか?」
依田が拓也に声をかける。
話している間に一度開いたエレベータードアが閉まっていたので、香苗は再びエレベーターボタンに指を伸ばす。
するとその手を、先ほどとは違う手が掴んだ。
拓也の手だ。
「矢崎?」
突然の行動に依田が戸惑いの声をあげたが、拓也はそれには構わず依田に言う。
「依田、その患者さんはお前が送ってやってくれ。コンビニは、彼女に案内してもらうから」
「はぁ? 僕、今日は非番なんだけど」
一度は不満を口にした依田だけど、香苗と水守を見比べると、なにか納得した様子で頷きこちらに手を伸ばす。
「そういえば、担当している患者さんの処方で確認しておきたいことがあった。ナースステーションに寄りたいから、九重さん、悪いけどその矢崎をコンビニまで案内しておいてくれる?」
依田はそう言って、香苗に代わって水守が座る車椅子のグリップを掴む。
「わかりました」
そんな理由を付けられたら、香苗に断る理由はない。
香苗が横に動くと、依田は不満げな顔をする水守にかまうことなく車椅子を押してエレベーターに乗り込む。
「そいつは、コンビニに捨ててきていいから」
依田のそんな言葉と共に自動ドアが閉まると、香苗は拓也を見た。
改めて向き合った彼は、確かに拓也なのだけど、香苗の思い出の中にいる姿と少しずつ違っていることに気付く。
昔から背の高い人だったけど、その頃よりさらに体が大きくなったと感じるのは、肩幅にしっかりとした厚みができて、大人の男性らしい体格になっているからだろうか。
顔も、スッキリとした目鼻立ちはそのままに、大人としての風格が備わったという感じだ。
(拓也君なのに、違う人みたい……)
事実、救命救急医として働く彼は、もう香苗が知る矢崎拓也ではないのだろう。
「香苗?」
控えめな声で名前を呼ばれて、香苗はハッとする。
あれこれ考えて、ついぼんやりしてしまっていた。
視線を上げると、大人の顔をした拓也が、気遣わしげに問いかけてくる。
「さっきのこと、怒ってる?」
「え?」
「俺が君の婚約者を名乗ったこと」
そう言われて、先ほどの水守とのやり取りに拓也が割って入ってくれたことを思い出す。
彼の突然の登場にも、その発言にもかなり驚かされたけど、それは怒っているというのとは違う。
「驚きはしたけど、怒ってはないです。て言うか、助けていただいて、ありがとうございます」
もちろん、さっきの彼の発言は、水守を黙らせるための嘘だ。
それでも彼が、自分との約束を忘れずにいてくれたことがうれしい。
「香苗、婚約したんだな」
気恥ずかしさから視線を落とし、意味もなく耳たぶに触れていると、拓也の声が降ってきた。
「え?」
驚いて見上げると、視線を横に向ける拓也の顔がある。
黙っていると一見不機嫌そうにも見える彼の横顔は大人びていて、やっぱり知っているのに知らない男の人に見えてしまう。
「香苗は九重総合医療センターのひとり娘なんだし、婚約者がいても不思議じゃないんだけど……」
そう言いながらも、彼の口調は不満げだ。
どこか拗ねているようにも思える彼の態度を奇妙なものに思いつつ、香苗は首を横に振る。
「あれは、さっきの患者さんに諦めてもらうための嘘で。私には恋人もいません」
「え?」
拓也が驚き声をあげてこちらを見た。
その表情に学生時代の面影を感じて、自然な思いで「好きな人はいますけど」と付け加える。
大人になった彼の姿に驚いてはいるけど、それでもこうやって向き合うと、今も自分は彼のことを愛しているのだと思い知らされる。
もちろんそれは香苗の一方的な思いで、拓也には迷惑な話だろう。
だからこの思いを言葉にするつもりはないが、せめて“好き”という言葉だけは言葉にすることを許してほしい。
「片思いだけど、すごく好きな人がいるんです」
思いの丈を込めた香苗の言葉に、拓也は興味なさげに視線を遠くに向ける。
「そうなんだ」
素っ気ない声に、彼にとって自分と付き合っていたことは、遠い過去の思い出にすぎないのだと理解する。
「えっと……では矢崎先生、コンビニに案内させていただきます」
そんな彼に告白めいたことを口にした自分が急に恥ずかしくなる。香苗は、急いで話題を変えた。
そうやって彼を名前ではく苗字で呼んで、今さらながらに彼の家族との関係が気になったけど、今さら香苗が詮索するようなことではないので触れないでおく。
「こちらです」
香苗は手で進む方角を示してから歩き出そうとした。
でも拓也が、腕を掴んでそれを引き止める。
「香苗、少し話せないか?」
彼がそんなこと言う意図がわからない。
「すみません、仕事中ですので」
高鳴る鼓動を悟られないよう素っ気なく答えると、拓也はスーツのポケットからスマートフォンを取り出す。
「じゃあ、今の番号教えて。香苗、いつの間にか番号変えただろ」
「え?」
香苗がスマホの番号を変えたのは、大学に進学するタイミングだ。
それを知っているということは、別れて二年以上経ってから拓也は自分に連絡を取ろうとしたことがあるのだろうか。
それほど長い間、彼のスマホの中には香苗の連絡先が保存されていたことに驚く。
一瞬そのことがうれしかったけど、逆を言えば、拓也にとって香苗の連絡先はわざわざ消す必要もない程度の情報だったのかもしれない。
香苗は、別れた後何度拓也に連絡してしまいそうになり、そんな自分に諦めを付けさせるために彼の情報を消去した。そこまでしても、心のどこかで彼の方から連絡をくれることを期待するのを止められなくてスマホの番号を変えたのに。
(拓也君にとって、私はその程度の存在だもんね)
「香苗、この前の講習を途中で帰っただろ。改めて受講するつもりなら、別日の講座を紹介したいんだ」
その説明で、彼が自分に連絡した理由を理解する。
それなら香苗ひとり、頑なに断る方が不自然だろう。
「わかりました。ただ私のことは、名前でなく苗字で呼んでください」
彼に名前を呼ばれる度に心が落ち着かない香苗は、そう条件を付けて、拓也に自分の連絡先を教えた。
そんな感情を押し隠した香苗の言葉に、拓也は「わかった」と、素っ気ない口調で返してスマホを操作した。
「水守さん、主治医の先生が、術後の回復が順調だって話されていましたよ」
遠鐘病院の外来の奥にあるレントゲン室からエレベーターに向かって車椅子を押す香苗は、そこに座る男性に声をかけた。
「九重さんのおかげだよ」
そんな社交辞令を返すのは、バイク事故による骨折で入院している水守という患者だ。
彼が事故を起こしたのは四月後半。
今日は検査病棟をいくつか回るため、負担を考え移動には車椅子を利用しているが、普段の移動は松葉杖があれば可能となっている。
先ほどの検査結果も良好とのことだったので、近く退院できるだろう。
「じゃあ、退院したらデートしようよ」
水守の誘いを聞こえないフリをして聞き流す。
時々、入院ついでといった感じで看護師を口説く間者がいるけど、こちらは仕事中なのだから、そういった誘いは迷惑でしかない。
無視することで断ったつもりなのだけど、水守はそのまましつこく香苗をデートにさそってくる。
「九重さん、恋人はいるの?」
入院病棟に戻るためにエレベーターの前で車椅子を止めると、水守が腰をひねってこちらを見上げてきた。
自分に向けられる水守の眼差しにただならぬ熱を感じ、香苗は居心地の悪さを覚えた。
「はい。結婚も考えています」
それは全くの嘘だけど、そういうことにしておこう。
彼に諦めてほしくてそう話して、香苗は腕を伸ばしてエレベーターの昇降ボタンを押す。
すると水守が、その腕を掴んだ。
「え?」
思いがけない強さで手首を掴まれ、香苗が驚きの声を漏らした。
水守は香苗の手首を掴んだまま言う。
「それ嘘でしょ。他の看護師が、九重さんは恋人がいないって話してた。だから俺が、九重さんの恋人に立候補してやるって言ってやってんだよ」
口元は笑みを湛えているが、瞳の色に有無を言わせぬ強引さがある。
自分の望んだ言葉以外聞く耳を持たないと言いたげな相手の雰囲気に、香苗は本能的な危機感を覚えた。
それでも相手は、入院中の患者だ。過剰反応するのもよくないと思い、香苗は薄く笑って掴まれた手を自分の方に引く。
「そういう冗談は困ります」
笑い話として受け流そうとしたのだけど、水守は手の力を緩めてくれない。
それどころか、掴む手により力を込めてくる。
「俺、マジで口説いているんだけど」
そう話す間も手首を掴む力が強まり、鈍い痛みに指先が痺れる。
周囲に人の気配はないだけに気持ちが焦る。
そんな状況で、このまま彼とふたりきりでエレベーターに乗り込むことに恐怖を覚え始めた時、男性の声が聞こえてきた。
「それは困るな」
そんな言葉と同時に、横から伸びてきた手が水守の手を押さえた。
「えっ」
突然のことに驚いたのか、水守の手の力が和らぐ。
その隙を突いて声の主は、香苗の肩を自分へと引き寄せた。
「彼女は俺の婚約者だ。口説くなら他の女性にしてもらいたい」
(婚約者?)
自分にそんな者はいない。
香苗は背中に男性的なたくましい胸板が触れるのを感じながら、わけのわからない状況に目を丸くしていた。
そして驚きつつ背後を確認して、さらに目を丸くする。
「拓也君……」
香苗は自分の目を疑った。
守るように自分の肩を抱いているのは、間違いなく拓也だ。
「嘘だ。そんな話、聞いてないぞ」
「君が誰からどんな話を聞いたのかは知らないが、彼女は俺と結婚の約束をしている」
拓也はそう言って、香苗に目配せをする。
彼の視線を受けて、香苗は頷く。
だけどその約束を交わしたのは、ふたりが付き合っていた頃の話だ。
今さらそんな昔の話しを持ち出されても戸惑うしどうして彼がここにいるかわからない。
拓也は混乱する香苗に構うことなく、彼女をしっかりと抱き、視線で水守を威嚇する。
「そういうわけだ。彼女は俺のものだから、口説くなら他の女にしてくれ」
突き放すような拓也の言い方には、反論の余地を与えない気迫がある。
その勢いに気負され水守は一瞬怯んだが、すぐに車椅子の肘かけに乗せている手に力を込めて反論する。
「他の看護師からも、そんな話を聞いたことないぞっ!」
「個人情報の保護が尊重される時代、同僚ナースが軽々しく君に彼女の情報を晒すとは思えない。本当に、誰かに聞いたのか? 君が自分に都合のいい用にそう話しているだけじゃないのか?」
あっさり切り替えされ、水守は奥歯を噛む。
その反応を見るに、彼の発言は確信を突いていたらしい。
水守がおとなしくなったのを確認して、拓也は香苗の肩から手を離して言う。
「香苗、仕事中に声をかけて悪かった。今日はこちらの依田先生と会う予定があって訪問させてもらったんだが」
親しげな雰囲気を漂わせながら拓也が言う。
改めて彼を見ると、彼はシックなデザインのスーツを着ている。
どうやら医師としての用があって、ここを訪れたらしい。
「何科の先生でしょうか?」
彼が口にした苗字に、自分の科にいる医師の顔が思い浮かぶが、念のために確認すると、拓也は「外科」と答える。
香苗が思い浮かべた依田医師で合っていたようだ。
ただ、今日の彼は非番ではなかっただろうか。そう思った時、離れた場所から拓也を呼ぶ声が聞こえた。
見ると、その依田がこちらに手を振りながら歩いてくるのが見えた。
「矢崎、捜しただろ。なんでこんなところにいるんだよ」
かなり拓也を探し回ったのか、駆けつけた依田は膝に両手をついて肩で息をする。
「受付ロビーで待ち合わせのはずだろ」
姿勢を直した依田が拓也に文句を言う。
依田もスラックスにジャケットを羽織っているが、オフィスカジュアルと言った感じで、拓也ほどかっちりしたスーツ姿ではない。
「悪い。暇だからコンビニを探してた」
ふたりの親しげなやり取りを静かに見守っていると、視線に気付いた依田が言う。
「ごめんね。九重さん、意味わかんないから驚くよね。こちら僕の大学時代の同級生の矢崎拓也先生、ふじき総合病院の救命救急に勤務しているんだ。まだ若いけど“断らないドクター”なんて呼ばれて、敏腕ということもあり救命救急の間では信頼されている」
依田が口にしたのは、都内にある総合病院の名前だ。
大学付属の総合病院で、二十四時間体制で高度救急医療をおこなう三次救急指定病院として知られている。
そこで勤務するということは、拓也はかなり優秀な医師なのだろう。
「そう……なんですね」
香苗は、今さらながらに拓也にお辞儀をし本来の自分の仕事に立ち戻る。
「では私は、入院病棟に戻ります」
そう言って水守に視線を向ける。
水守も、上手く状況が飲み込めず戸惑っているようだ。
先ほどの荒々しさは消え去り、おとなしく車椅子に座っている。
この状態なら、ふたりきりでエレベーターに乗っても大丈夫だろう。
「じゃあ僕たちも行くとするか。とりあえず、コンビニに行けばいいのか?」
依田が拓也に声をかける。
話している間に一度開いたエレベータードアが閉まっていたので、香苗は再びエレベーターボタンに指を伸ばす。
するとその手を、先ほどとは違う手が掴んだ。
拓也の手だ。
「矢崎?」
突然の行動に依田が戸惑いの声をあげたが、拓也はそれには構わず依田に言う。
「依田、その患者さんはお前が送ってやってくれ。コンビニは、彼女に案内してもらうから」
「はぁ? 僕、今日は非番なんだけど」
一度は不満を口にした依田だけど、香苗と水守を見比べると、なにか納得した様子で頷きこちらに手を伸ばす。
「そういえば、担当している患者さんの処方で確認しておきたいことがあった。ナースステーションに寄りたいから、九重さん、悪いけどその矢崎をコンビニまで案内しておいてくれる?」
依田はそう言って、香苗に代わって水守が座る車椅子のグリップを掴む。
「わかりました」
そんな理由を付けられたら、香苗に断る理由はない。
香苗が横に動くと、依田は不満げな顔をする水守にかまうことなく車椅子を押してエレベーターに乗り込む。
「そいつは、コンビニに捨ててきていいから」
依田のそんな言葉と共に自動ドアが閉まると、香苗は拓也を見た。
改めて向き合った彼は、確かに拓也なのだけど、香苗の思い出の中にいる姿と少しずつ違っていることに気付く。
昔から背の高い人だったけど、その頃よりさらに体が大きくなったと感じるのは、肩幅にしっかりとした厚みができて、大人の男性らしい体格になっているからだろうか。
顔も、スッキリとした目鼻立ちはそのままに、大人としての風格が備わったという感じだ。
(拓也君なのに、違う人みたい……)
事実、救命救急医として働く彼は、もう香苗が知る矢崎拓也ではないのだろう。
「香苗?」
控えめな声で名前を呼ばれて、香苗はハッとする。
あれこれ考えて、ついぼんやりしてしまっていた。
視線を上げると、大人の顔をした拓也が、気遣わしげに問いかけてくる。
「さっきのこと、怒ってる?」
「え?」
「俺が君の婚約者を名乗ったこと」
そう言われて、先ほどの水守とのやり取りに拓也が割って入ってくれたことを思い出す。
彼の突然の登場にも、その発言にもかなり驚かされたけど、それは怒っているというのとは違う。
「驚きはしたけど、怒ってはないです。て言うか、助けていただいて、ありがとうございます」
もちろん、さっきの彼の発言は、水守を黙らせるための嘘だ。
それでも彼が、自分との約束を忘れずにいてくれたことがうれしい。
「香苗、婚約したんだな」
気恥ずかしさから視線を落とし、意味もなく耳たぶに触れていると、拓也の声が降ってきた。
「え?」
驚いて見上げると、視線を横に向ける拓也の顔がある。
黙っていると一見不機嫌そうにも見える彼の横顔は大人びていて、やっぱり知っているのに知らない男の人に見えてしまう。
「香苗は九重総合医療センターのひとり娘なんだし、婚約者がいても不思議じゃないんだけど……」
そう言いながらも、彼の口調は不満げだ。
どこか拗ねているようにも思える彼の態度を奇妙なものに思いつつ、香苗は首を横に振る。
「あれは、さっきの患者さんに諦めてもらうための嘘で。私には恋人もいません」
「え?」
拓也が驚き声をあげてこちらを見た。
その表情に学生時代の面影を感じて、自然な思いで「好きな人はいますけど」と付け加える。
大人になった彼の姿に驚いてはいるけど、それでもこうやって向き合うと、今も自分は彼のことを愛しているのだと思い知らされる。
もちろんそれは香苗の一方的な思いで、拓也には迷惑な話だろう。
だからこの思いを言葉にするつもりはないが、せめて“好き”という言葉だけは言葉にすることを許してほしい。
「片思いだけど、すごく好きな人がいるんです」
思いの丈を込めた香苗の言葉に、拓也は興味なさげに視線を遠くに向ける。
「そうなんだ」
素っ気ない声に、彼にとって自分と付き合っていたことは、遠い過去の思い出にすぎないのだと理解する。
「えっと……では矢崎先生、コンビニに案内させていただきます」
そんな彼に告白めいたことを口にした自分が急に恥ずかしくなる。香苗は、急いで話題を変えた。
そうやって彼を名前ではく苗字で呼んで、今さらながらに彼の家族との関係が気になったけど、今さら香苗が詮索するようなことではないので触れないでおく。
「こちらです」
香苗は手で進む方角を示してから歩き出そうとした。
でも拓也が、腕を掴んでそれを引き止める。
「香苗、少し話せないか?」
彼がそんなこと言う意図がわからない。
「すみません、仕事中ですので」
高鳴る鼓動を悟られないよう素っ気なく答えると、拓也はスーツのポケットからスマートフォンを取り出す。
「じゃあ、今の番号教えて。香苗、いつの間にか番号変えただろ」
「え?」
香苗がスマホの番号を変えたのは、大学に進学するタイミングだ。
それを知っているということは、別れて二年以上経ってから拓也は自分に連絡を取ろうとしたことがあるのだろうか。
それほど長い間、彼のスマホの中には香苗の連絡先が保存されていたことに驚く。
一瞬そのことがうれしかったけど、逆を言えば、拓也にとって香苗の連絡先はわざわざ消す必要もない程度の情報だったのかもしれない。
香苗は、別れた後何度拓也に連絡してしまいそうになり、そんな自分に諦めを付けさせるために彼の情報を消去した。そこまでしても、心のどこかで彼の方から連絡をくれることを期待するのを止められなくてスマホの番号を変えたのに。
(拓也君にとって、私はその程度の存在だもんね)
「香苗、この前の講習を途中で帰っただろ。改めて受講するつもりなら、別日の講座を紹介したいんだ」
その説明で、彼が自分に連絡した理由を理解する。
それなら香苗ひとり、頑なに断る方が不自然だろう。
「わかりました。ただ私のことは、名前でなく苗字で呼んでください」
彼に名前を呼ばれる度に心が落ち着かない香苗は、そう条件を付けて、拓也に自分の連絡先を教えた。
そんな感情を押し隠した香苗の言葉に、拓也は「わかった」と、素っ気ない口調で返してスマホを操作した。