冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む
「そういえば、さっきのアレはなんだったんだ?」
「さっきの?」
寿司屋のカウンター席に座る拓也は、隣に座る友人にとぼけてみる。
カウンターに並んで一緒に食事をしているのは、大学で共に学んだ医師の依田隆司だ。
先日、講師として赴いたJPTECプロバイダー講習で、かつて恋人だった九重香苗に再開して驚いた。
彼女と話したいとい思いはあったが、短いやり取りで時間が足りない。
まずは講師の役目を果たし、その後で香苗を引き止めて話す気でいたのだが、講習が終わる前に香苗は体調不良を訴え帰ってしまった。
ただ彼女が残していったアンケート用紙のおかげで、香苗が看護師になったことや、勤務先を知ることができたのだ。
それを見て、長年再会を夢見ていた彼女が、思いの他近くにいたことにどれだけ驚いたことか。
しかも香苗が勤務している病院には、学生時代仲のよかった隆司がいたので、さっそく連絡を取り、互いの休みが合う日にまずは食事の約束をした。
とりあえずは、今の香苗の様子を少しでも知ることができれば満足――そう思い、見学を口実に遠鐘病院で待ち合わせをしたのだが、いざ訪れてみると、香苗が患者に絡まれている場面に遭遇してかなり焦った。
「とぼけるなよ。さっき、どうして僕に患者さんを任せたの?」
隆司が唇を尖らせて言う。
一浪して医大を卒業している隆司は、今年で三十歳なのだが、実年齢より若く見られることが多い。
そして職業を医者だと明かすと、なかなかの高確率で、小児科医と決めつけられてしまう。
本人はそういった誤解の原因は童顔な顔立ちにあると思っているようだが、拓也としては、彼の何気ない仕草にその理由があるのだと考えている。
とはいえそれは見た目の話しだけで、外科医としての技術は確かで、医師としても人としても信頼できる存在だ。
「普段の矢崎ならそんな口出ししないだろう。それに看護師の九重さんの表情も硬かった。なにがあった?」
隆司なりに、場の雰囲気でなんらかの事情を察していたようだ。
「本人たちは、なにか言っていたのか?」
とりあえず探りを入れると、隆司は首を横に振る。
「九重さんとは行き違いになって話しを聞けなかった。患者の方は、不機嫌な顔で病室に送るまで黙んまりを決め込んでいたよ」
隆司は不満げな口調で話し、前に置かれた握りを口に運ぶ。
別に男性患者にモテたいわけでもないだろうに、なにが不満なのだか。
「なるほど」
納得した拓也は、香苗と高校生時代付き合っていたことを伏せて、彼女が自分の高校の後輩であることを説明した。
「へえ。そんな偶然もあるんだね」
隆司は純粋に香苗と拓也の再会を驚いている。
(どうせなら、偶然じゃなく運命と呼んでもらいたいところだ)
拓也は心の中でひとりごつ。
「でも拓也君と九重さん、学年違うのによく顔を知っていたね。彼女の家が有名だから?」
そんな話し方をするということは、隆司は香苗の実家が九重総合医療センターであることを知っているのだろう。
「高校生の時に大ケガをして入院したことがあるって、昔、話したのは覚えているか?」
香苗が家の肩書きのせいで面倒な思いをしていないことを祈りつつ、芽ネギの握りを食べて拓也が聞く。
「ああ、医師を志すきっかけになったって話していたケガのことだろ。生死の狭間をさまよった自分を救ってくれた先生のような医師になりたいって思ったんだよな」
隆司の話はかなり曲解されている。
確かに、歩行障害が残る可能性もある大ケガはしたが、生死をさまよった覚えはない。
ただその時、頭も負傷し、かなりの出血もあったそうで、対応が遅ければそういった可能性もあったのだろう。
とはいえ結果としては額の傷を含め、医師の適切な処置とその後の丁寧な治療のおかげで、傷は完治して今は普通に歩くこともできている。
その時の医師の姿に感銘を受けてこの道を志すようになったのも事実なので、隆司の勘違いを訂正することなく聞き流しておく。
「その入院先が彼女の父親が経営する病院だったんだ。退院後も、何回か手術を受けたし、長い間リハビリに通っていたから面識ができたんだよ」
「なるほど」
足の手術痕を見たこともあるので、隆司は納得してくれたようだ。
普通に考えれば、いくら親が院長を勤める病院とはいえ、患者がそこの娘と面識ができるなんて不自然な話なのに。
そのことに疑問を持たない隆司に呆れつつ、香苗との過去を思い出す。
彼女とは、拓也が通っていた高校のオープンキャンパスで起きた事故をきっかけに知り合った。
強風にあおられバランスを崩した展示物が倒壊するというアクシデントで、拓也は香苗を庇うような形でケガをしたのがきっかけだ。
優しい香苗は、拓也のケガに責任を感じて頻繁に見舞ってくれたことで、徐々に仲よくはなっていた。
もちろん香苗には、自分のケガの責任を感じる必要はないと何度も説明した。
拓也からすれば、オープンキャンパスに訪れた高校で運悪く事故に遭遇した香苗は完全なる被害者だ。
在校生として、彼女にケガがなかったことに感謝していた。
そう思いつつ、香苗の訪問を断りきれなかったのは、拓也の心の弱さだ。
当時の拓也は、陸上部の注目選手で、大きな大会も控えて練習に励んでいた。その目標を不慮の事故で失ったのだ。
時間を掛ければ回復すると言われても、それにかかるリハビリ期間を考えれば学生時代に選手として復活することは諦めなければならなかった。
香苗を助けたことに後悔はないが、それだけでは割り切れない感情があったのも事実。
ひとりでいたら、きっと耐えられなかっただろう。
だから入院中、毎日のように拓也を見舞い、明るい表情で他愛ない話をたくさんしてくれる香苗の存在には随分救われていた。
別にオリンピック選手を目指していたわけじゃない。彼女の笑顔を守れたのなら、自分のケガなど安いものだ。
そう自分に言い聞かせて納得できるだけの価値が、香苗にはあった。
当時の香苗は受験生だったので、自然と彼女の勉強をみるようになり、退院後も図書館で待ち合わせをするなどしてその関係を続けていた。
もちろんその頃の拓也にとって香苗は、妹に近い存在で、恋愛対象としては映っていなかった。
だけど高校生になった彼女が同級生の男子と仲良く話す姿に焦りを覚えたことで、己の恋心を自覚したのだ。
自分がいつから彼女に好意を抱いていたのかはわからないが、一緒に時間を過ごす中で自然と想いが育まれていったのだろう。
そして付き合い始めてすぐに、自分はこの先の人生で香苗以外の女性を好きになることはないだろうと予感した。
そしてその予感は正しかったようで、別れてから十年以上経った今も、香苗を想う気持ちは色褪せることはない。
それなのに彼女から別れ話を切り出されたとき、引き止めることなくそれを受け入れたのは、香苗の父親に言われたことを気にしていたからだ。
当時、香苗の父親は自分たちの交際にかなり反対していた。
彼女の父親は表向き、ひとり娘である香苗には、家柄に相応しい人でないと交際を認めることはできないということを反対の理由にしていた。
だけどその陰で、香苗に内緒で拓也のもとを訪れ、本当の反対理由を拓也に告げていた。
香苗の父は『娘を助けてもらったことに感謝しているが、その傷跡を見る度に、娘は君に罪悪感を抱く。そんな人が相手では、対等な関係を結べない。だから娘と別れてやってくれ』と、高校生だった拓也に丁寧に頭を下げたのだ。
彼女の父の言葉は、拓也の後ろ暗い部分を衝いていた。
それは拓也自身、香苗が自分の告白を受け入れたのは、ケガに負い目を感じているからではないかという思いがあったからだ。
自分でも姑息だと呆れるが、それでも香苗が他の男に取られたらという焦りを抑えられずに告白をした。
そんな後ろめたさがあったから、香苗に自分の存在が重いと別れ話を切り出された時は、天罰を受けたような気がして引き止めることができなかった。
でもそれは、香苗を愛しているからこその決断だ。
その頃の拓也は、母の再婚相手との折り合いも悪く、奨学金などを頼って医大に進む覚悟をしていた。そうなれば、自分の暮らしを支えるのに精一杯で香苗に寂しい思いをさせることになるだけなのもわかっていた。
だから一度香苗と別れ、ケガを完治させ、医師として一人前になったら再度彼女に告白しようと決めていたのだ。
そしてその時こそ、彼女と対等な関係で永遠の愛を誓えると信じていた。
ただやっと再会できた彼女には、他に想う人がいるらしいので色々悩ましい。
「それで、さっきのアレはなんだったんだ?」
隆司の声が、過去に思いを馳せていた拓也の意識を現実に引き戻す。
てっきり最初の質問のことは忘れていると思っていたのだが、覚えていたらしい。
「コンビニを捜してふらついていたら、あの車椅子の患者が九重さんの手を掴んで面倒な絡み方をしているようだったから、止めに入ったんだよ」
自分たちの関係を勘ぐられないよう、最初ははぐらかすつもりでいたが、よく考えたら隆司の耳に入れておいた方が香苗のためだ。
そう思い直して、自分がなんと言ってふたりの間に割って入ったかは伏せて、簡単に説明する。
「なるほど。九重さんが不快な思いをしないよう、看護師長の耳に入れておく」
拓也が望んでいた台詞を引き出すことができたことに胸を撫で下ろす。
「まあどのみち、彼はもうすぐ退院するから、そうなれば九重さんが絡まれる心配はなくなるけど」
続く隆司の言葉が、拓也をさらに安心させた。と思ったのだが、その後に続く言葉が拓也を不安にさせる。
「九重さん、医師だけじゃなく患者さんにも言い寄られるなんて大変だよね」
「え?」
思わず驚きの声が漏れた。
そんな拓也の反応を気にすることなく、隆司が言う。
「もともと美人なうえに、九重総合医療センターのひとり娘だから、婿養子の座を狙って言い寄る医師は絶えないよ」
その言葉に、胃の底をヤスリで擦られたような不快感を覚えた。
(ライバルが多いからといって、香苗を諦めるつもりはないけど)
学生時代は、香苗の重荷になるのが辛くて別れたが、ケガを完治させ、医師としてそれなりの立場を築いた今、彼女を諦めるつもりはない。
実を言えば、研修医期間を終え、ふじき総合病院の救命救急医としての勤務が決まった時に香苗に連絡を入れたのだ。しかしその頃には彼女は地元を離れていて、電話番号も変わっていたので再会を果たすことはできなかった。
それでも不思議と、医療の道を邁進していれば、いつか彼女に再会できるのではないかという予感があった。
そしてもし再会を果たすことができたら、それを “運命”と呼んで、今度こそ香苗を離さないと思っていたのだが、人生は色々ままならない。
さっき香苗は拓也に、名前ではなく苗字で呼んでほしいといった。
それはつまり、彼女にとって自分との関係は触れられたくない過去ということだ。
「しかしそれで結構」
「なにかいったか?」
お茶を啜る拓也の呟きに、隆司が素早く反応する。
「なんて言うか、人間関係をリセットするのも悪くないと思って」
香苗との関係を想い、呟く拓也に隆司が悲壮感ある表情を浮かべる。
「僕、矢崎に絶交されるようなことした?」
その発言に、思わず吹き出す。
もちろん、そういう意味ではない。
香苗が自分との関係を完全に過去のものにするのであれば、それでいいと思っただけだ。
全てを過去のこととして、今度こそ、香苗と対等な関係で恋愛を始めていけばいい。
「なんで笑ってるの?」
情けない声で悲鳴をあげる隆司の背中をポンポンと叩いておく。
「さっきの?」
寿司屋のカウンター席に座る拓也は、隣に座る友人にとぼけてみる。
カウンターに並んで一緒に食事をしているのは、大学で共に学んだ医師の依田隆司だ。
先日、講師として赴いたJPTECプロバイダー講習で、かつて恋人だった九重香苗に再開して驚いた。
彼女と話したいとい思いはあったが、短いやり取りで時間が足りない。
まずは講師の役目を果たし、その後で香苗を引き止めて話す気でいたのだが、講習が終わる前に香苗は体調不良を訴え帰ってしまった。
ただ彼女が残していったアンケート用紙のおかげで、香苗が看護師になったことや、勤務先を知ることができたのだ。
それを見て、長年再会を夢見ていた彼女が、思いの他近くにいたことにどれだけ驚いたことか。
しかも香苗が勤務している病院には、学生時代仲のよかった隆司がいたので、さっそく連絡を取り、互いの休みが合う日にまずは食事の約束をした。
とりあえずは、今の香苗の様子を少しでも知ることができれば満足――そう思い、見学を口実に遠鐘病院で待ち合わせをしたのだが、いざ訪れてみると、香苗が患者に絡まれている場面に遭遇してかなり焦った。
「とぼけるなよ。さっき、どうして僕に患者さんを任せたの?」
隆司が唇を尖らせて言う。
一浪して医大を卒業している隆司は、今年で三十歳なのだが、実年齢より若く見られることが多い。
そして職業を医者だと明かすと、なかなかの高確率で、小児科医と決めつけられてしまう。
本人はそういった誤解の原因は童顔な顔立ちにあると思っているようだが、拓也としては、彼の何気ない仕草にその理由があるのだと考えている。
とはいえそれは見た目の話しだけで、外科医としての技術は確かで、医師としても人としても信頼できる存在だ。
「普段の矢崎ならそんな口出ししないだろう。それに看護師の九重さんの表情も硬かった。なにがあった?」
隆司なりに、場の雰囲気でなんらかの事情を察していたようだ。
「本人たちは、なにか言っていたのか?」
とりあえず探りを入れると、隆司は首を横に振る。
「九重さんとは行き違いになって話しを聞けなかった。患者の方は、不機嫌な顔で病室に送るまで黙んまりを決め込んでいたよ」
隆司は不満げな口調で話し、前に置かれた握りを口に運ぶ。
別に男性患者にモテたいわけでもないだろうに、なにが不満なのだか。
「なるほど」
納得した拓也は、香苗と高校生時代付き合っていたことを伏せて、彼女が自分の高校の後輩であることを説明した。
「へえ。そんな偶然もあるんだね」
隆司は純粋に香苗と拓也の再会を驚いている。
(どうせなら、偶然じゃなく運命と呼んでもらいたいところだ)
拓也は心の中でひとりごつ。
「でも拓也君と九重さん、学年違うのによく顔を知っていたね。彼女の家が有名だから?」
そんな話し方をするということは、隆司は香苗の実家が九重総合医療センターであることを知っているのだろう。
「高校生の時に大ケガをして入院したことがあるって、昔、話したのは覚えているか?」
香苗が家の肩書きのせいで面倒な思いをしていないことを祈りつつ、芽ネギの握りを食べて拓也が聞く。
「ああ、医師を志すきっかけになったって話していたケガのことだろ。生死の狭間をさまよった自分を救ってくれた先生のような医師になりたいって思ったんだよな」
隆司の話はかなり曲解されている。
確かに、歩行障害が残る可能性もある大ケガはしたが、生死をさまよった覚えはない。
ただその時、頭も負傷し、かなりの出血もあったそうで、対応が遅ければそういった可能性もあったのだろう。
とはいえ結果としては額の傷を含め、医師の適切な処置とその後の丁寧な治療のおかげで、傷は完治して今は普通に歩くこともできている。
その時の医師の姿に感銘を受けてこの道を志すようになったのも事実なので、隆司の勘違いを訂正することなく聞き流しておく。
「その入院先が彼女の父親が経営する病院だったんだ。退院後も、何回か手術を受けたし、長い間リハビリに通っていたから面識ができたんだよ」
「なるほど」
足の手術痕を見たこともあるので、隆司は納得してくれたようだ。
普通に考えれば、いくら親が院長を勤める病院とはいえ、患者がそこの娘と面識ができるなんて不自然な話なのに。
そのことに疑問を持たない隆司に呆れつつ、香苗との過去を思い出す。
彼女とは、拓也が通っていた高校のオープンキャンパスで起きた事故をきっかけに知り合った。
強風にあおられバランスを崩した展示物が倒壊するというアクシデントで、拓也は香苗を庇うような形でケガをしたのがきっかけだ。
優しい香苗は、拓也のケガに責任を感じて頻繁に見舞ってくれたことで、徐々に仲よくはなっていた。
もちろん香苗には、自分のケガの責任を感じる必要はないと何度も説明した。
拓也からすれば、オープンキャンパスに訪れた高校で運悪く事故に遭遇した香苗は完全なる被害者だ。
在校生として、彼女にケガがなかったことに感謝していた。
そう思いつつ、香苗の訪問を断りきれなかったのは、拓也の心の弱さだ。
当時の拓也は、陸上部の注目選手で、大きな大会も控えて練習に励んでいた。その目標を不慮の事故で失ったのだ。
時間を掛ければ回復すると言われても、それにかかるリハビリ期間を考えれば学生時代に選手として復活することは諦めなければならなかった。
香苗を助けたことに後悔はないが、それだけでは割り切れない感情があったのも事実。
ひとりでいたら、きっと耐えられなかっただろう。
だから入院中、毎日のように拓也を見舞い、明るい表情で他愛ない話をたくさんしてくれる香苗の存在には随分救われていた。
別にオリンピック選手を目指していたわけじゃない。彼女の笑顔を守れたのなら、自分のケガなど安いものだ。
そう自分に言い聞かせて納得できるだけの価値が、香苗にはあった。
当時の香苗は受験生だったので、自然と彼女の勉強をみるようになり、退院後も図書館で待ち合わせをするなどしてその関係を続けていた。
もちろんその頃の拓也にとって香苗は、妹に近い存在で、恋愛対象としては映っていなかった。
だけど高校生になった彼女が同級生の男子と仲良く話す姿に焦りを覚えたことで、己の恋心を自覚したのだ。
自分がいつから彼女に好意を抱いていたのかはわからないが、一緒に時間を過ごす中で自然と想いが育まれていったのだろう。
そして付き合い始めてすぐに、自分はこの先の人生で香苗以外の女性を好きになることはないだろうと予感した。
そしてその予感は正しかったようで、別れてから十年以上経った今も、香苗を想う気持ちは色褪せることはない。
それなのに彼女から別れ話を切り出されたとき、引き止めることなくそれを受け入れたのは、香苗の父親に言われたことを気にしていたからだ。
当時、香苗の父親は自分たちの交際にかなり反対していた。
彼女の父親は表向き、ひとり娘である香苗には、家柄に相応しい人でないと交際を認めることはできないということを反対の理由にしていた。
だけどその陰で、香苗に内緒で拓也のもとを訪れ、本当の反対理由を拓也に告げていた。
香苗の父は『娘を助けてもらったことに感謝しているが、その傷跡を見る度に、娘は君に罪悪感を抱く。そんな人が相手では、対等な関係を結べない。だから娘と別れてやってくれ』と、高校生だった拓也に丁寧に頭を下げたのだ。
彼女の父の言葉は、拓也の後ろ暗い部分を衝いていた。
それは拓也自身、香苗が自分の告白を受け入れたのは、ケガに負い目を感じているからではないかという思いがあったからだ。
自分でも姑息だと呆れるが、それでも香苗が他の男に取られたらという焦りを抑えられずに告白をした。
そんな後ろめたさがあったから、香苗に自分の存在が重いと別れ話を切り出された時は、天罰を受けたような気がして引き止めることができなかった。
でもそれは、香苗を愛しているからこその決断だ。
その頃の拓也は、母の再婚相手との折り合いも悪く、奨学金などを頼って医大に進む覚悟をしていた。そうなれば、自分の暮らしを支えるのに精一杯で香苗に寂しい思いをさせることになるだけなのもわかっていた。
だから一度香苗と別れ、ケガを完治させ、医師として一人前になったら再度彼女に告白しようと決めていたのだ。
そしてその時こそ、彼女と対等な関係で永遠の愛を誓えると信じていた。
ただやっと再会できた彼女には、他に想う人がいるらしいので色々悩ましい。
「それで、さっきのアレはなんだったんだ?」
隆司の声が、過去に思いを馳せていた拓也の意識を現実に引き戻す。
てっきり最初の質問のことは忘れていると思っていたのだが、覚えていたらしい。
「コンビニを捜してふらついていたら、あの車椅子の患者が九重さんの手を掴んで面倒な絡み方をしているようだったから、止めに入ったんだよ」
自分たちの関係を勘ぐられないよう、最初ははぐらかすつもりでいたが、よく考えたら隆司の耳に入れておいた方が香苗のためだ。
そう思い直して、自分がなんと言ってふたりの間に割って入ったかは伏せて、簡単に説明する。
「なるほど。九重さんが不快な思いをしないよう、看護師長の耳に入れておく」
拓也が望んでいた台詞を引き出すことができたことに胸を撫で下ろす。
「まあどのみち、彼はもうすぐ退院するから、そうなれば九重さんが絡まれる心配はなくなるけど」
続く隆司の言葉が、拓也をさらに安心させた。と思ったのだが、その後に続く言葉が拓也を不安にさせる。
「九重さん、医師だけじゃなく患者さんにも言い寄られるなんて大変だよね」
「え?」
思わず驚きの声が漏れた。
そんな拓也の反応を気にすることなく、隆司が言う。
「もともと美人なうえに、九重総合医療センターのひとり娘だから、婿養子の座を狙って言い寄る医師は絶えないよ」
その言葉に、胃の底をヤスリで擦られたような不快感を覚えた。
(ライバルが多いからといって、香苗を諦めるつもりはないけど)
学生時代は、香苗の重荷になるのが辛くて別れたが、ケガを完治させ、医師としてそれなりの立場を築いた今、彼女を諦めるつもりはない。
実を言えば、研修医期間を終え、ふじき総合病院の救命救急医としての勤務が決まった時に香苗に連絡を入れたのだ。しかしその頃には彼女は地元を離れていて、電話番号も変わっていたので再会を果たすことはできなかった。
それでも不思議と、医療の道を邁進していれば、いつか彼女に再会できるのではないかという予感があった。
そしてもし再会を果たすことができたら、それを “運命”と呼んで、今度こそ香苗を離さないと思っていたのだが、人生は色々ままならない。
さっき香苗は拓也に、名前ではなく苗字で呼んでほしいといった。
それはつまり、彼女にとって自分との関係は触れられたくない過去ということだ。
「しかしそれで結構」
「なにかいったか?」
お茶を啜る拓也の呟きに、隆司が素早く反応する。
「なんて言うか、人間関係をリセットするのも悪くないと思って」
香苗との関係を想い、呟く拓也に隆司が悲壮感ある表情を浮かべる。
「僕、矢崎に絶交されるようなことした?」
その発言に、思わず吹き出す。
もちろん、そういう意味ではない。
香苗が自分との関係を完全に過去のものにするのであれば、それでいいと思っただけだ。
全てを過去のこととして、今度こそ、香苗と対等な関係で恋愛を始めていけばいい。
「なんで笑ってるの?」
情けない声で悲鳴をあげる隆司の背中をポンポンと叩いておく。