冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む
「次、傷病者役を九重さん」
講師に名前を呼ばれて、香苗はハッとした。
ほんの一時、意識が拓也と出会った日に飛んでいたようだ。
「はい」
香苗が返事をすると、講師は同じグループにいる他三人の名前を呼んで救護班役を割り振る。
「じゃあ状況としては、家屋の倒壊の下敷きになった意識不明の要救護者の救護及び搬送を想定して、必要な処置をシミュレーションしてください」
講師の指示に従い、名前を呼ばれた三人が前に出る。
「九重さん、うつ伏せで倒れて」
指示に従い、香苗はうつ伏せの姿勢で床に横たわり、顔を横にむける。
すると立ち位置が変わったことで、別グループで指導員を務める拓也の姿が視界に入った。
受講生のグループ分けや、どの講師がどこを受け持つかはの割り振りは、最初に挨拶をした飯尾が決めた。
拓也は香苗のいるグループとは別のグループの担当を任されているので、ふたりはは言葉を交わすこともなく講義が進んでいる。
「意識不明だから、目を閉じてね」
指示をうけ、香苗が床にうつ伏せに横たわると講師は香苗の足から腰の辺りにかけて軽い板を載せる。それを倒壊した家屋に見立てて救護しろということだ。
偶然なのはわかっているけど、講師が提示した設定は香苗の苦い事故の記憶を思い出させる。
あのオープンキャンパスの日、数人の大人の手を借りて拓也の腕の中から引っ張り出された香苗が目にしたのは、左脚から腰の辺りにかけて倒壊したオブジェの下敷きになっている彼の姿だった。
倒れて衝撃で壊れた木材の破片で切ったのか、額からの流血もしている。
その状況を見れば、拓也が香苗を庇ってケガをしたのだとすぐに理解できた。
一歩間違えれば自分が倒壊した木材の下敷きになり、額を切っていかたのかもしれない。そう思うと、足下から恐怖がこみ上げてきて、思考が停止して体が震えるのが抑えられなくなる。
香苗が、慌てて引き返してきた友達に抱きしめられて震えている間に、大人たちの手によって材木の下から引っ張り出された男子生徒は救急搬送されていった。
その際の搬送先が、偶然にも香苗の父が院長を務める九重総合医療センターだったので、香苗はその後頻繁に彼のもとを訪れるようになっていた。
というのも、拓也は左脚を粉砕骨折しており一ヶ月以上入院する必要があったのだけれど、彼の家が母子家庭で、仕事に忙しい母親が頻繁に病院を訪れることを知ったからだ。
もちろん中学生の香苗が見舞っても、彼のためにしてあげられることは少ない。どちらかといえば、香苗が受験生である香苗が、彼に勉強を教えてもらいながら過ごすことがほとんどだった。
それでも時間を持て余している彼が、その時間を楽しみにしているのが伝わってくるので、香苗は夏休みの間足繁く彼のもとに通っていた。
そうやって一緒に時間を過ごす中で、彼に恋心を抱くようになったのは自然の流れといえる。
そして香苗は、彼と同じ高校に受かったら告白しようと決めて勉強を頑張った。
そして見事合格を果たして、いざ告白しようとしたら、驚いたことに拓也の方から告白をされたのだ。
一夏を一緒に過ごすことで、相手に恋愛感情を抱くようになっていたのは香苗ひとりだけではなかったらしい。
香苗の父はふたりの交際を反対していたけど、そんなこと気にしていなかった。
拓也は誠実な交際を続けていけば、いつか香苗の父親も自分たちの交際を認めてくれるはずと言ってくれていたのだ。
香苗もそう思っていた。
拓也より素敵な男性など、いるはずないのだ。
それにケガの治療を通して拓也は医師を志すようになっていたのだから、大人になれば父も理解してくれるはずと信じていた。
そして香苗も、彼の治療に寄り添う看護師の姿を見て、自分も医療に携わりたいと思うようになっていた。
香苗の家の家業だからということなく、自分の将来の夢としてお互い医療の道を志すようになり、お互い勉強に励んでいた。
だけど拓也の母の再婚が決まったことで、状況が大きく変化して……。
「どうしたの? 大丈夫?」
いつの間にか物思いにふけってた香苗は、救護者役の声にハッとした。
訓練中の台詞とは思えない声色に思わず目を開けると、救護者役の人たちだけでなく、講師も心配そうに自分を見下ろしている。
「え?」
発した声が涙に濡れていることで、香苗はやっと自分が泣いていることに気付いた。
「すみません。なんでもないです」
上半身を起こして、慌てて涙を拭う。
そうやって謝る間に、目から涙が零れ落ちた。
周囲に視線を向けると、ただならぬ雰囲気を察して、他のグループの者たちも動きを止めてこちらを見ている。
拓也も心配げな表情でこちらを窺い、今にもこちらに近付いてきそうな雰囲気があった。
そのことに混乱して、香苗はオロオロする。
「あの……ごめんなさい。……寝不足で体調が優れないので、今日の講習を辞退させてください」
どうにかそれだけの言葉を絞り出すと、香苗は立ち上がり、一礼して荷物を手に部屋を飛び出した。
背後で自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、振り向くことができない。
会場を飛び出した香苗は、そのままの勢いで駅まで走りちょうどホームに止まっていた電車に飛び乗った。
そして空いていた席に腰を下ろして、瞼を閉じて呼吸を整える。
(拓也君が医師って、どういうこと?)
人心地つくと、また同じことを考えてしまう。
だって彼は医師になることを諦めたはずなのだ。
少なくとも、拓也の母と、再婚で彼の妹になった女性は、香苗にそう話していた。
そしてだからこそ、拓也の義妹になった石倉彩子は、香苗を “疫病神”と罵ったのではなかったのか……。
両親の再婚により拓也の義妹になった彩子は、学年は拓也と同じだけど、生まれ月の関係で彼の妹とになっていた。
再婚の際、彩子の父が拓也と養子縁組しなかったためふたりの苗字は違ったが、拓也は彩子を義理の妹として扱っていた。
モデルのようにスラリとした体型で気の強そうな顔立ちをした彼女と香苗が最初に出会ったのは、拓也とのデートの時だった。
どうしても義兄の恋人に会いたいと、強引にふたりのデートについてきた彼女は終始不機嫌で、ことあるごとに香苗の言動になんくせをつけ、ワガママを言って拓也を振り回していた。
せっかくのデートを邪魔された上に、意地悪なことばかり言われて、とても仲よくなれる相手ではなかった。
ただ拓也から、彼の母が彩子との接し方に苦慮していて、彼も母親のために彼女に気を遣っていると聞かされていたので、彼のためにどうにか泣くのを堪えて彼女と仲良く出来るよう努力した。
それでも拓也から見ても彩子の態度は目に余ったとのことで、ふたりのデートに彼女を連れてきたのはその一回だけだった。
そんな彼女と二度目に会ったのは、香苗が高校一年生の冬。
もうじき期末試験が始まるというタイミングで、拓也の母に呼び出された時のことだった。
拓也には内緒で話したいことがあると、拓也の母親である小百合から連絡を受け、指定された喫茶店に彩子も同席していたのだ。
小百合からそんな呼び出しをされたのは初めてのことだったし、その場に彩子がいる段階で、いい話を聞かされないことはわかっていた。
香苗のそんな予想を裏付けるように、彩子は席に着くなり『疫病神』と香苗を罵ったのだ。
当時まだ高校一年生だった香苗にとって、二年の年齢差は大きい。突然年上の彼女に鬼の形相でそんなことを言われてしまい、混乱してなにも言えなかった。
しかも小百合は、自分を擁護してくれることなく、彩子の好きにさせている。その状況が、よけいに香苗を萎縮させた。
ひとしきり感情的に香苗を罵った彩子が落ち着くと、それまで黙っていた小百合はテーブルに額を押し付けるようにして拓也と別れてほしいと懇願してきた。
理由としては、彩子の父であり、小百合の再婚相手でもある男性は、会社経営をしており、優秀な拓也のために大学進学に必要な支援は惜しまないと言ってくれているのだという。
ただそれには条件があり、進学先は医学部ではなく経済学部に限定するということだった。
拓也は香苗との約束を理由にその申し出を断った。
そのため一つ屋根の下に暮らしているが、拓也と彩子の父との関係はかなり険悪な関係になっているのだという。
香苗にとって、それは初耳の情報だった。
しかも拓也は、小百合や彩子には、勉強の大変さに音を上げ、医学部進学を断念したいと話しているのだと言う。
拓也の場合、ただでさえ大変な勉強のかたわら、リハビリもあるのだから当然のことかもしれない。
それでも生真面目な拓也は、自分から言いだしたことだからと、香苗にそれを打ち明けられず苦しんでいるのだと言う。
このままでは、高校卒業と共に今住んでいる家を追い出され、進学に必要な経済的支援をうけられないと小百合は話した。
それだけでもかなり衝撃的な話だったのに、彩子は、実は拓也は香苗を庇って大ケガをしたせいで陸上選手としての道を断たれたのだと話し、香苗を疫病神だと責めた。
その時まで、香苗は彼が陸上をしていたことさえ知らなかった。
初めて拓也を見た時、なにかスポーツしていそうだとは思ったけど、香苗が同じ高校に通うようになった頃の彼は松葉杖が必要な状況だったので、そんな過去があるなんて考えてもいなかったのだ。
だから最初は半信半疑だったのだけど、学校の先輩たちにそれとなく聞いてみて、彩子の話しが嘘ではないのだと知った。
そうなると、小百合の話しも真実味を帯びてくる。
だから彼を愛しているからこそ、別れ話を口にしたのだった。
でもその時は、心のどこかでは彼が自分を引き止めてくれることを期待していたのだけど、彼が香苗を引き止めるようなことはなかった。
つまり、彩子や小百合の話しに嘘はなかったのだ。
それなら自分たちの破局は、彼の幸せに繋がっていると自分を慰め今日まで頑張ってきた。
自分だけでもふたりで未来を夢見た頃のまま、看護師になって仕事を頑張っていこうと決めて今日までやってきた。
「それなのに、どうして拓也君が先生になっているの?」
そのことを不思議には思うけど、今さらその理由を知ってどうなるといこともない。
自分と拓也は、十年以上前に終わっているのだから。
講師に名前を呼ばれて、香苗はハッとした。
ほんの一時、意識が拓也と出会った日に飛んでいたようだ。
「はい」
香苗が返事をすると、講師は同じグループにいる他三人の名前を呼んで救護班役を割り振る。
「じゃあ状況としては、家屋の倒壊の下敷きになった意識不明の要救護者の救護及び搬送を想定して、必要な処置をシミュレーションしてください」
講師の指示に従い、名前を呼ばれた三人が前に出る。
「九重さん、うつ伏せで倒れて」
指示に従い、香苗はうつ伏せの姿勢で床に横たわり、顔を横にむける。
すると立ち位置が変わったことで、別グループで指導員を務める拓也の姿が視界に入った。
受講生のグループ分けや、どの講師がどこを受け持つかはの割り振りは、最初に挨拶をした飯尾が決めた。
拓也は香苗のいるグループとは別のグループの担当を任されているので、ふたりはは言葉を交わすこともなく講義が進んでいる。
「意識不明だから、目を閉じてね」
指示をうけ、香苗が床にうつ伏せに横たわると講師は香苗の足から腰の辺りにかけて軽い板を載せる。それを倒壊した家屋に見立てて救護しろということだ。
偶然なのはわかっているけど、講師が提示した設定は香苗の苦い事故の記憶を思い出させる。
あのオープンキャンパスの日、数人の大人の手を借りて拓也の腕の中から引っ張り出された香苗が目にしたのは、左脚から腰の辺りにかけて倒壊したオブジェの下敷きになっている彼の姿だった。
倒れて衝撃で壊れた木材の破片で切ったのか、額からの流血もしている。
その状況を見れば、拓也が香苗を庇ってケガをしたのだとすぐに理解できた。
一歩間違えれば自分が倒壊した木材の下敷きになり、額を切っていかたのかもしれない。そう思うと、足下から恐怖がこみ上げてきて、思考が停止して体が震えるのが抑えられなくなる。
香苗が、慌てて引き返してきた友達に抱きしめられて震えている間に、大人たちの手によって材木の下から引っ張り出された男子生徒は救急搬送されていった。
その際の搬送先が、偶然にも香苗の父が院長を務める九重総合医療センターだったので、香苗はその後頻繁に彼のもとを訪れるようになっていた。
というのも、拓也は左脚を粉砕骨折しており一ヶ月以上入院する必要があったのだけれど、彼の家が母子家庭で、仕事に忙しい母親が頻繁に病院を訪れることを知ったからだ。
もちろん中学生の香苗が見舞っても、彼のためにしてあげられることは少ない。どちらかといえば、香苗が受験生である香苗が、彼に勉強を教えてもらいながら過ごすことがほとんどだった。
それでも時間を持て余している彼が、その時間を楽しみにしているのが伝わってくるので、香苗は夏休みの間足繁く彼のもとに通っていた。
そうやって一緒に時間を過ごす中で、彼に恋心を抱くようになったのは自然の流れといえる。
そして香苗は、彼と同じ高校に受かったら告白しようと決めて勉強を頑張った。
そして見事合格を果たして、いざ告白しようとしたら、驚いたことに拓也の方から告白をされたのだ。
一夏を一緒に過ごすことで、相手に恋愛感情を抱くようになっていたのは香苗ひとりだけではなかったらしい。
香苗の父はふたりの交際を反対していたけど、そんなこと気にしていなかった。
拓也は誠実な交際を続けていけば、いつか香苗の父親も自分たちの交際を認めてくれるはずと言ってくれていたのだ。
香苗もそう思っていた。
拓也より素敵な男性など、いるはずないのだ。
それにケガの治療を通して拓也は医師を志すようになっていたのだから、大人になれば父も理解してくれるはずと信じていた。
そして香苗も、彼の治療に寄り添う看護師の姿を見て、自分も医療に携わりたいと思うようになっていた。
香苗の家の家業だからということなく、自分の将来の夢としてお互い医療の道を志すようになり、お互い勉強に励んでいた。
だけど拓也の母の再婚が決まったことで、状況が大きく変化して……。
「どうしたの? 大丈夫?」
いつの間にか物思いにふけってた香苗は、救護者役の声にハッとした。
訓練中の台詞とは思えない声色に思わず目を開けると、救護者役の人たちだけでなく、講師も心配そうに自分を見下ろしている。
「え?」
発した声が涙に濡れていることで、香苗はやっと自分が泣いていることに気付いた。
「すみません。なんでもないです」
上半身を起こして、慌てて涙を拭う。
そうやって謝る間に、目から涙が零れ落ちた。
周囲に視線を向けると、ただならぬ雰囲気を察して、他のグループの者たちも動きを止めてこちらを見ている。
拓也も心配げな表情でこちらを窺い、今にもこちらに近付いてきそうな雰囲気があった。
そのことに混乱して、香苗はオロオロする。
「あの……ごめんなさい。……寝不足で体調が優れないので、今日の講習を辞退させてください」
どうにかそれだけの言葉を絞り出すと、香苗は立ち上がり、一礼して荷物を手に部屋を飛び出した。
背後で自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、振り向くことができない。
会場を飛び出した香苗は、そのままの勢いで駅まで走りちょうどホームに止まっていた電車に飛び乗った。
そして空いていた席に腰を下ろして、瞼を閉じて呼吸を整える。
(拓也君が医師って、どういうこと?)
人心地つくと、また同じことを考えてしまう。
だって彼は医師になることを諦めたはずなのだ。
少なくとも、拓也の母と、再婚で彼の妹になった女性は、香苗にそう話していた。
そしてだからこそ、拓也の義妹になった石倉彩子は、香苗を “疫病神”と罵ったのではなかったのか……。
両親の再婚により拓也の義妹になった彩子は、学年は拓也と同じだけど、生まれ月の関係で彼の妹とになっていた。
再婚の際、彩子の父が拓也と養子縁組しなかったためふたりの苗字は違ったが、拓也は彩子を義理の妹として扱っていた。
モデルのようにスラリとした体型で気の強そうな顔立ちをした彼女と香苗が最初に出会ったのは、拓也とのデートの時だった。
どうしても義兄の恋人に会いたいと、強引にふたりのデートについてきた彼女は終始不機嫌で、ことあるごとに香苗の言動になんくせをつけ、ワガママを言って拓也を振り回していた。
せっかくのデートを邪魔された上に、意地悪なことばかり言われて、とても仲よくなれる相手ではなかった。
ただ拓也から、彼の母が彩子との接し方に苦慮していて、彼も母親のために彼女に気を遣っていると聞かされていたので、彼のためにどうにか泣くのを堪えて彼女と仲良く出来るよう努力した。
それでも拓也から見ても彩子の態度は目に余ったとのことで、ふたりのデートに彼女を連れてきたのはその一回だけだった。
そんな彼女と二度目に会ったのは、香苗が高校一年生の冬。
もうじき期末試験が始まるというタイミングで、拓也の母に呼び出された時のことだった。
拓也には内緒で話したいことがあると、拓也の母親である小百合から連絡を受け、指定された喫茶店に彩子も同席していたのだ。
小百合からそんな呼び出しをされたのは初めてのことだったし、その場に彩子がいる段階で、いい話を聞かされないことはわかっていた。
香苗のそんな予想を裏付けるように、彩子は席に着くなり『疫病神』と香苗を罵ったのだ。
当時まだ高校一年生だった香苗にとって、二年の年齢差は大きい。突然年上の彼女に鬼の形相でそんなことを言われてしまい、混乱してなにも言えなかった。
しかも小百合は、自分を擁護してくれることなく、彩子の好きにさせている。その状況が、よけいに香苗を萎縮させた。
ひとしきり感情的に香苗を罵った彩子が落ち着くと、それまで黙っていた小百合はテーブルに額を押し付けるようにして拓也と別れてほしいと懇願してきた。
理由としては、彩子の父であり、小百合の再婚相手でもある男性は、会社経営をしており、優秀な拓也のために大学進学に必要な支援は惜しまないと言ってくれているのだという。
ただそれには条件があり、進学先は医学部ではなく経済学部に限定するということだった。
拓也は香苗との約束を理由にその申し出を断った。
そのため一つ屋根の下に暮らしているが、拓也と彩子の父との関係はかなり険悪な関係になっているのだという。
香苗にとって、それは初耳の情報だった。
しかも拓也は、小百合や彩子には、勉強の大変さに音を上げ、医学部進学を断念したいと話しているのだと言う。
拓也の場合、ただでさえ大変な勉強のかたわら、リハビリもあるのだから当然のことかもしれない。
それでも生真面目な拓也は、自分から言いだしたことだからと、香苗にそれを打ち明けられず苦しんでいるのだと言う。
このままでは、高校卒業と共に今住んでいる家を追い出され、進学に必要な経済的支援をうけられないと小百合は話した。
それだけでもかなり衝撃的な話だったのに、彩子は、実は拓也は香苗を庇って大ケガをしたせいで陸上選手としての道を断たれたのだと話し、香苗を疫病神だと責めた。
その時まで、香苗は彼が陸上をしていたことさえ知らなかった。
初めて拓也を見た時、なにかスポーツしていそうだとは思ったけど、香苗が同じ高校に通うようになった頃の彼は松葉杖が必要な状況だったので、そんな過去があるなんて考えてもいなかったのだ。
だから最初は半信半疑だったのだけど、学校の先輩たちにそれとなく聞いてみて、彩子の話しが嘘ではないのだと知った。
そうなると、小百合の話しも真実味を帯びてくる。
だから彼を愛しているからこそ、別れ話を口にしたのだった。
でもその時は、心のどこかでは彼が自分を引き止めてくれることを期待していたのだけど、彼が香苗を引き止めるようなことはなかった。
つまり、彩子や小百合の話しに嘘はなかったのだ。
それなら自分たちの破局は、彼の幸せに繋がっていると自分を慰め今日まで頑張ってきた。
自分だけでもふたりで未来を夢見た頃のまま、看護師になって仕事を頑張っていこうと決めて今日までやってきた。
「それなのに、どうして拓也君が先生になっているの?」
そのことを不思議には思うけど、今さらその理由を知ってどうなるといこともない。
自分と拓也は、十年以上前に終わっているのだから。