冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む
「矢崎先生」

 深夜、ふじき総合病院のオペ室を出て廊下を歩く拓也は、自分を追いかけてくる声に足を止めた。
 振り返ると、研修医の佐々木が蒼白な顔で駆けて来る。
 拓也の前まで来ると、佐々木はそのままの勢いでが深く頭を下げた。

「先ほどはありがとうございます。僕の判断ミスで、患者さんを死なせるところでした」

 その言葉に、拓也は一瞬どう返すべきかを考える。
 この佐々木は、二年目の研修医だ。
 研修医とはいえ患者を受け持つこともあるし、二年目になると先輩医師が大丈夫だと判断した手術を任されることもある。
 今日の深夜、近くの繁華街で火災が起き複数の傷病者が搬送されてきた。
 佐々木と共に夜勤をしていた先輩医師は、彼にトリアージ黄色以下の患者の処置を任せて、自分は重症患者のオペに回った。
 黄色のトリアージは中等症群を意味しており、多少治療時間が遅れても命の危機がないと判断されている患者を意味する。だが場合によっては急変する恐れがあるので、けっして気を抜いてはいけない。
 それがわかっていたはずなのに、佐々木は、目視で確認しやすいヤケドをおった患者の対応にばかり気を取られ、他の患者の急変を見落とした。
 偶然にもオンコールで駆けつけた拓也が、バイタルサインモニターも着けず待機用のベッドで寝かされている患者が昏睡状態に陥っていることに気が付いて事なきを得たのだ。
 佐々木としては、その患者が搬送時に受け答えがしっかりしていた上に『自分は大丈夫だ』と繰り返し話していたので安心していたのだと言う。
 そして患者の急変を見落とした。
 とはいえ、その場には他の医療スタッフもいたのだから、佐々木ひとりの責任ではない。

「患者の言葉を信じすぎるな。優しい人ほど、自分がどれだけ辛くても平気で嘘をつく」

 おそらく患者は、鳴り止まないコール音や騒然とするその場の空気を肌で感じて、自分以外の患者に気を遣ったのだろう。
 自分は大丈夫、こんなことで死ぬわけがないと信じて、他の人の治療を優先させたのだ。
 その優しさを否定するつもりはないが、死というものは恐ろしい程平等に、目についた者の人生を呑み込んでしまう。
 そこに善悪の区別はない。
 だから自分たちは、患者の言葉を信じすぎてはいけない。

「後で後悔したくないのなら、良い意味でもう少し人を疑え」

 叱るのではなく、励ますでもない拓也の言葉を噛みしめるように、佐々木は深く頷いた。
 手術室から救命救急に戻った拓也は、そのまま電子カルテに必要な情報を入力していく。
 するとその傍らにコーヒーが入った紙コップが置かれた。
 視線を上げると、最近移動してきた女性看護師の江口(えぐち)が立っていた。

「矢崎先生は、ブラックですよね?」

 拓也と同世代の彼女は、艶っぽく微笑む。
 自惚れるつもりはないが、彼女が自分と仕事の領域を超えた親密な関係を望んでいるのを感じるので面倒だ。

「前も言ったが、俺にはこういうことしなくていいから」

 拓也は素っ気なく答える。
 移動してきてすぐの頃の彼女から、食事に誘われ断った。それでこちらの気持ちはわかりそうなものなのに、江口ははまだ諦めがついていないようだ。
 これまでも女性からこういったアプローチを受けることは度々あった。
 そういう時は昔から、こうやって冷ややか対応をすることで、相手が諦めてくれるのを待つことにしている。
 大学時代から仲の良い依田には、よく『もったいない』と言われたが、香苗以外の女性に興味のない拓也からすれば、好きでもない女性に好意を寄せられても迷惑なだけだ。
 ましてや、奇跡的な再会を果たした彼女と同棲を始めた今、他の女性の相手をする気は毛頭ない。
 プライベートな付き合いをする機はないと、拓也はつれない態度を取ることで、江口を突き放す。
 だから空気を読んで会話を終わらせてくれればいいのに、江口は、拓也の腕に自分の手を触れさせて話を続ける。

「せっかくのお休みでしたのに、急な呼び出しで大変でしたね。先生はお休みの日になにをさているんですか?」
「今日は、妻が日勤だったから、夕方彼女を駅まで迎えに行って、サイズ調整を頼んでいた結婚指輪を受け取ってきた。そのついでに彼女と一緒にスーパーで一緒に買い物をした」

 本当は香苗が勤務する遠鐘病院まで迎えに行ければいいのだけど、オンコールの日は、いざという時に迅速に病院に駆けつけられる場所にいなくてはいけない。
 そのため駅での待ち合わせ、ふたりで先日注文していた結婚指輪を受け取ってきた。
 マンションに戻った後は、香苗の手料理を食べて、ふたりでのんびりとした時間を過ごしていた。
 一緒に暮らすようになって二週間。始めの頃は、遠慮が先に出ていた香苗だけど、最近は拓也との暮らしにも慣れてきてくれたようで、くつろいだ様子を見せてくれている。
 今の自分は、学生時代に夢見ていたままの時間を過ごさせてもらっている。
 香苗の希望でまだ婚姻届の提出には至っていないが、それでも自分は、彼女の夫なのだ。
 左手薬指の指輪に視線を落としていると、井口が息を呑む気配を感じた。
 視線を上げると、井口が表情を硬くして自分を見下ろしている。

「どうかしたか?」

 拓也に声をかけられ、数回瞬きをした井口が言う。
 彼女の視線は、拓也の左手薬指に注がれている。今ごろ、そこに指輪が嵌められていることに気付いたらしい。

「矢崎先生、結婚されてたんですか?」
「ああ。まだ籍は入れていないが、半月ほど前から同棲を始めている。近々婚姻届も出すつもりだ」

 拓也の言葉に、井口の手が腕から離れた。
 そしてひどい裏切りを受けた相手を糾弾するような眼差しを、こちらに向けてくる。

「そ、そうなんですね。これ、お下げしておきます」

 トゲのある口調で話し、井口は先ほど持ってきたコーヒーを手にすごすごと去って行く。
 その切り替えの速さに、拓也は苦笑する。
 相手が結婚したと知ったとたん諦めがつくような感情を、拓也は“愛情”と認める気はない。
 拓也なら、もし香苗が自分以外の誰かと結婚しても、諦めることなんてできない。
 どれだけ辛くても、その痛みごとずっと彼女を想い続けていくことだろう。
 そこまで愛しているからこそ、契約でもいいから彼女と結婚したいと思ったのだ。
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