冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む

7・大切なもの

 朝、自室を出てリビンに入った香苗は「えっ」と、小さく声を漏らし、ソファーに駆け寄った。
 ソファーでは、昨夜遅くオンコールの呼び出しを受けて出掛けていった拓也が、その時と同じ服装のままソファーで眠っている。
 よほど大変な状況だったのか、ソファーで腕を組んで眠る拓也の目の下にはうっすらとクマができている。
 シャワーを浴びる気力もなく、そのまま寝落ちしてしまったのだろう。
 無防備に眠っているため、普段は前髪で隠している額の傷が露わになっている。
 自分のせいで、彼に消えることない傷跡を残してしまったことに胸が痛む。

(下手に声をかけない方がいいよね)

 今日の彼は休みなので、自然に目が覚めるまでそっとしておいてあげたい。
 香苗はソファーの背もたれに掛けてあったブランケットに手を伸ばした。
 その瞬間、昨日彼に嵌めてもらった左手薬指の指輪が目に留まる。
 指輪の存在を確かめて、香苗はこみ上げる幸福感に目を細めた。
 たとえ愛のない契約結婚だとしても、彼と一緒にいられるという事実に胸が躍る。
 それでいて素直に結婚に進むことができないのは、彼を愛しているからこそのことだ。
 彼のそばを離れたくないと思うのと同じくらい、彼に幸せな結婚をしてほしいと願う。
 その相反した思いを持て余しつつ、拓也にブランケットを掛けて立ち上がる。
 香苗はそのまま簡単に身支度を済ませ、そのまま出掛けることにした。
 拓也は、普段から他人の生活音で目を覚ますようなことはないと話しているが、さすがにリビングで眠っている時は物音で起きてしまうだろう。
 今日は香苗も休みなので、外で食事をしてそのまま買い物でもして時間を過ごそう。
 ついでに香苗には、ひとりで行きたい場所もある。


 ひとりで出掛けた香苗は、駅前のカフェで朝食を済ませると、そのまま電車に乗り込んだ。
 目的は自身が勤務する遠鐘病院ではなく、ひとり暮らしをしていたマンションに荷物を取りに行くためだ。
 彼のマンションで暮らすことになった時、一度荷物を取りに行ったけど、その時は持ち出せなかった物があるのでそれを取りに行きたい。
 ついでに郵便物の回収もするつもりだ。

(拓也さんには、絶対にひとりで自宅に近寄るなって、言われているけど……)

 もし香苗が荷物を取りに行きたいと言えば、優しい拓也は嫌な顔一つせず付き合ってくれる。
 それがわかっているから、疲れて眠る彼を自分の用事に付き合わせるわけにはいかない。
 拓也は水守が香苗になにかするのではないかと心配しているけど、彼と暮らすようになって二週間、特に変わったことはない。
 水守の姿を見るようなこともないので、やっぱりあれは勘違いだったのだろう。
 最寄り駅で電車を下りた香苗は、その人の多さを見て今さらながらに今日が土曜日であることに気が付いた。

(曜日に関係ない仕事だから、時々曜日感覚がなくなっちゃう)

 一緒に暮らす拓也も同じようなものなのでなおのことだ。
 土日休みの仕事をしている人と結婚した同僚看護師が、生活サイクルが違う人との結婚生活の苦労について語っていたのを思い出す。
 自分たちは寝起きする時間も休日もその時々で違うので、うっかり相手が休みなのを忘れて起こしてしまうことがあるのだとか。
 付き合っていた頃は理解を示していたのに、いざ夫婦として生活を始めると、なかなか休みが合わないことに文句を言われるのだと言う。
 そのため、夜勤のない外来に異動しようか悩んでいると話していた。
 結婚や出産を機に、働き方を変える看護師は多い。
 ライフスタイルの変化に合わせて働き方を変えることが出来るのは、看護師の強みとも言える。

(私と拓也さんの場合、その辺のストレスはないよね)

 全く同じシフトで働いているわけではないが、お互いの働き方に理解がある。
 子供が出来ればまた考える必要が出てくるのだろうけど、今はまだ、それぞれのペースで仕事をしていけばいい。
 そこまで考えて、改札口を抜けた香苗はハッとした。

「あれっ! 私、拓也さんと子供を造る気になってない?」

 そのことに気が付くと、急に顔が熱くなる。
 一気にのぼせる顔の熱をどうにかしたくて、香苗は顔をペチペチ叩く。そんなことをしながら歩いていると、ふと視線を感じた気がした。

「え?」

 足を止めて周囲を見渡してみるけど、週末で賑わう構内はせわしなく人が行き交うだけで、誰かがこちらを見ている様子はない。
 突然頬を叩きだした香苗を奇妙に思って、一瞬視線を向けた人が居ただけなのだろう。
 バスに乗り込む際チラリと見上げた空は、灰色の雲に覆われている。
 まだ梅雨入り宣言はされていないが、曇天が続いていて、空気もねっとり湿っている。
 その思い空気に影響されたのか、さっきまで大丈夫だと思っていたのに、言葉で上手く表現できない不安が胸にこみ上げてくる。

(早く用事を済ませて、拓也さんの居るマンションに戻ろう)

 その頃には、彼も起きているはず。
 そんなふうに不安になるのは、拓也の言いつけを破っているせいもあるのだろう。
 でもその後ろめたさがあっても、彼に知られことなく持ち出したい品があるのだから仕方ない。
 せめて早く拓也の元に返ろうと、香苗はマンションに急いだ。
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