冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む
マンションでまず郵便受けを確認した香苗は、ダイヤル式の鍵の番号がまたズレていることに気付き、ひとりで来るべきではなかったのかもしれないと後悔した。
手早く荷物を纏めて、それを持ってきたトートバッグにしまうとマンションを後にする。
「帰ろう」
早く拓也の居る場所に戻りたい。
肩に掛けてバッグの紐を強く握り、マンションを出た香苗は早足で歩き出す。
香苗が暮らしていたマンションは、古くかあらある住宅地の一角にある。
少々坂が多いのが難点だが、静かで治安がよいうえに、目の前にバス停もあるので夜勤の時でも不安を感じない。
過保護な父が、ひとり暮らしをすることになった娘のために、あれこれ調べて選んだ物件なだけある。
だけど今日は、その静けさが、香苗を落ち着かない気持ちにさせる。
バス停の時刻表を確認すると、ちょうど出たばかりだった。
「駅まで歩こう」
少し待てば次のバスが来るのはわかっているのだけど、今は静かなこの場所を早く離れたい。
でも歩き出した直後、香苗の肩を掴む手が背後から伸びてきた。
「あれ、九重さん偶然だね」
そんな言葉と共に、グイッと肩を引かれる。
その勢いに、抵抗する余裕もなく体が反転させられる。
そして振り返った先に立っていた人の顔を見て、香苗は息を呑んだ。
「み……水守さん」
緊張しつつ名前を呼ぶと、水守が目を細める。
本人としては笑っているつもりなのだろう。
だけど感情が伴っていないため、その笑顔はぎこちなく違和感に溢れている。
「うれしいなぁ、俺のこと覚えていてくれたんだ。こんなところで会うなんて偶然だね」
表情のいびつさに気付くことなく水守が言う。
水守はそう言うが、都内在住の彼が偶然ここにいるはずがない。
「水守さんは、どうしてここに」
不要に相手を刺激しない方がいいと判断した香苗は、とりあえずそう聞いてみる。
「知らなかった? 俺もこの辺に住んでいるんだよ。これって運命かな?」
水守が明確な嘘をつく。
彼は都内在住だ。
拓也に言われたときはまさかと思ったけど、彼は本当に香苗にストーカー行為をしていたようだ。
もちろんゴミや郵便受けを漁ったのが水守だという証拠はない。それにそれを問いただしたところで、彼は正直には答えてくれないだろう。
それに香苗としては、事実確認なんてどうでもいいから、早くこの場を離れたい。
「そうですか。それじゃあまた……」
形だけの挨拶をして、香苗は立ち去ろうとしたのだけど、水守が掴む手に力を入れてそれを引き止める。
「九重さん、最近部屋に帰っていないよね。どこで寝泊まりしているの?」
最近香苗が部屋に帰っていないことを確信している彼の言い方に、心臓が凍り付く。
「な、なんのことですか?」
緊張でこわばる舌をどうにか動かしてとぼけると、水守の顔から表情が消える。
「なにそれ、俺のことバカにしてる? 俺がどれだけ時間を掛けて、九重さんのこと調べていると思ってるの?」
そんな自己主張されても怖いだけだ。
平然とそんなことを言う人に、正直に応えるはずがない。
それなのに水守は、己の努力を認めさせないと気が済まないのか言葉を続ける。
「最近、バスの利用もやめたよね。いつ来てもマンショに明かりが点いていないし、先週末は話がしたくて病院前のバス停でずっと待っていたのに来なかった。もしかしてと思って、駅で張っていたら、九重さんが降りてきたから驚いたよ」
さっき偶然を装って話しかけてきたことも忘れて、水守はそんなことを言う。
遠鐘病院の敷地は広く、電車とバスでは使う通用口が異なる。だから香苗は、バス停を見張る水守に遭遇することがなかったのだ。
それに彼にも自分の生活があるので、香苗を見張るのは仕事の後や休日だけだったのだろう。
二週間前に拓也と合流した後は、彼の車で移動したから行方を見失い、その後は香苗が何処にいるのかわからなくなっていたのだ。
それで先週末と今週、二回に分けてバス停と駅の両方を見張り、今日、電車を降りてきた香苗を見付けたらしい。
駅で感じた視線が彼のものだったのだと思うと、恐怖で肌が粟立つ。
「すみません。今、急いでいるので」
肩を掴む手をどうにかしたくて、香苗は身じろぎをしながら後ろに下がるが、力の差があり、彼の手を振りほどくことができない。
それどころか、香苗を逃がす気はないと言わんばかりに、水守が肩を掴む指により力を込めてくる。
「九重さんが俺を避けるようになったのは、あの男のせいだよね? 俺と九重さんが仲良く話してたのに、アイツが邪魔して……」
香苗が痛みに顔を顰めていることにも気付かず、水守が勝手なことを言う。
彼の目に見える世界は、完全に歪んでいる。
「離してください」
香苗はそう言って、素早く身を屈めた。
さっきからずっと、後ろに下がることで彼から離れようとしていたので、その動きは予想外だったのだろう。
不意の動きについて行けなかった水守の手が、香苗の肩から離れた。
身を低くしたまま数歩下がった香苗は姿勢を戻すと、体を反転させて一気に走り出す。
「クソッ! 待てよ!」
すぐに吐き捨てるような乱暴な声が背中を追いかけてくる。
退院して日常生活に戻ったとはいえ、水守の足は、まだ本調子ではない。
それなら女の足でも逃げられると思ったのに、彼の手が、香苗が肩から下げていたトートバッグの紐を掴む。
バッグの紐を強く引かれ、中身が地面を転がる。
今なら荷物を諦めて走れば、そのまま逃げ切れるかもしれない。幸いスマホは、服のポケットに入れてある。
水守をまいた後で警察に電話をして、荷物はその後でどうにでもなる。
頭の冷静な部分ではそれがわかっているのに、香苗は足を止め、地面に転がったあるものを拾おうと手を伸ばす。
壊れないようにと大事にタオルにくるんであるそれだけは、この場に残していけない。
思わず伸ばした香苗の手を、水守が掴んで、そのままどこかに引きずって行こうとする。
「やめてくださいっ!」
「お前はあの男に騙されているんだ。俺の方がお前に相応しいって、わからせてやる」
香苗の拒絶の声をかき消すように、水守が怒鳴る。
でもそれがよかったのか、騒ぎに気付いた近くの家から住人が出てきて怒鳴る。
「やめなさい。警察に電話したわよ」
「クソッ」
大声を張り上げる中年女性の手にスマホが握られているのを見て、水守が舌打ちすると、香苗から手を離して逃げ出す。
彼が立ち去る姿に体から一気に力が抜けて、香苗は、そのままその場所にへなへなと崩れ落ちた。
「ちょっと、あなた大丈夫!」
警察に通報したと話した女性は、大慌てで香苗に駆け寄ってきた。
「あ……ありがとうございます」
彼女に背中を摩られ、多少の落ち着きを取り戻した香苗は声を絞り出してお礼を言う。
そして先ほど拾おうとした荷物に手を伸ばしたが、恐怖で手が震えて上手く拾うことができない。
「これ?」
香苗がしたいことを察した女性が、香苗に代わってそれを拾い上げ、持たせてくれた。
香苗はお礼を言って、中を確認する。
なにかの拍子に傷付けないようにと、くるんであったタオルを捲ると、淡い桜色をした陶磁器製の写真立てが姿を見せた。
右下に背伸びをしてフレームの中をのぞきこむような姿勢のうさぎの装飾があるそれは、昔拓也からもらった誕生日プレゼントだ。
写真立てには、学生時代のふたりが笑顔で映っている。
きっと彼は、今も香苗がこれを持っているとは思っていないだろう。
だけど香苗にとって、これは拓也との大事な思い出の品なのだから捨てられるわけがない。
前回荷物を取りに来た時は、拓也に自分の気持ちを悟られると困るので写真立てを置いてきたけど、ずっと気になっていた。
「よかった。壊れてない」
香苗は安堵の息を吐いて写真立てを胸に抱きしめると、ポケットのスマホが鳴った。
手早く荷物を纏めて、それを持ってきたトートバッグにしまうとマンションを後にする。
「帰ろう」
早く拓也の居る場所に戻りたい。
肩に掛けてバッグの紐を強く握り、マンションを出た香苗は早足で歩き出す。
香苗が暮らしていたマンションは、古くかあらある住宅地の一角にある。
少々坂が多いのが難点だが、静かで治安がよいうえに、目の前にバス停もあるので夜勤の時でも不安を感じない。
過保護な父が、ひとり暮らしをすることになった娘のために、あれこれ調べて選んだ物件なだけある。
だけど今日は、その静けさが、香苗を落ち着かない気持ちにさせる。
バス停の時刻表を確認すると、ちょうど出たばかりだった。
「駅まで歩こう」
少し待てば次のバスが来るのはわかっているのだけど、今は静かなこの場所を早く離れたい。
でも歩き出した直後、香苗の肩を掴む手が背後から伸びてきた。
「あれ、九重さん偶然だね」
そんな言葉と共に、グイッと肩を引かれる。
その勢いに、抵抗する余裕もなく体が反転させられる。
そして振り返った先に立っていた人の顔を見て、香苗は息を呑んだ。
「み……水守さん」
緊張しつつ名前を呼ぶと、水守が目を細める。
本人としては笑っているつもりなのだろう。
だけど感情が伴っていないため、その笑顔はぎこちなく違和感に溢れている。
「うれしいなぁ、俺のこと覚えていてくれたんだ。こんなところで会うなんて偶然だね」
表情のいびつさに気付くことなく水守が言う。
水守はそう言うが、都内在住の彼が偶然ここにいるはずがない。
「水守さんは、どうしてここに」
不要に相手を刺激しない方がいいと判断した香苗は、とりあえずそう聞いてみる。
「知らなかった? 俺もこの辺に住んでいるんだよ。これって運命かな?」
水守が明確な嘘をつく。
彼は都内在住だ。
拓也に言われたときはまさかと思ったけど、彼は本当に香苗にストーカー行為をしていたようだ。
もちろんゴミや郵便受けを漁ったのが水守だという証拠はない。それにそれを問いただしたところで、彼は正直には答えてくれないだろう。
それに香苗としては、事実確認なんてどうでもいいから、早くこの場を離れたい。
「そうですか。それじゃあまた……」
形だけの挨拶をして、香苗は立ち去ろうとしたのだけど、水守が掴む手に力を入れてそれを引き止める。
「九重さん、最近部屋に帰っていないよね。どこで寝泊まりしているの?」
最近香苗が部屋に帰っていないことを確信している彼の言い方に、心臓が凍り付く。
「な、なんのことですか?」
緊張でこわばる舌をどうにか動かしてとぼけると、水守の顔から表情が消える。
「なにそれ、俺のことバカにしてる? 俺がどれだけ時間を掛けて、九重さんのこと調べていると思ってるの?」
そんな自己主張されても怖いだけだ。
平然とそんなことを言う人に、正直に応えるはずがない。
それなのに水守は、己の努力を認めさせないと気が済まないのか言葉を続ける。
「最近、バスの利用もやめたよね。いつ来てもマンショに明かりが点いていないし、先週末は話がしたくて病院前のバス停でずっと待っていたのに来なかった。もしかしてと思って、駅で張っていたら、九重さんが降りてきたから驚いたよ」
さっき偶然を装って話しかけてきたことも忘れて、水守はそんなことを言う。
遠鐘病院の敷地は広く、電車とバスでは使う通用口が異なる。だから香苗は、バス停を見張る水守に遭遇することがなかったのだ。
それに彼にも自分の生活があるので、香苗を見張るのは仕事の後や休日だけだったのだろう。
二週間前に拓也と合流した後は、彼の車で移動したから行方を見失い、その後は香苗が何処にいるのかわからなくなっていたのだ。
それで先週末と今週、二回に分けてバス停と駅の両方を見張り、今日、電車を降りてきた香苗を見付けたらしい。
駅で感じた視線が彼のものだったのだと思うと、恐怖で肌が粟立つ。
「すみません。今、急いでいるので」
肩を掴む手をどうにかしたくて、香苗は身じろぎをしながら後ろに下がるが、力の差があり、彼の手を振りほどくことができない。
それどころか、香苗を逃がす気はないと言わんばかりに、水守が肩を掴む指により力を込めてくる。
「九重さんが俺を避けるようになったのは、あの男のせいだよね? 俺と九重さんが仲良く話してたのに、アイツが邪魔して……」
香苗が痛みに顔を顰めていることにも気付かず、水守が勝手なことを言う。
彼の目に見える世界は、完全に歪んでいる。
「離してください」
香苗はそう言って、素早く身を屈めた。
さっきからずっと、後ろに下がることで彼から離れようとしていたので、その動きは予想外だったのだろう。
不意の動きについて行けなかった水守の手が、香苗の肩から離れた。
身を低くしたまま数歩下がった香苗は姿勢を戻すと、体を反転させて一気に走り出す。
「クソッ! 待てよ!」
すぐに吐き捨てるような乱暴な声が背中を追いかけてくる。
退院して日常生活に戻ったとはいえ、水守の足は、まだ本調子ではない。
それなら女の足でも逃げられると思ったのに、彼の手が、香苗が肩から下げていたトートバッグの紐を掴む。
バッグの紐を強く引かれ、中身が地面を転がる。
今なら荷物を諦めて走れば、そのまま逃げ切れるかもしれない。幸いスマホは、服のポケットに入れてある。
水守をまいた後で警察に電話をして、荷物はその後でどうにでもなる。
頭の冷静な部分ではそれがわかっているのに、香苗は足を止め、地面に転がったあるものを拾おうと手を伸ばす。
壊れないようにと大事にタオルにくるんであるそれだけは、この場に残していけない。
思わず伸ばした香苗の手を、水守が掴んで、そのままどこかに引きずって行こうとする。
「やめてくださいっ!」
「お前はあの男に騙されているんだ。俺の方がお前に相応しいって、わからせてやる」
香苗の拒絶の声をかき消すように、水守が怒鳴る。
でもそれがよかったのか、騒ぎに気付いた近くの家から住人が出てきて怒鳴る。
「やめなさい。警察に電話したわよ」
「クソッ」
大声を張り上げる中年女性の手にスマホが握られているのを見て、水守が舌打ちすると、香苗から手を離して逃げ出す。
彼が立ち去る姿に体から一気に力が抜けて、香苗は、そのままその場所にへなへなと崩れ落ちた。
「ちょっと、あなた大丈夫!」
警察に通報したと話した女性は、大慌てで香苗に駆け寄ってきた。
「あ……ありがとうございます」
彼女に背中を摩られ、多少の落ち着きを取り戻した香苗は声を絞り出してお礼を言う。
そして先ほど拾おうとした荷物に手を伸ばしたが、恐怖で手が震えて上手く拾うことができない。
「これ?」
香苗がしたいことを察した女性が、香苗に代わってそれを拾い上げ、持たせてくれた。
香苗はお礼を言って、中を確認する。
なにかの拍子に傷付けないようにと、くるんであったタオルを捲ると、淡い桜色をした陶磁器製の写真立てが姿を見せた。
右下に背伸びをしてフレームの中をのぞきこむような姿勢のうさぎの装飾があるそれは、昔拓也からもらった誕生日プレゼントだ。
写真立てには、学生時代のふたりが笑顔で映っている。
きっと彼は、今も香苗がこれを持っているとは思っていないだろう。
だけど香苗にとって、これは拓也との大事な思い出の品なのだから捨てられるわけがない。
前回荷物を取りに来た時は、拓也に自分の気持ちを悟られると困るので写真立てを置いてきたけど、ずっと気になっていた。
「よかった。壊れてない」
香苗は安堵の息を吐いて写真立てを胸に抱きしめると、ポケットのスマホが鳴った。