冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む

8・本当の気持ち

 警察での事情聴取を終えた香苗は、拓也と共に、ふたりで暮らすマンションに戻った。
 香苗に続いてリビングに入った拓也は、持っていた香苗のトートバッグを近くのスツールに置くと、背後から香苗を抱きしめた。

「拓也さん?」

 香苗は、肩越しに自分を抱きしめる拓也の腕に手を重ねる。

「どういうことか、ちゃんと話して」

 香苗を自分の腕の中に閉じ込めて拓也が言う。

「ちゃんと話すからちょっと待って」

 香苗がそう言っても拓也は納得してくれない。
 拓也は、より強く香苗を抱きしめ首筋に顔を埋める。

「俺は十分待ったつもりだ」

 確かにそうだ。
 あの写真立てを見付けた拓也は、香苗が今もそれを持っていたことにかなり驚いていた。
 本当はその場で説明を求めたかったのだろうけど、それでも理性を働かせ、まずは家に帰ろうと言って香苗を車に乗せた。
 途中、店に立ち寄り昼食を兼ねて休憩を取った間も、香苗を気遣い質問を投げかけてくることはなかった。
 どこまでも香苗優先に動いてくれる拓也も、マンションに到着したことで、感情が抑えられなくなったのだろう。
 香苗を強く抱きしめたまま「香苗は、俺のことを負担に思って別れたんじゃないのか?」と訊く。

「ごめんなさい。あれは嘘だったの」

 抱きしめられたまま、香苗は首を大きく横に振る。
 自分にとって彼は、人生でただひとり愛した人なのだ。そんな彼を負担に思うはずがない。
 香苗は彼の腕に自分の手を重ねた。

「私は、拓也さんのことを愛しています」

 ずっと胸に秘めていた香苗の告白に、拓也が大きく息を呑む。
 彼に別れを告げたのは香苗だ。それに今の拓也には他に想いを寄せる人がいる。
 だから自分の気持ちは秘密にしておくつもりでいたのだけど、水守の件があって考え方が変わった。
 大げさに思われるかもしれないけど、常識的な会話が成立しない水守に腕を掴まれ何処かに連れて行かれそうになった時、命の危険を感じた。
 その時、もう拓也に会えないかもしれないと思ったら急に怖くなったのだ。
 このまま自分が死んでしまえば、自分が彼をどれほど愛していたかを知る者がいなくなる。
 そう思ったらどうしようもなく悲しくて、自分のこの思いを告げることなく死ぬなんて出来ないと思った。

(私、すごく自分勝手な人間だ)

 再会して、どれだけ優しくされても、彼には他に思う人がいる。
 だから拓也の迷惑にならないよう、自分の思いは心に秘めておくつもりでいたのに……。

「それは昔のことで、今の香苗には、他に好きな人がいるんじゃないのか?」

 拓也の言葉に、香苗は首を横に振る。

「私の好きな人は、今も昔も拓也さんただひとりです」
「じゃあどうしてあの時……」

 驚きのあまり自分を抱きしめる彼の手の力が弱まったのを感じて、香苗は、彼の手を解いて向き合う。

「私の存在が、拓也さんの負担になっていると感じて。拓也さんの幸せのために、別れた方が良いと思ったんです」

 ずっと自分の胸に納めていた思いを言葉にする。
 あの時拓也は、香苗の別れ話をあっさりと受け入れた。彼のその態度に、香苗は、自分の選択は正しかったと思ったのだ。

「なんで、そんなふうに?」

 拓也は理解出来ないと、乱暴に髪を掻き上げた。
 そうすることで、古い額の傷が露わになる。
 後遺症がないとはいえ、彼の足にも同じように一生消えることのない傷跡が残っているのだと思うと、今でも胸が痛む。
 香苗の視線がなにを捉えているか気付いたのだろう。
 一度掻き上げた髪を手櫛で整えて、拓也が悲しげに視線を落とす。

「あのケガは、香苗のせいじゃないと何度も言ったのに」
「だけど……私のせいで、拓也さんは走れなくなったんですよね?」

 学年が違い、香苗が高校に入学した頃には、拓也は陸上部を辞めていた。だから彩子に聞かされるまで、そのことを知らなかった。
 だけど彩子にその話を聞かされ、陸上部の友達に頼んで確認してもらったことで、彼女の話が事実だと知ったのだ。
 だからこそ拓也が自分にそのことを黙っていたのは、言葉にすれば、香苗への恨み言が出てしまうからではないかと考えた。
 あの頃、自分のことを好きだと言ってくれた彼の言葉を疑うつもりはない。でも人の心の形は一つじゃない。
 香苗を愛してくれる反面、心のどこかで、香苗を助けたことを後悔しているのではないのか……。
 そんなふうに思う気持ちが抑えられなかった。

「それに医大受験の勉強はすごく大変だから……。私と付き合っていなければ、拓也さんは違う選択をするんじゃないかなとも思いました」
「なんでそんなふうに」

 拓也は信じられないと唸る。
 香苗がそんなふうに考えるようになったのは、拓也の進路を巡り彩子に『疫病神』と罵られたせいだ。
 でも彼女にその話を聞かされた時、拓也の母親も同席していたので、出来ればそのことは話したくない。
 俯いて黙り込む香苗を、拓也は再びそっと抱きしめた。

「俺、医師として偉そうなこと言えないな」
「え?」

 突然話が飛んだ。
 不思議に思い彼を見上げると、拓也が悲しげに眉尻を下げる。

「昨夜、後輩の医師に『患者の言葉を信じすぎるな。優しい人ほど、自分がどれだけ辛くても嘘をつく』『後で後悔したくないのなら、良い意味でもう少し人を疑え』なんて偉そうなことを言ったけど、俺自身がずっと香苗の優しさを見落としていたんだな」

 香苗の首筋に顔を埋めて、苦しげに「嘘をつかせてごめん」と謝った。

「拓也さんは、なにも悪くないです」
「香苗の言葉を疑わなかった俺が悪い」

 香苗は必死に首を横に振るけど、拓也は抱きしめる腕に力を込めることでその動きを妨げる。

「あの時の俺が香苗の別れ話を受け入れたのは、俺が香苗に後ろめたかったからなんだ」
「え?」

 彼が、香苗に後ろめたい感情を抱く必要はどこにもない。
 拓也は背中にまわしていた腕を解き、香苗の頬を両手で包み込む。

「まだ傷が癒えてにない俺に告白されれば、香苗は断れない。それがわかっていたのに、他の誰かに取られるのが怖くて告白したんだ」
「そんな……」

 彼がそんなことを思っているなんて、考えてもいなかった。
 驚く香苗に拓也が顔を寄せる。
 え! と思った時には、拓也の唇が自分のそれに触れていた。
 互いの唇を触れ合わせるだけの軽い口付けだけど、それでも重ねた唇から彼の愛情が伝わってくる。
 顔を上げた拓也が、親指で香苗の唇を拭ってはにかんだ表情を浮かべる。

「香苗のことが、どうしようもないくらい好きだった。だから同情でもいいから、俺のそばにいてほしいと思っていた」
「そんなこと……」

 あるはずがない。
 だって香苗は、ずっと前から彼に片思いをしていて、同じ高校に合格することが出来たら、告白しようと思っていたのだから。
 香苗がそう話す前に、拓也が「香苗のお父さんには、俺のズルさを見抜かれていたんだよ」と、続ける。

「父が?」

 香苗の父がふたりの交際を反対していたのは、両者の家庭環境の違いによるものではなかったのか。
 香苗のその言葉に、拓也は首を横に振る。

「どうやら俺たちは、長い間、たくさんのすれ違いを重ねていたようだ」

 拓也は香苗をソファーに座らせると、自分は一度キッチンに行き、ふたり分の飲み物を用意して戻ってきた。
 そして香苗の隣に座り、後悔を滲ませた口調で、香苗の知らない場所で彼女の父『娘は君に罪悪感を抱く。そんな人が相手では、対等な関係を結べない』と、当時高校生だった拓也に頭を下げて別れてくれるよう頼んだのだと語った。

「だから香苗が別れたいって言ったときは、君のお父さんが言ったとおり、今の俺じゃ駄目なんだって納得できた。だから素直に別れを受け入れたんだ」
「あっさり私との別れを受け入れたのは、拓也さんにとって、私はその程度の存在だったからなんだと思っていました」

 初めて聞かされる話に驚きつつ、香苗が言う。

「まさかっ! あの時の俺は、今の自分が香苗にとって重荷になるから、ケガを完治させて、一人前の医師になってから迎えに行けばいいと思っていただけだ。その時、香苗に他に恋人が出来ていたとしても構わない。君が俺を選んでくれる男になれるよう努力するつもりでいた」

 今さら知らされる彼の覚悟に、香苗の胸が熱くなる。

「進路にしても、医師になりたいと思ったのは俺の意思だ。あのケガがそう思うきっかけになったのは事実だが、もし医師以外の職業を選択していたとしても、間違いなく俺は香苗にプロポーズしていたから、その選択を香苗が負担に思う必要はなかったんだよ」
「そうだったんですね」
「逆に、自分の夢を叶えることが、香苗との未来に繋がるのをラッキーに思っていたくらいだ」

 そう話す拓也は、そこで一度言葉を切り、肩をすくめてから続ける。

「だから研修医を終えて、ふじき総合病院に正式に医師としての採用が決まったときに香苗に連絡を取ろうとしたんだけど、番号が変わっていて……」
「だからあの時、私の番号が変わっていることを知っていたんだ」

 以前、拓也に今の連絡先を訊かれた時は、てっきり講習のことで連絡しようとして、初めて香苗の番号が変わっていることに気が付いたのだと思ったけど、彼はそれよりずっと前に香苗に連絡を取ろうとしてくれていたんだ。

「私が番号を変えたのは、そうしないといつまでも拓也さんの連絡を待ってしまう自分がいたからです」

 彼の肩に頭を預けて、その頃の思いを打ち明ける。
 別れてからずっとスマホが鳴る度に、彼からの連絡を期待して落胆するということをくり返していた。しまいには、鳴ってもいない電話の着信音を聞いた気がして、スマホを確認するようになっていた。
 そんな自分が嫌になって、大学進学を機に番号を変えたのだ。
 結果、自分たちは再会するまでに、十年以上の時間を要した。

「長い間待たせてごめん」

 香苗の頭を撫でながら拓也が言うが、そうじゃない。
 香苗は髪に触れる彼の手に、自分の手を重ねて言う。

「私を諦めないでいてくれて、ありがとうございます」
「こんなに愛しているのに、諦められるわけないだろ」
「でも、拓也さんには、誰か他に好きな人がいるじゃないんですか? 大学生時代の彼女とか?」
「大学時代の彼女? そんな相手、いるわけないだろ。香苗のことをこんなに愛しているのに」
「え、でもじゃあ……」

 依田が話していた、大学時代に拓也の部屋にいたという女性は誰なのだろう。
 でもそれ以上のことを考える余裕を、彼が与えてくれない。
 髪を撫でていた拓也の手が、頬に移動していくのに合わせて香苗が視線を上げると、拓也が唇を重ねる。

「ずっとこうしたいと思っていたのに」
「ん……ッ」

 最初はただ唇を触れ合わせるだけのキスだったのに、それはすぐに大人の口付けに変化していく。
 重ねた唇の隙間から侵入した彼の舌が、口内を蹂躙する。
 舌で舌を撫でられる感覚に、香苗の体が思わず跳ねた。
 彼を拒絶するつもりなど全くないのに、生まれて初めての濃厚な口付けに、体の緊張が抑えられない。
 拓也は、そんな香苗の反応を味わうように舌で上顎を擦り、歯列を撫でていく。

「う……ふぅ…………っ」

 重なり合う唇の隙間から甘い息を漏らし、彼から与えられる刺激に身を委ねていると、不意に拓也が香苗の肩を押した。

「拓也さん?」

 緩やかな彼の拒絶に香苗が戸惑いの声を上げると、拓也は前髪を掻き上げて困り顔で言う。

「なんて言うか、これ以上香苗に触れていると、感情の抑制が効かなくなるから」
「え?」

 すぐには彼がなにを言っているのか理解できずにいると、拓也が困り顔で香苗の耳元に顔を寄せて「俺も男だから」と囁く。

「それは……」

 どういうことだろう?
 彼のいわとんとすることを理解できずにいると、拓也に再度唇を重ねられた。
 拓也は、そのことに驚く香苗の腰を撫で、そのまま上へと上っていく。
 服の上からではあるが、大きな拓也の手が自分の胸の膨らみに重ねられ、ここは一気に顔を赤くした。
 香苗の胸に重ねられた手は、そのまま二度、三度と、香苗の胸を揉みしだく。

「あ……っ」

 初めての感覚に、香苗が思わず声を漏らすと拓也が慌てて手を離す。
 そしてコツンと香苗の肩に額を預ける。

「俺が必死に自分の欲望と戦ってるのに、その声は反則だろ」

 そう唸って、大きなため息を吐いた。
 それでやっと拓也の言いたいことを理解した香苗は、赤面して視線を泳がせる。
 いい年をして……と、思われるかもしれないけど、拓也以外の男性と付き合ったことのない香苗は、そういった経験がないのだから仕方ない。

「あ、えっと……ごめんっ」

 なんだろう。色々恥ずかしい。
 上手く説明できない気恥ずかしさから、香苗は「そういうこと初めてだったから、上手く気付けなかった」と付け足す。
 すると拓也がすごく驚いた顔でこちらを見た。
 いい年をしてなにを言っているのだと思われたかもしれないが、本当のことなのだからしかたない。
 香苗がそういうふうに触れられたいと思える相手は、この世に拓也ひとりだけなのだから。

「実は俺も」
「え、嘘。だって拓也さん、女の人にモテるでしょ?」

 こんなイケメン医師、周囲の女性がほっておくはずがない。
 目を丸くする香苗に拓也が言う。

「好きでもない女性に愛されても、意味がないだろ。俺の人生には、香苗以外の女性は必要ない」

 彼の言葉に、胸がジンと熱くなる。
 香苗も全く同じ気持ちで、これまでの日々を過ごしてきたのだ。

「私たち、離れていても想いは一緒だったんですね」

 香苗の言葉に頷いて拓也が立ち上がった。
 そしてチェストの引き出しから何か取り出し、すぐに戻ってきた。

「これ」

 彼が取り出したのは、以前書いた婚姻届だ。
 てっきりそれ出しに行こうと提案してくれると思ったのに、拓也は香苗が見ている前で、それをビリビリと二つに裂く。

「えっ!」

 思いがけない彼の行動に香苗は目を丸くするが、拓也はそれでいいのだと言いたげだ。

「これにサインを求めた時の俺は、香苗が俺のことをどう思っているかわからなくて焦っていた。香苗に愛されているなんて思ってもいなかったから、こんな紙切れ一枚の約束に、必死になていた」

 二枚に裂いた紙を重ねて、また二つに裂く。
 そうやって婚姻届を無効なものにしてから拓也が続けた。

「だけど香苗の人生を背負う覚悟をして君とこの先の人生を共にするために、まずは香苗のご家族にきちんと挨拶をして、これからの
ことを話し合おう」
「はい」

 今度こそ、自分たちは本当の夫婦になっていくのだ。
 香苗はその喜びに胸を高鳴らせながら彼の言葉に頷いた。
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