冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む

10・救命の場で出来ること

 七月の第二日曜。
 香苗は拓也とふたり、都内の中華料理店を訪れていた。
 目的は拓也の母親である小百合と、その再婚相手である宏に、結婚の挨拶をするためである。
 彩子の襲来を受けた後、香苗は拓也と話し合い、彼の家族と呼べる人たちに結婚挨拶をすることに決めた。
 もちろんそれで反対されても、結婚を取りやめるつもりはない。
 それでも香苗は、拓也ために家族の理解を得たいと思う。
 そしてそんな香苗の気持ちを汲み取った上で、拓也は、それならいい機会なので、今の自分の家族がなにを思っているのか知っておきたいと話した。
 大学進学以降交流がほぼ途絶えていたので、小百合や宏が、医師になった拓也のことをどう思っているのかわからない部分も多いのだとか。
 宏と友好的な関係を築くことなく家を出た拓也としては、自分と母が連絡を取り合うことで夫婦仲を悪くしてはいけないという思いから連絡を控えていたと言う。
 それは拓也なりの気遣いだったのだけど、そうすることで彩子が小百合の代弁者を名乗りあれこれ口を挟むのであれば、一度本人たちときちんと話し合い、今の考えを知りたいと思うようになったと話す。
 彼がそういうふうに思うようになったのは、香苗が、自分たちがお互いを思いやるあまり長いすれ違いをしたと話した影響が大きい。
 拓也が覚悟を決めて連絡して見ると、小百合はすぐに快諾してくれた上に、自分が説得して宏を同席させることも約束してくれた。
 拓也の言葉を借りるのであれば、母の再婚相手である宏は『自分の考えに絶対的な自信を持っている人』なのだと言う。
 それでも完全なる暴君と言うわけではなく、小百合がどうしてもと頼み込めば耳を傾けてくれることもあるそうだ。
 そして彼なりに、拓也のその後は気になっていたのか、小百合の説得を受けて今回の食事会に同席してくれることになった。

「はじめまして、九重香苗と申します」

 拓也と共に先に来店し、レストランの個室で石倉夫妻の到着を待っていた香苗は、まずは宏に頭を下げた。
 そして次に、隣の小百合には「お久しぶりです」と挨拶をする。
 それに対して宏は渋面で頷くだけで、小百合も香苗から視線を落として曖昧な頷きを返すだけだった。

(やぱっり、私と拓也さんの結婚に反対なんだよね)

 祝福されないと理解していたつもりでも、二人の対応に落胆してしまう。
 それでも拓也の前で落ち込むわけにはいかないと、香苗は明るい表情でふたりに向き合う。

「久しぶりの長距離移動で、左肩が痛くて仕方ない」


 宏は仏頂面で唸り、右手で左肩や腕、胸といったあたりを摩った。
 どうやら動かすのも億劫らしく、会った時から極力左腕を動かさないようにしている。

「ごめんなさい。私がワガママを言った物ものだから」

 そう謝るのは、小百合だ。
 本来なら香苗たちが挨拶に赴くべきところ、小百合が外観だけでもいいから拓也が勤務する病院を見て見たいと話したことから、石倉夫妻が東京に出向き、ふじき総合病院への交通アクセスがよい最寄り駅のレストランを会食の場に選ぶこととなった。

「まあ、お前の母親は、妻としてよくやってくれているから」

 そのお礼だとでも言いたいらしい。
 拓也が言っていたように、宏は気難しい人ではありそうだが、完全な暴君ということでもないのだろう。
 そして料理の注文を済ませると、ポツリポツリではあるが、拓也の言葉に返事を返すような形で話しをしてくれた。
 そして拓也が香苗と結婚して、九重家の婿養子になることを話したところ、宏の回答は「好きにしろ」とのことだった。

「元からお前は私と養子縁組しているわけではないし、好きにすればいい」

 投げ捨てるように言う宏は、香苗へと視線を向け「私の跡継を継いだ方がよっぽど兼ねになるのに、医師になるメリットがわからん」と吐き捨てる。
 香苗の家が九重総合医療センターであることは承知していて発言だ。
 どこまでも医師という職業に理解を示さない宏ではあるが、拓也が自力で医大を卒業して医師になった今、その生き方を咎めるつもりはないようだ。
 小百合の方も、宏の物言いに申し訳なさそうな顔をするだけで、ふたりの結婚や、拓也の仕事についてなにか言う気配はない。
 つまり彩子が言っていたことは、拓也が言うとおり、彼女の勝手な言い分に過ぎないようだ。
 ちなみに今日の会食は、彩子には秘密にしておくよう拓也が強く言い、先日の襲来をしった小百合はその約束を守ってくれた。
 おかげで彼女に邪魔をされることなく、こうやって話しができている。

(反対されていないってわかっただけでもよかった)

 宏の反応は、もちろん友好的とは言えない。
 それでも決定的な決裂をするようなものでなければ、これから時間をかけて関係を改善できるのではないかと思える。
 それなら拓也が香苗のために自分家族と決別しなくていい。それがわかっただかだけも満足だと、香苗は安堵した。
 そして料理が運ばれてきた段になって、宏がポケットから取り出した薬を飲んだ。

「何処かお悪いのですか?」
「アンタに関係ない」

 思わず質問する香苗に、宏がピシャリと返す。
 そして「たいしたことないのに、医者はあれこれ病名を付けて金を取るからかなわん」といったことを言う。
 そして舌打ちをして頬を摩る。

(もしかして医者嫌いなのかな?)

 もちろんそれが感情の全てではないのだろうけど、彼が拓也や香苗に対する棘のある態度を取る理由の一端にはそういった理由があるのかもしれない。
 それでも医師から処方さえる薬を飲むということは、なんらかの自覚症状があってのことだ。
 改めて宏の姿を確認すると、なかなかに恰幅がいい。
 会社経営をしているといことなので、会食などの機会も多いのだろうか。
 だとしたら、糖尿病や高血圧の薬を飲んでいても不思議はない。そしてそんな彼が、繰り返し顎や左腕の周辺を撫でる姿に嫌なものを覚える。
 それは拓也も同じだったのだろう、香苗がチラリと視線を送ると小さく頷いた。

「お義父さん、その痛みはいつからですか?」
「二、三日になるかな」

 顎を押さえて痛みをやり過ごす宏の姿に、拓也が腰を浮かせて言う。

「明日にでも一度循環器内科を受診された方がいいかと」
「痛むと言っても、常にというわけじゃないから問題ない」
「絶対に病院に行ってください」

 思わずといった感じで拓也が強く言うと、宏の顔に怒りの色が浮かぶ。

「なにを?」

 宏が拓也をギロリと睨んで続ける。

「お前は久しぶりに会うなり、私に命令する気か? 医者というのは、そんなに偉い商売か? なんやかんやと薬を出すが、治るどころか、最近前より体調が悪くなるばかりだ。言っとくが医者なんて商売より、私の稼ぎの方が何倍も上だぞ」

 拓也の言葉に、宏がテーブルに手を突いて立ち上がり、「不愉快だ」と、部屋を出ていこうとする。
 だが次の瞬間、左胸の辺りを押さえてその場に膝から崩れ落ちた。

「お義父さん」

 拓也が慌てて宏に駆け寄る。

「あなたっ!」
「母さん黙って」

 悲壮な声を上げて駆け寄ろうとする小百合を、拓也が一括する。
 その鋭い声に驚き小百合が動きを止めると、香苗は彼女に寄り添い、緊張で震えている小百合の手を優しく包み込んだ。
 その間に、拓也は床に倒れる宏の頭をわずかに持ち上げ、片手で宏の手首を掴み、自分の顔を近づける。

「石倉宏さん、私の声が聞こえますか?」

 声を掛け意識レベルを探り、視線で胸や腹部の上がり下がりで呼吸の有無を確認し、触れる手首から体温と脈拍を知る。
 自称が“私”に切り替わっている彼の思考は、医師に切り替わっているのだとわかる。

「香苗、AEDの準備、救急に電話」
 宏の衣服を緩め、指先を強く押さえて血の戻りを確かめながら拓也が言う。

「はい」

 同じく思考が看護師としての自分に切り替わるのを感じながら、香苗は倒れた拍子に床に転がった宏のスマホを手にする。
 緊急電話をかける際、持ち主の認証はいらないので、自分のスマホをカバンから出すよりその方が早いという判断からだ。
 電話はすぐにつながり、先方から落ち着いた男性の声で「家事ですか? 救急ですか?」と問い掛けられる。

「救急です」

 そう答えた香苗は、店の所在地を告げると、スマホをスピーカに切り替え拓也のかたわらに置く。

「六十代男性、胸部に強い痛みを訴えた後意識混濁、微かな拍動ありますが心筋梗塞の疑いあり」

 端的に状況説明をしながら宏の衣服を緩めていく拓也にその場を任せて、香苗は個室を出てスタッフに声をかける。
 そしてただならぬ雰囲気を察した店のスタッフに、事情を説明し、店の外に出て救急車は駆けつけた際の速やかな誘導を頼み、AEDのありかを訊いた。
 AEDを抱えたスタッフと共に個室に戻ると、拓也は宏の体を横向け、首の角度を調整して気道確保をしているところだった。
 床には彼の吐瀉物がある。
 小百合は蒼白になってナプキンや持っていたティッシュでその片付けをしようとしていたが、香苗はそれを止めて吐瀉物の内容を確認する。

「旦那さんに食品アレルギーはありますか?」

 おそらく拓也の見立てで合っていると思うが、現状考えられる状況は全て確認しておく必要がある。
 香苗の質問に小百合は黙って首を横に振る。
 その背後では、拓也がスタッフにとりあえず脈が触れているので今すぐAEDは使わないがそのまま置いておいてほしいと話す声が聞こえた。
 彼の心臓が動いていることに安堵しつつ、香苗はそのまま、宏の朝食の内容と同じものを小百合も食べているかを確認する。
 朝のメニューに特段珍しい食材は使用されていないし、同じ物をたべた小百合が元気にしている様子を見るに食中毒の可能性は低い。
 次に拓也が、宏の既往歴や飲酒喫煙の有無を確認していく。
 その質問に小百合は、宏には糖尿病と高血圧がありそれらの薬を服用していることや医師に止められても飲酒の習慣が抜けないことを告げた。
 そうやって長いのか短いのかよくわからない時間を過ごし、救急隊員が駆けつけると、隊員のひとりが、拓也の顔を見て「あれ?」という顔をした。

「矢崎先生のお知り合いですか?」
「そうだ。とありあえずふじき総合病院に受け入れ可能か確認してくれ。可能なら、心電図と胸部レントゲンのオーダー、循環器医師へのコンサルトとカテ室確保も合わせて伝えてくれ」

 場所がふじき総合病院に近いため、救急隊員の中に拓也の顔見知りがいたらしい。
 距離的にもそれが妥当だと言ったことを応えながら、救急隊員は他の隊員と息を合わせて宏をストレッチャーに乗せる。
 そして家族の付き添いを求められると、拓也は香苗に後を任せて救急車に乗り込んだ。

「拓也さんのお母さん」

 ストレッチャーに付き添い店の外まで出ていた香苗は、自分と一緒に救急車を見送っていた小百合になるべく優しい声で話し掛ける。
 その声に、小百合は我に返ったように瞬きを繰り返す。
 突然目の前で自分の夫が倒れたのだから、冷静でいられないのはわかるが、残された彼女にまだやってほしいことがある。

「旦那さんのお薬手帳、ご自宅にあると言いましたよね。もし彩子さんが自宅にいるのなら、処方内容の写真を撮って拓也さんに転送してもらってください」

 先ほどお薬手帳の有無を確認され、彼女は自宅においてきたと話し、既に服用した後の食前薬の空袋だけを隊員に預けた。
 だが集められる情報は、一つでも多い方がいい。

「あの人、死んだりしないわよね?」

 オロオロしながら小百合が訊く。
 その問い掛けに、香苗は力強く頷いた。

「拓也さんがいてくれたおかげで、プレホス……病院前診察は、これ以上ないくらい完璧です。だから安心して、お母さんも、お母さんにできることをしてください」

 香苗だって看護師だ。患者の家族に死なないかと問われて、安易な返事をしてはいけないことはわかっている。
 だけど今は、小百合を安心させることを優先してあげたかった。
 それに拓也がいてくれるのだから大丈夫だと、香苗自身も信じたい。
 香苗の言葉に気持ちを落ち着けた小百合がスマホを操作するのを確認して、香苗が店内に引き返し、スタッフにお礼を伝え自分はまだ残るが、手術に家族の同意書が必要になるので小百合は先にタクシーで病院に向かわせることを告げた。
 そうやって冷静に対応できている自分は、拓也に一方的に助けられ怯えて泣くことしかできなかった子供ではないのだと実感することができた。
 あの時の後悔を胸に、看護師として奮闘してきた日々が今の自分を造っている。
 それを誇りに思うのと同時に、救命救急医として動く拓也の姿を垣間見たことで、改めて彼の仕事の重要性を理解した。
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