冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む
 ふじき総合病院に搬送された宏は、検査の結果、見立て通り心筋梗塞という診断がなされ、そのままオペとなる。
 救急車に同乗した拓也は、循環器医師の対応が難しいためそのまま彼のオペにまわった。
 その間、香苗は小百合に付き添い、家族のための控え室でまんじりとしない時間を過ごしていた。
 それぞれの家族への配慮としてなのか感染症のためか、控え室は、パーテーションで仕切られ他場所に小さなテーブルと数組の椅子が置かれている。

「香苗さん、ごめんなさい」

 四人掛けのテーブルに向かい合って座っている小百合が、不意なタイミングで香苗に頭を下げた。

「気にしないでください。逆に拓也さんが一緒の時でよかったです」

 心筋梗塞は、時間との勝負だ。
 発症から再還流まで百二十分以内が推奨されている。
 そのため今回のように、手術の準備をしている間に家族から同意書にサインをもらい、カテ室ことカテーテル室を押さえられたこともラッキーだった。
 一般清潔区域より高い清浄度が求められる、準清潔区域に指定されているカテーテル室では、カテーテルと呼ばれる細い管を血管に通し、内部から治療を行うことができる。
 カテーテル手術は、外科治療と違い切開手術を行わないため術後の回復も早い。
 だから安心してほしいと話す香苗に、小百合は首を横に振る。

「そうじゃなくて、十年前、あなたにひどい嘘をついてしまったの」
「ああ……」

 そのことかと、香苗は息をはく。
 拓也に再会し、彼の思いを知っていく中で、そんな気はしていたのだ。
 香苗自身、機会があればそのことに関して小百合に真相を確かめたいとは思っていた。

「彩子さんに、嘘をつくように頼まれたんですね?」

 香苗の質問に、小百合は「ごめんなさい」と謝ることで肯定する。
 その答えに、香苗としても“やっぱり”という気持ちしかない。
 あの頃は彩子の話が本当だったこともあり、大人である小百合が自分にあんな嘘をつくなんて思っていなかったのだ。
 だけど大人になって、気性の激しい彩子の義母になった小百合の気苦労といったことに思いが至るようになって察することができるようになった。

「本当にごめんなさい。いまさら謝って済むような話ではないけど、拓也には、私からあの時の事実を話すわ」

 小百合の嘘が原因で香苗と拓也が別れたことに対する罪悪感が拭えず、拓也にもろくに連絡を返せずにいたのだと話した。
 拓也からは、小百合は再婚相手を気遣って、あまり連絡をしてこないと聞いていたが、そこにはそんな事情も隠れていたそうだ。
 心底申し訳なさそうに話す小百合に、香苗はその必要はないと告げる。

「もう澄んだことです。それにこうやって拓也さんと再会できた今、あれは私たちに必要な時間だったと思っています」

 もちろんそれは、拓也と再会し、結ばれることが出来たからこそ言えることなのだけど。
 もし香苗が彩子の嘘に踊らされることなく、拓也とそのまま結婚していたのなら、それは物語のような幸せな展開だったのかもしれない。
 だけどその人生を歩んでいた時の自分は、今ほど強くはないだろう。
 拓也に甘えて守られて、彼を支える強さを身につけることは出来なかったかもしれない。
 だから自分たちの別れは、これからのふたりのために必要なものだったのだ。
 そしてこうやって奇跡的な再会を果たせた自分たちは、運命の赤い糸で結ばれていたのではないかと思う。

「拓也さんは、あの時、私がお母さんと話したことは知りません。今さら知る必要のない話です。あの日のことは忘れて、拓也さんと仲良くしてください」

 自分の母親がそんな嘘をついなんてこと、今さら拓也が知る必要ない。
 香苗のその言葉に、小百合は深く頭を下げた。
 その時、パーテーションの向こう側から、青いスクラブ姿の若い男性が顔を出した。

「石倉宏さんのご家族様ですよね?」
「はい」

 香苗と変わらない年齢に見える彼の言葉に、小百合は不安げな表情で腰を浮かせた。

「研修医の佐々木といいます。手術は無事に終わりました」

 その言葉に、小百合が安堵の息を吐く。

「このまま数日間は集中治療室で過ごしていただき……」

 案内をしながら、佐々木は宏の病状や今後についての説明をしてくれた。
 数日前から体調の違和感を覚えていた宏は、やはり緩やかに病状が進んでおり、かなり危ない状態になっていたのだという。
 だけど拓也の適切な処置のおかげで一命を取り留め、麻酔が切れれば普通に会話をすることも出来るとのことだ。
 佐々木の話を聞いて小百合は目元の涙を拭う。

「矢崎先生のオペは、教材にしたいぐらい見事なものでした。判断力もあり、オペ技術も確かで、先生が救命救急の現場にいてくださることで何人の人が命を救われたことか。研修医の僕が言うのはおこがましいかもしれませんが、いつか矢崎先生のような医師になりたいと思っています」

 佐々木はそんなことを話しながら歩く。
 それはもちろん小百合を気遣ってのことなのだろうけど、それを聞いていると心から拓也を尊敬していることが伝わってくる。

(当たり前のことだけど拓也さんは、救命救急の現場に欠かせない存在なんだよね)

 ふたりから一歩下がって歩く香苗は、今さらながらにその事実を噛みしめる。
 そして集中治療室に着くと、香苗は、自分は廊下で待たせてもらうと伝えて小百合を見送った。

(とりあえず、ホテルの下調べだけでもしておこう)

 先ほど手術を待つ間に、小百合は今日はこのまま都内に泊まりたいと話していた。
 香苗としては拓也と暮らすマンションに泊まってもらっても構わないのだけど、拓也も香苗も不規則な暮らしをしているので、小百合が落ち着かないだろう。
 そう思い、病院に近く、アメニティが充実してくつろげそうなホテルを検索していると、自分の前に人が立つ気配がした。
 見ると先ほどの佐々木と同じ青いスクラブ姿の拓也が立っていた。

「拓也さん」

 初めて見る医師としての彼の姿に、つい見惚れてしまう。
 眩しいものを見るような香苗の視線が照れくさかったのか、拓也は手櫛で髪を整えてはにかみ笑いを浮かべる。

「今日はありがとう。香苗がいてくれて助かった」

 表情を真面目なものに切り替えて拓也が言う。

「私はなにもしていません」

 宏が一命を取り留めたのは、拓也の冷静な判断と処置のおかげだ。
 以前から体調に違和感を覚えていたのに、医者嫌いの宏は受診を先延ばしにし、結果突然重篤な状態に陥った。
 一般的な治療であれば、まず外来受診で鑑別診断をおこない、体勢を整えた上で治療へと移行することができる。だけど救命救急の場合、鑑別をしながら、もしくはその前から治療に入る必要がある。
 その対応がスムーズにできたのは、拓也がいてくれたおかげだ。
 香苗のその意見に、拓也は首を横に振る。

「俺ひとりじゃ対応しきれなかった。支えてくれる香苗がいてくれたから、義父の処置に専念できた。それに香苗のお父さんのおかげで、あの人の情報を手術前に知ることが出来た」
「それも父のおかげであって、私の実力じゃないです」

 先ほど香苗は、搬送される宏を見送った後で小百合に、彩子に連絡を取って彼のお薬手帳の情報を送ってもらうよう頼んだ。
 だけど普段から、自分が用のあるとき以外は小百合の連絡を無視する彩子に電話が繋がらなかった。
 宏が通っている病院は個人経営のいわゆる町医者で、日曜日の今日、本来なら連絡のとりようもない。
 それで香苗が自分の父親に連絡を取って、その旨を伝えてみた。
 すると思ったとおり香苗の父は、宏のホームドクターの個人的な連絡先を知っており折り返しの連絡をするように伝えてくれたのだ。
 結果、小百合の許可を取った上で、宏の病状についても情報を手術前にふじき総合病院も共有することが出来た。

「だとしても、香苗のおかげだ。そのおかげで、俺は母に辛い思いをさせなくて済んだし、俺自身後悔せずにすむ」

 そんなことを話していると、遠くで拓也を呼ぶ声が聞こえた。
 見ると看護師が彼に合図する。
 どうやら新たな救急の受け入れをしたいらしい。
 緊急事態のためにオペに入った彼に、このまま助けてもらいたいようだ。

「えっと……」

 拓也が香苗と看護師を見比べる。

「行ってください。お義母さんのお世話は、私に任せて」

 自分たちのマンションでは小百合が落ち着かないと思うのでホテルを取ることだけ伝えて、香苗は拓也の背中を押す。

「たくさんの人が、拓也さんの助けを待っています」
「ありがとう」

 一言お礼を言って拓也は駆けていく。
 その背中を見送る香苗は、拓也はこの場に欠かせない存在なのだと改めて実感した。
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