冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む
 最初に宏を見舞ってから五日後、香苗は再びふじき総合病院を訪れていた。
 目的は拓也と共に、再度宏を見舞うためである。
 その後の経過も良好で、退院の目処がついたので、その前に小百合にも同席してもらい、改めてふたりで結婚の挨拶をさせてもらうことになったのだ。
 色々大変なことになってしまったが、そのおかげと喜ぶべきことも多い。
 小百合とふたりきりで話す時間を多く持つことができて、彼女の本音を知ることができた。
 結果として、おとなしい小百合は、再婚直後ということもあり、彩子の言いなりとなり香苗に嘘をついたのだと知った。
 小百合としては彩子ひとりが悪いのではなく、母親として、拓也に少しでも苦労のない道を歩ませてやりたいという気持ちもあったのだという。
 だから香苗と拓也に罪悪感を覚えつつも、彼女の嘘に加担したそうだ。
 拓也の幸せを思い、一度は彼との別れを決断したことがある香苗には、その気持ちは痛いほどよくわかる。
 その結果、息子に嘘をついた後ろめたさから、拓也とうまく接することができなくなっていたのだと打ち明けられた時には胸が苦しくなった。
 拓也は小百合は、自分が義父の意に添わない進路に進んだことで、宏の顔色を気にして連絡を取らないと思っていただけになおさらのことである。

「本当は、全部打ち明けられたらいいのかもしれないけど……」

 ふじき総合病院へと向かう道を歩きながら、香苗は呟く。
 そのためには、小百合が香苗に嘘をついたことを話す必要がでてくるので、そういうわけにもいかない。
 それに無理して全ての真実を明らかにしなくても、彩子の口を介さず話し合ったことで、小百合が自分たちの結婚に反対していないとわかった。
 それに拓也が医師になったことを喜んでいることも知れた。
 宏のほうも、彼が拓也に自分の胸の内を何処まで打ち明けたかは知らないけど、拓也は仕事の合間に顔を出した際の義父の態度が以前と違うと話していた。
 大病を機に人の性格が変わるという話しはたまに聞くけど、助けたからって遠慮されると落ち着かない。自分は医師としてやるべきことをしただけなのに……と、頭を掻く拓也の姿を見るに、その全てを打ち明けてはいないのだろう。
 その辺のことは、香苗が口出しすることではないので黙っている。
 そしてあれだけのことがあっても、自分が特別なことをしたと思わない拓也を愛おしく思う。
 香苗としては、そんな彼には、これからも救命救急の第一線で働いてほしのだけど……。

「あれ?」

 ふじき総合病院に到着し、そのまま仲に入ろうとした香苗は、何処からか覚えのある声が聞こえてきた気がして足を止めた。
 風邪に流れて聞こえてくる声を辿って病院の周りを歩くと、救急車の搬入口近くで言い争っている女性の姿に気付く。
 ひとりは紙袋、もうひとりは大きな花束を持っている。

(あれは拓也さんのお母さんと……)

 紙袋を持っているのは、小百合だ。
 もうひとりの女性は、花束のせいで顔が見えない。だから最初は小百合が誰と話しているのかわからなかった。
 でも相手が小百合に詰め寄り、抱えている花の角度が変わったことでその顔が見えた。
 その姿に香苗は息を呑む。

(彩子さん)

「母親面して私に命令するのやめてくれるっ!」
「そうじゃなくて、病室に花の持ち込みは禁止されているのよ」
「はぁ? そんなことどうでもいいし。このくらいインパクトある見舞い持っていかないとパパの気を引けないじゃない」

 宏の入院以降、一度も姿を見ていなかった彩子が、退院目前となって見舞いに訪れたようだ。
 そんな彼女が花束を持って病院に入ろうとしていたところを、小百合が止めたようだ。
 ここまで一緒に来たのであれば、花を買う前に小百合が止めていただろうから、病院の前で偶然鉢合わせしたのだろう。
 先日宏と話した後で拓也に確認したところ、ふじき総合病院でも病室への花の持ち込みは禁止されてもらっているとのことだった。
 だから小百合は正しいことを言っているのだけど、彩子がその忠告に耳を傾ける様子はない。

「あなたが勝手にパパを入院させたせいで、こっちはお小遣いもらえなくて迷惑してるんだからね。しかも拓也の病院に入院させて、彼を利用して、自分に都合の良い遺言書を書かせてパパを殺すつもりなんでしょっ!」
「そんなっ!」

 彩子の身勝手な言葉に、小百合が絶句する。
 あの状況で救急搬送された宏をそのまま入院させるのは、当然の処置だ。
 倒れた際、ふじき総合病院に搬送されたのは、その場に拓也がいたことが関係しているのかもしれないけど、医療設備が整っているここに搬送してもらえたのはとてもラッキーなことなのに。
 宏が倒れた当初こそ取り乱していた小百合も、その後はできる限りのことをして、地元と病院を行き来しながら彼の世話を焼いている。
 その甲斐甲斐しい姿は遺産目当とは思えないし、宏が倒れた後、小百合が何度電話をしてもそれを無視した彩子になにか言う権利はないはずだ。
 なにより拓也は、そんな悪事に荷担するような人じゃない。

「拓也さんのお母さんの言っていることは本当です」

 自分が口を挟むことで小百合の立場を悪くしてはいけないと思い、すぐには口を挟めずにいたけど、さすがにこれ以上は黙っていられない。
 香苗が声を掛けると、小百合と彩子が同時にこちらを見た。

「香苗さん」
「拓也さんのお母さんが話されているとおり、この病院は花の持ち込みをお断りしています」

 まずはそこからと思い、香苗が言う。
 その間、彩子は、驚き顔で小百合と香苗を交互に見比べていた。
 そして憎々しげに奥歯を噛みしめて、小百合を叱る。

「さっさとこの女と拓也を別れさせてって命令したでしょっ!」

(命令……)

 義理とは言え、娘が母親に使うべき言葉じゃない。
 それだけでも、普段のふたりの力関係が見えてくる。
 しかも今の言い方から察するに、彩子は、今回も香苗と拓也を別れさせるために小百合になにか命令をしていたようだ。

(拓也さんのお母さんには、なにも言われていない)

 宏の入院以降、彼女とは何度か顔を合わしているけど、過去の嘘を謝られたことはあっても、拓也と別れろと言われたことは一度もない。
 彩子にそんな命令をされているとさえ、話していない。
 そうやって小百合は小百合なりに、過去の過ちを悔いて、自分たちのために戦っていてくれたんだ。
 そう思うと、胸が熱くなる。

「彩子さんがなにを言っても、私は拓也さんと別れる気はありません」

 キッパリとした香苗の言葉に、彩子が目をつり上げる。

「この疫病神が何様のつもり? アンタのせいで、拓也は陸上が出来なくなったし、パパも倒れたんじゃないのっ!」
「彩子さん、それは違うわ。拓也のケガは学校の管理責任だし、あの人が倒れたのは、何日も前から症状が出ていたのに受診させなかった私の責任よ」
「はぁ? アンタ、どっちの味方よっ!」

 小百合が香苗を庇ったのが面白くなかったのだろう。
 彩子は目尻を吊り上げて、手にしていた花束を高く持ち上げて小百合をそれでぶとうとした。

「おばさんっ!」

 香苗は咄嗟に小百合に駆け寄り、彼女を庇おうとした。
 でもその時、「彩子、いい加減にしろっ!」と、鋭い一喝が飛んできて、彼女の動きが止まる。
 声のした方を見ると、拓也に支えられてこちらへと歩いてくる宏の姿があった。

「拓也、パパ」
「拓也、あなた」

 彩子と小百合が口々に言う。
 念のために拓也が付き添ってはいるが、宏の足取りはかなりしっかりしている。

「騒ぎを聞きつけたスタッフが、母の顔を知っていたから俺に教えてくれたんだ」

 ここにいる理由を話す拓也は、私服に着替えているので、勤務を終え宏の病室で、香苗と小百合の到着を待っていたとのことだ。
 宏は香苗たちの前に立つと、彩子をにらんで言う。

「なんの騒ぎだ」

 咎めるような口調で宏が彩子に問う。
 入院生活で少々面やつれをしているが、その眼光にはさすがは企業のトップを務める者といった威厳に満ちている。
 宏の眼差しに気負けして、彩子は一度は身を小さくした。でもすぐに持ち前の我の強さを取り戻し、小百合を指さして言う。

「この女が、私がパパのお見舞いの邪魔をするの。それにパパがこうなったのは自分のせいだって、自白したわ」

 難事件の真犯人を見付けた刑事よろしく彩子が言う。
 彼女の言葉に真実なんて一つもないのだけど、宏は、今度は小百合に鋭いし線を向ける。

「小百合、お前は、私がこうなったのは自分のせいだと考えているのか?」

 宏の言葉に小百合はコクリと頷く。

「一緒に暮らしていて、倒れる数日前からあなたの体調がおかしいことに気付いていたのに、医者嫌いのあなたに怒られるのが怖くて、病院受診を勧めませんでした。食事も、もっと気をつけていればこんなことには……」

 後悔を滲ませる小百合の言葉に、彩子が得意気な顔をする。
 確かに宏は緩やかな心筋梗塞の自覚症状が出ていたので、早目の受診をしていれば、出先で倒れるようなことはなかった。
 でもそれは小百合が悪いわけではない。……と、言ってしまうのは簡単だけど、香苗には、人間の気持ちがそんなふうに簡単に割り切れるものではないということがわかっている。
 相手を大事に思っているからこそ、“あの時自分がああしていれば……”といった後悔が、どうしてもついて回るのだ。
 それは一つの愛情表現だから、香苗には彼女の言葉をすぐに否定してあげることができない。
 その隙に、宏が「そうか、わかった」と顎を引く。

「本気でそう思っているのなら、これを機にウチから出ていってくれ」

 続く宏の言葉に、彩子以外、その場にいる皆が息を呑んだ。彩子ひとりが意地悪く笑う中、宏の言葉が続く。

「お前が私の健康に気遣ってくれているのに、聞く耳を持たなかったのはこちらだ。それなのにそんな罪悪感を抱いて生きる必要はない。暮らしに困らないだけの生活費は送るから、後は彩子に任せて自分のために時間を使ってくれ」

 その言葉に、彩子が「えっ!」という顔をする。

「ちょ、ちょっと、どうして娘の私が、パパの世話をしなきゃいけないのよ」
「もちろん家を出て行くならそれで構わん。お前もいい年なんだから、自分の稼ぎだけで生活していけばいい」
「え、仕送りは? その女には、仕送りをするのに?」
「これまでお前が、私のためになにをしてくれた? 離婚で寂しい思いをさせたと思うから、甘やかしてきたが、お前と同世代の拓也君やその奥さんの働く姿を見ていて、私は自分の間違いに気付いた。家にいたいのならそれでも構わんが、これまでのような暮らしが出来るとは思うなよ」

 その言葉に彩子が香苗を睨む。
 だけど宏に「彩子っ」と、叱責され視線をそらした。

「いいわよ。出て行くわよ!」

 癇癪を起こしているような声でそう言うと、彩子は花束を地面に叩き付けて、その場を去って行く。

「彩子さんっ」
「追いかけなくていい」

 小百合が慌ててその背中を追いかけようとするけど、宏がそれを引き止めた。そして自分の方に来るよう声をかける。
 彩子が立ち去った方を気にしつつ、小百合が宏の前に立つと、彼はガバリと頭を下げた。

「今まで悪かった」
「あなた……」

 これまで宏にそんなことされたことがなかったのだろう。
 小百合は口元を手で隠して、目を丸くしている。
 顔を上げた宏は、心からの後悔を滲ませた表情で言う。

「これまでだって、お前は私の病気を気遣った食事の準備をしてくれていたのに、私はお前の気遣いを大袈裟だと言って、真剣に取り合ってこなかった。その結果がこのざまだ」

 申し訳ないと宏はまた頭を下げる。
 そして拓也と香苗にも、それぞれ頭を下げた。

「あなた、顔を上げてください。拓也も香苗さんも困ってるわ」

 小百合に腕をさすられ、宏は今にも泣き出しそうな表情で顔を上げる。

「さっき言ったとおり、こんな愚かな人間のために、これ以上お前の時間を費やす必要はない」

 宏の言葉に、小百合はそんなことはないと首を横に振る。

「でしたら、家を出る代わりに、これからは食事のお世話など、もう少し私の意見を聞いてくださいな。その方が、私もうれしいです」

 小百合の言葉に、宏が鼻をぐすりとさせる。
 何処か遠くの方で救急車のサイレンの音が聞こえた。
 その音にいち早く気付いた拓也が、彩花が捨てていった花束を拾い上げて三人に声をかける。

「ここにいると、救急搬送迷惑になるので、中に入りましょう」

 言われて、香苗が救急外来の搬入口に近いことを思い出す。
 そして拓也と共に、宏と彼に寄り添って歩く小百合に続いて病棟に入っていった。
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