冷酷元カレ救急医は契約婚という名の激愛で囲い込む

水守清彦(みずもり きよひこ)さん、三十五歳の男性。先日都内でバイクの単独事故を起こし救急搬送。そのまま緊急オペ。左足を骨折の他、複数の裂傷と打撲痕がありICUに入っていましたが、術後のバイタルも安定したためこちらの外科病棟に移動となりました」

 ナースステーションで、日勤からの引き継ぎを受ける香苗は、必要な情報のメモを取る。
 神奈川県に建つこの遠鐘病院は、急性心筋梗塞や多発外傷など二次救急で対応できない複数診療科領域の重篤な患者に対し高度な医療を提供する三次救急医療機関である。
 外科病棟に勤める香苗は直接的な関わりはないが、災害時の緊急派遣に備えてDRATも抱えており、医療スタッフが充実している。
 都心に近いこともあり、都内では対応仕きれなかった救急搬送の患者を受け入れることも多いため常に忙しくその分活気に溢れている。
 一通りの申し送りを終えたタイミングでナースコールが入り、そのまま対応にむかう。
 内容としては外科手術を受けたばかりの患者からの痛みの訴えだった。
 主治医からアセリオ100mg/100mlを十五分投与するよう指示を受けているが、それでも痛みが強いとのことだ。
 宿直医にその旨伝えた上で指示を仰ぎ、対応した香苗は、ナースステーションに戻ると、電子カルテにその経緯を書き込んでいく。
 香苗がパソコンを操作していると、肩に大きな手が触れた。

「これ702号室の神村さんのカルテ?」

 そう言いながら、肩越しに身を乗り出してきた男性が、画面と香苗を見比べる。
 髪に緩いパーマをかけ、ほどよく日焼けした健康的な肌色をしている彼は、この病院に勤務する赤塚明夫(あかつか あきお)医師だ。
 どことなくキザな雰囲気があって香苗は苦手なのだけど、独身医師という肩書きのためか、患者や女性看護師の人気が高い。
 香苗はさりげなく肩を動かして彼との距離を取る。

「手術痕が痛むとのことで、鎮痛剤の量を増やしました」

 宿直医でない彼がどうしてこの場にいるのだろうかと思いつつ、香苗は簡潔に説明をする。

「神村さん、かなり痛むみたいで辛そうでした」

 先ほどの様子を思い出し、香苗はなんとはなしに言う。

「炎症期だ、傷むのが当然だろ。いちいち騒がなくてもいいのに」

 赤塚はモニターに視線を向けて呟く。
 確かに術後数日は、傷口の再上皮化による腫れや痛みが生じる。
 それは術後通常の反応で、医療に携わる者からすれば特別視するようなことではないだろう。
 それでもどこかあきれたように話す赤塚の物言いに香苗は内心眉根を寄せた。

「どう辛いのか、言葉で伝えていただけると、対応しやすいので助かります」

 苦しむ人に寄り添うために医療はあるのだから、無理してひとりで堪える必要はない。
 香苗の心からの言葉に、赤塚がスルリと自分の意見を変える。

「確かにそのとおりだ。九重さんは、患者ひとりひとりの心に寄り添える優しい人で、いつも感心させられるよ」

 スタイリッシュな見た目をした赤塚は、院内での立ち回りもうまく、自分より権力のある者とは決して意見を対立させない。
 そんな彼が、香苗の意見をあっさり受け入れるは、香苗の背後ある権力を見据えてのことだ。
 そのことを煩わしく思っていると、赤塚が言う。

「ところで九重さん、先日の学会で君のお父上が以前かかれた論文が取り上げられていて、是非ご本人の意見を聞ければと思ったのだけど、もし近くお父様に会われる予定があるのなら……」

 面倒な話の流れに香苗が静かに身構えた時、明るい女性の声が割って入ってきた。

「九重さん、患者さんの体位変換手伝ってもらっていい?」

 見ると、ナースステーションの出入り口に同僚看護師の有村千春(ありむら ちはる)が立っている。
 体位変換とは、自力で寝返りを打てない患者や、身動きが不十分な人が同じ姿勢を取り続けることで褥瘡をつくらないよう、定期定期に体勢を変える行為だ。
 本来一人で対応することの多い作業だけど、患者の体格や身体の状況によっては複数人で介助する場合もある。

「今行きます」

 ちょうどカルテの入力が終わったところなので、香苗はマウスを数回クリックすると素早く立ち上がり、千春の後に続いてナースステーションを出た。

「ごめん。助かった」

 廊下に出た香苗はお礼を言う。
 すると千春は、軽く肩をすくめた。

「モテる女は大変ね」
「そんなじゃないってことは知ってるくせに」

 香苗が軽く睨むと、千春はニシャリと笑う。
 香苗は、看護大学卒業後二年ほど実家である静岡県にある九重総合医療センターで勤務した後、この病院に転職してきたが、千春は卒業後そのままこの病院に就職している。
 そのためこの病院の勤続年数としては、香苗の先輩にあたるのだが、同い年ということもあり、気兼ねない距離感での付き合いをさせてもらっている。

「赤塚先生が私を誘うのは、私の父との繋がりがほしいからだけよ」

 香苗の事情を知っている千春に今さら言う必要もないのだけど、つい愚痴をこぼしてしまう。
 さっきの赤塚ほど露骨ではないが、香苗の気を引こうとアプローチしてくる医師は他にもいる。というのも、香苗の父が九重総合医療センターという地域医療の要と言われている病院の院長を勤めているからだ。
 九重総合医療センター院長の一人娘である香苗と結婚すれば、自分が次の院長に……、そこまでいかなくとも、学会でも顔のきく九重院長に気に入られて損をすることはないと考えているのだろう。
 そんな下心が見え隠れする人にしつこくされて、日々辟易しているので愚痴らずにはいられない。
 看護大学を卒業した際、香苗は最初九重総合医療センターに就職したのだが、どうしても周囲が特別扱いしてしまうので両親の反対を押し切って、地元を離れてこの病院に転職したのだ。
 それでもどうしても、赤塚のような人が出てくるので困る。

「確かに赤塚先生は下心見え見えだけど、九重さんは、普通に可愛いからモテるっていうのもあると思うよ」
「そんなことないよ」

 香苗は肩をすくめて、宵闇に染まった窓ガラスに写る自分の姿を確認する。
 スッキリした卵形の輪郭に、小ぶりな鼻にハッキリとした二重の目。ガラスに反射する姿では確認しにくいが、仕事中はヘアクリップでひとまとめにしているセミロングの髪は、生まれつき色素が薄くダークブラウンをしている。
 二十七歳という実年齢より若く見られがちなその顔は、“愛嬌がある”とか“親しみを持ちやすい”という言葉がしっくりくだけで、モテ要素のようなものはない。
 少なくとも、香苗本人はそう考えている。

「九重さん、恋人とかいないの? ていうか、家が家だから、お見合いの話しとかくるんじゃないの?」
「まさか」

 香苗は小さく笑う。
 確かに香苗の父である九重哲司は、九重総合医療センターの後継者になるような男性を娘婿に迎えたいと考えているようだ。
 そのため香苗に見合い話を持ってくることもあるが、香苗は結婚も恋愛もするつもりのないので、そういった話を全て断っている。

「どうせなら、医療系の道に進まない方が楽だったんじゃないの」

 千春の意見には一理ある。
 おそらくその方が、気楽だっただろう。

「そうかもしれないけど、中学生の時のある事故をきっかけに、看護師になろうって決めていたから」
「事故?」

 千春はその先を聞きたそうにしていたけど、ちょうど目的の病室に到着したので、話はそこまでとなった。
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