月とスッポン      ありのままは難しい

新撰組っていうには

予想外の渋滞に遭うものの、上映時間を配慮したかのように、次のSAに到着すれば映画のエンドロールが流れ始める。

「お疲れ様でした」
と体を伸ばし、一休みして、
さぁ、出発だ。

と本線に入れば、やっぱり大河の独演会が始まった。


「幕末といえば、やはり近藤勇をはじめとした『新撰組』と西郷隆盛の『維新志士』ですね。

和宮の降嫁により朝廷の権威を借りる形になった幕府は、その実現に困難を極めていた鎖国攘夷を、いよいよ実行しなければならなくなり、朝廷側から求められていた鎖国攘夷について回答するため、徳川家茂は孝明天皇と京都まで上洛し、話し合いをすることになります。
しかし、当時の京都の治安は『京都所司代』と『町奉行』だけでは対応ができないほど、悪化していました。この上洛による将軍警護のための庄内藩の清河八郎の献策によって江戸幕府によって結成されたのが『浪士組』です。
その浪士組を、この警護に応募したのが、近藤勇、土方歳三、沖田総司をはじめとした新宿区市谷にあった天然理心流の道場『試衛館』の8人でした。

そして、京都に到着した浪士組を新徳寺に集め、演説を行います。その内容は、幕府のために集められた浪士組を天皇のための武力として使うという、浪士たちにとっては驚くべきものでした。
これに反発した芹沢鴨や近藤勇、土方歳三ら13名は浪士組と決別。

彼らは京都の警備を担当する幕府の役職である京都守護職を務める、会津藩を頼りました。
会津藩では彼らの身柄を預かり、現在の京都市中京区にあった壬生村に宿所を用意して、治安維持活動に従事させます。
宿所の地名から『壬生浪士組』と呼ばれたこの一団が、新選組の前身です。

その後、壬生浪士組の中心メンバーである、近藤勇と土方歳三、芹沢鴨が隊士募集を行ない、隊士36人あまりの集団へと成長します。
隊士が増えたこともあり、『京都守護職』を担う会津藩藩主 松平容保の庇護のもと、京都の市中警護や不逞浪士の取り締まりを任せて貰うことになりました。そして松平容保から、壬生浪士組を改め、『新選組』という名前を与えられました。

新撰組の名が一気に広がったのは、やはり池田屋事件でしょう。

1864年、京都では長州藩や土佐藩出身の浪士たちが集まり、不穏な動きをしていました。彼らは御所に放火して市中を混乱させ、その隙に幕府要人を暗殺して天皇を拉致する計画をたてます。
市中見廻りによって計画を察知した新選組は、池田屋が浪士の潜伏場所であることを突き止め、奇襲をかけます。激しい乱闘の末に、浪士10人が命を落とし、23人が捕縛されたといわれています。
暗殺のターゲットには、後に15代将軍となる一橋慶喜が含まれていたため、新選組は幕府からも高く評価されます。京都の街を火災から救ったことで、市民の間でも一躍人気者となります。


文久3年3月、新選組の前身、壬生浪士組は試衛館の近藤勇派と水戸藩の芹沢鴨派の2グループの24人で発足でしたので、結束も固く、規律を文章化する必要もありませんでした。
言わなくてもわかると言ったところでしょうか?
しかし、1864年 元治元年6月の池田屋事件の直前、隊士の脱走が問題になり、そして池田屋事件直後、全国をスカウト行脚した結果、200人を超す大所帯になります。
 それだけの大所帯となれば、池田屋事件前の相次ぐ脱走を教訓に明文化した規律がなければ組織は成り立たなくなります。

新選組の『局中法度』は、組織の規律を保つために近藤勇や土方歳三らが作成したとされる5箇条の規則です。内容は「士道に背くこと」「局を脱すること」「勝手に金策をすること」「勝手に訴訟を取り扱うこと」「私的な闘争をすること」の5つで、違反者には切腹が命じられました。

それも定かではありませんが
新選組が結成して以来、鳥羽・伏見の戦い以前の5年間で出した死亡者は45人で、うち戦いで死亡したのは6人のみ。ほとんどが内部抗争の果ての切り合いか法令違反で切腹した事は確かなようです。

新選組の禁令は鉄の規律といわれながら、生死の裁量は近藤や土方らに任せられていたという、あいまいなものだったそうです。
それでも新選組が、浪士集団から正式の軍隊へ変わったとき、隊の進むべき指針を示すものとしては十分で、組織を運用させるためには目標達成機能と組織維持機能のバランスをってこそ成り立ていたと思われます。
しかも新選組の場合は近藤や土方の指導力があって初めて機能するが、数百人もの闘う集団を維持していくためには規律は必要だし、近藤や土方を絶対視させるためにも強硬な裁量も仕方なかったかと。

ただ組織も成熟してくれば自然と隊士にも裁量や自由の欲求も出てくるもので、こうなると近藤らの裁量は隊士にとって窮屈なものとなり、邪魔以外の何ものでもなくなり、これまで切腹一辺倒だった裁量も状況に応じて変化しなければ、組織は自然と崩れます。

激動の時代に近藤や土方などのカリスマが引っ張ってくれる新撰組はさぞ魅力的なだったに違いありません。
しかし、それだけでは維持できないのが組織です。
組織を運営する頭脳の持ち主は、激動の時代の流れを読む事が出来ても、新撰組と共に朽ちる勇気はなかった。

だからこそ、1868年 慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦い前後に大量の脱走者が出ます。

すでに大政奉還を終え、新しい時代に突入している事は誰もが承知だったに違いありません。

徳川慶喜が大政奉還に踏み切ったのは、朝廷が樹立する新政府の首班に据えられる可能性が高いと踏んでのことでしたが、再び徳川氏が政権の中心を担う状況は避けたい武力倒幕派と対立し、それがやがて鳥羽・伏見の戦いに戊辰戦争へと発展していきます。

戊辰戦争の初戦となった争いです。
新選組は旧幕府軍の一部隊として、戦いに参加しています。しかし新政府軍が掲げた『錦の御旗』の前に、旧幕府軍は大敗を喫します。
錦の御旗とは、天皇が朝敵と戦う軍に与える印のことで、旗を掲げられた相手は、天皇に刃を向ける逆賊とされました。
逆賊とされた事で一気に士気が下がったのが大きな敗因とされています。
自分たちが正義だと信じていた彼らにとって、それだけ衝撃的な事だったのでしょう。

その後、いろいろあったのですが、割愛させて頂いて

新選組は、『甲陽鎮撫隊』と名を改め、甲州、現在の山梨県で新政府軍と再戦します。しかし劣勢は覆らず、近藤勇は下総国流山で新政府軍に捕らえられ、処刑されてしまいました。
間もなく沖田総司が亡くなり、残った隊士も散り散りとなります。

行き場のない武士たちのために北海道を開拓し、『蝦夷共和国』を樹立しようとしていた榎本武揚と合流し、函館を拠点に新政府軍と戦うことを選択しました。そして迎えるのが新選組最後の戦い、箱館戦争です。
戊辰戦争の最後の戦いであり、旧幕府軍と新政府軍が函館・五稜郭で戦い、この戦いで、新選組副長の土方歳三が戦死しました。
それにより、幕府のために働いた新選組は、完全に姿を消す事になります。

一方で
尊皇攘夷は、尊王とは天皇をうたな敬う事を指し、外敵を撃ちはらうこと意味する攘夷が合わさった、幕末に広まった政治運動のスローガンです。ペリー来航をきっかけに高まった対外的な不安や江戸幕府への不満から、「天皇を政治の中心に据え、外国人を排斥するべきだ」という思想が結びつき、幕府の体制を批判する運動に発展しました。

尊王攘夷運動の中心人物は、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎こと木戸孝允。それから坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通、藤田東湖、会沢正志斎など多岐にわたります。
彼らは長州藩や薩摩藩など各藩の志士や、水戸学の思想家、さらには天皇自身も含まれていました。

倒幕派は幕府を倒して天皇に政権を返すことを目指した勢力で、佐幕派は幕府の存続を支持し、幕府を補佐しようとした勢力です。
幕末の動乱において、これらの勢力は対立し、最終的に倒幕派が明治維新を成し遂げ、新政府が樹立されました。

特に『維新の三傑』と呼ばれる西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允は、この運動を主導した中心人物とされています

西郷隆盛は江戸幕府を倒して新政府を作るための中心的な役割を果たし、特に坂本龍馬の仲介で成立した薩長同盟や、勝海舟との交渉による江戸城無血開城は有名です。維新後は新政府で活躍しました。

明治時代初期に、日本が武力を用いて朝鮮に開国を迫ろうとした外交政策を巡る一連の議論と、それに伴って起きた政変を指します。単なる外交問題ではなく、当時の日本が抱えていた内政問題や国際情勢が複雑に絡み合った、重要な政治論争でした。

その対立が激化したのが1877年 明治10年に、西郷隆盛を擁する旧薩摩藩の不平士族が、明治新政府に対して起こした日本最後の内戦『西南戦争』です。
この戦いは、明治維新後の近代化政策に不満を募らせた士族たちの、最後の抵抗でした。
最後の戦いである西南戦争で敗れて自害しています。

大久保利通は西郷隆盛らと共に薩長同盟を締結し、倒幕運動を推進しました。

明治維新を主導して新政府を樹立し、版籍奉還や廃藩置県といった中央集権化のための改革を断行しました。初代内務卿として実権を握り、地租改正や殖産興業を推進して日本の近代化に大きく貢献しましたが、不満を持つ士族の反発を招き、1878年 明治11年に紀尾井坂で不平士族によって暗殺されました。

桂小五郎こと木戸孝允は、幕末に長州藩の志士として討幕運動を主導し、明治維新後は新しい国家の基礎を築いた政治家です。
具体的には、明治維新三傑の一人として、薩長同盟の締結に尽力したほか、新政府では五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などの近代化政策を推進しました。

晩年の木戸は、長年の心労と病気に苦しんでいました。明治維新後、彼は政府の要職を歴任しましたが、大久保利通との意見対立や政策の重圧により、精神的にも肉体的にも消耗していました。
特に1876年以降、彼の体調は急激に悪化し、慢性的な腹痛や消化器系の問題に悩まされるようになります。そして、最期の数ヶ月間はほとんど動くことができず、京都の宿舎で寝たきりの状態でした。
死因は胃がんや大腸がんの肝臓転移とされていますが、当時の医療では正確な診断は難しく、複数の説が存在しています。
いずれにせよ、彼の最期は長い闘病生活の果てに訪れたものでした。
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