凍った花がとけるとき

5.近づく距離

 数日後、副社長に頼まれて予定を調整したところに入れた講演会が開催された。先方の会社の若手社員に、一時間程度を使って簡単な講演をしてほしいという依頼だった。依頼された講演は、参加する20代から30代のこれから管理職を目指す社員に、その心構えを解く、というテーマだった。
 個人的に副社長がどんな話をするのか気になって、同伴を希望した。
 普段は食堂として使われているというホール。まるで古いホテルの宴会場のような、少しだけ高くなった檀のうえに立った副社長が、澱みなく喋り続ける。配布したのは簡単な紙資料だけ。あとは話術でその場にいるひとたちを虜にする姿を見ながら、副社長の普段の行動に裏打ちされたような内容に感動していると、講演会はすぐに終わってしまった。
 その後副社長は、瞬く間に聴講していた社員たちに囲まれて、追加の質問攻めにあっている。最後に質疑応答の時間を設けたけれど、とても足りなかったのだ。熱心なこちらの若手社員に感動すると同時に、いつもこうして、人の心を奪ってしまう副社長を誇りに思う。
 時間にはまだゆとりがあるので、取り囲まれている様子を微笑ましく見守っていると、すっと隣に男性が近寄ってきた。
 わたしの頭がその人の肩あたりに触れそうになって、慌てて避ける。その瞬間、ふわっと漂った香りに覚えがあった。反射的に顔を見上げて、思わず息を呑んだ。

「誠治――」

 そこにはいたのは、別れて以来、一度も会うことなく過ごしてきた元婚約者だった。

「やっぱり紗央里だった。どうしたの、こんなところで」

 何の躊躇いもなく話しかけられて、戸惑う。

「仕事で……そっちこそ」
「俺はこの会社に転職して。普通に参加してた」

 なんという偶然だろう。前の職場には極力関わらないようにしていたけれど、まさか誠治も辞めていたとは思わなかった。

「俺、ずっと紗央里に会いたかった。謝りたかったし。せっかく会えたから、どこかで話せないかな」
 
 かけられた言葉に、呆然とする。
 一体どの口が言っているんだろう。
 拒否反応だろうか、聞こえているはずなのに、誠治の言葉はまるで私の頭に入ってこない。
 脳の上っ面を滑っていくような、どこか霞がかった感覚に、意識が遠のいていきそうになる。
 ぼんやり聞き流していたせいか、誠治の手がわたしの肩を掴んだ。視界の隅を通った左手薬指に、指輪はなかった。
 好きなひと、とやらとは上手くいかなかったのだろうか。まるで陳腐な恋愛ドラマだな、と思っていると、

「すみません、私の部下がなにか?」

 鋭い声が響いて、副社長がさっとわたしを引き寄せた。
 どきりと胸が高鳴る。誠治の腕から離してくれたのだ、と気づいたのはその後だった。

 誠治の目が驚きに見開かれている。
 しかしすぐ我に返ったのか、わたしと副社長を交互に見ると、口を開こうとする。

「真瀬さん……! すみません、こいつとは前にーー」
「副社長! 車を回して参りますので、少々お待ちいただけますか」

 誠治の言葉を遮ると、副社長はいつもの表向きの笑みを浮かべた。

「ありがとう。そろそろ行かないとね」

 そう言って、一緒に出口へと向かってくれる。
 ほっと息を吐いた背中に、「紗央里! あとで連絡するから!」と呪いのような声がかけられて、自分の身体が大きく震えてしまったのがわかった。


「……大丈夫?」

 無意識のうちにいつもより大股で歩いていたからだろうか、気遣わしげな声が降ってきて、

「申し訳ありません、仕事中に……」
「そんなことはいいの。あんまり聞きたくないけど、もし何か困ったことがあったらちゃんと言ってね」
「はい、ありがとうございます」

 副社長はそっとわたしの肩を守るように、駐車場へと向かってくれた。それだけでほっとする。
 誠治に触れそうになったときは、あんなに嫌悪感を覚えたのに。
 思いもよらない再会だったから驚いてしまったけれど、次からは動揺したりしない。

 というか、もう会うことはない。

 そう思っていたけれど、誠治の行動はわたしの予想を超えていた。

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