凍った花がとけるとき
先日のお見合い以来、副社長は時々ご実家である社長宅で食事をしているらしい。お見合いを断った手前、親からの誘いを断りにくいそうだ。面倒そうにしていたけれど、仲の良い家族だなあと微笑ましく思いながら、今日も社長宅に呼ばれている、とぼやきつつ出て行く副社長を見送って会社を出た。
おかしいと思ったのは、会社の最寄である地下鉄の駅に入ろうとした瞬間だった。舐めつけるような視線を感じて振り返ると、そこに誠治が立っていた。
薄白い顔が暗がりに浮かんでいるように見えて、思わず短い悲鳴が漏れる。
「やっと気づいた」
そう言って笑う誠治はどこか不気味な表情をしていて、身の毛もよだつような恐怖を感じた。
ぞわりと足元にまとわりつくような不快感に、降りかけた階段を戻った。
待ち伏せていたのだろうか。しかし会社の場所は調べられても、出勤経路まではわからないはず。このまま家まで着いてこられたら危険だ、と直感が囁いた。
「どうしたの……?」
「いや、会社の前で待ってたんだよ。紗央里、全然気づかないんだもん」
つまりつけてきたってことでしょ、と言いそうになって口を噤む。どくどくと心臓の鼓動が速まっていく。
会社まで戻って、建物の中に逃げ込むことはできるだろうか。入り口で社員証をかざさなければならないので、そこで追いつかれるような気もする。警備員はいるけれど、大事にはしたくない。
なによりこの通りはオフィス街で、人通りはあるもののみんな他人に興味なんて示していない。せめて交番のある、もう一本向こうの大通りまで出なければ、と一歩を踏み出した。
「あれ、帰らないの?」
「うん、寄りたかったお店があったの、思い出したから」
「へえ。着いていこうか?」
「ううん、大丈夫。でも何か用だったんだよね? 歩きながら聞くのでもいい?」
誠治は全く瞬きをしない。瞳孔が開き切ったような目が怖い。
不自然にならないように、大通りへ足を向ける。
少しだけ後ろをついてくるのが恐ろしい。
カバンの中をごそごそと漁って、スマホを取り出す。出てきたのはプライベートのスマホだった。社用携帯が良かったけど、仕方ない。暗記している番号を打ち込んで、通話ボタンは押さないでおく。
「紗央里に会いたかった。やっぱり俺には紗央里しかいないって、気づいたんだ」
「……そう」
「あんなふうに傷つけたのに申し訳ないっていう気持ちはあるんだけど、でもやっぱり紗央里以上の人はいないよ。見た目も、俺のことを大事にしてくれるところも、思いやりがあって、」
誠治の言葉は全然頭に入ってこなかった。まるで誦じて歌うように語る様子が、まっとうじゃないと感じさせられる。
まるでぱんぱんに膨らんだ風船のような。
ひとつ応対を間違えたら、その一瞬の刺激ですべてが破裂してしまいそうで、恐怖に駆られる。
誠治の手が伸びてきて、わたしの頬を撫でようとした。近づく腕が怖い。身体が竦みそうだったけれど、なんとか避ける。
角を曲がって大通りに出た瞬間、地面を蹴って駆け出した。
ヒールなので走りづらい。数軒先の三階立てのスーパーに飛び込んで、通話ボタンを押した。
おかしいと思ったのは、会社の最寄である地下鉄の駅に入ろうとした瞬間だった。舐めつけるような視線を感じて振り返ると、そこに誠治が立っていた。
薄白い顔が暗がりに浮かんでいるように見えて、思わず短い悲鳴が漏れる。
「やっと気づいた」
そう言って笑う誠治はどこか不気味な表情をしていて、身の毛もよだつような恐怖を感じた。
ぞわりと足元にまとわりつくような不快感に、降りかけた階段を戻った。
待ち伏せていたのだろうか。しかし会社の場所は調べられても、出勤経路まではわからないはず。このまま家まで着いてこられたら危険だ、と直感が囁いた。
「どうしたの……?」
「いや、会社の前で待ってたんだよ。紗央里、全然気づかないんだもん」
つまりつけてきたってことでしょ、と言いそうになって口を噤む。どくどくと心臓の鼓動が速まっていく。
会社まで戻って、建物の中に逃げ込むことはできるだろうか。入り口で社員証をかざさなければならないので、そこで追いつかれるような気もする。警備員はいるけれど、大事にはしたくない。
なによりこの通りはオフィス街で、人通りはあるもののみんな他人に興味なんて示していない。せめて交番のある、もう一本向こうの大通りまで出なければ、と一歩を踏み出した。
「あれ、帰らないの?」
「うん、寄りたかったお店があったの、思い出したから」
「へえ。着いていこうか?」
「ううん、大丈夫。でも何か用だったんだよね? 歩きながら聞くのでもいい?」
誠治は全く瞬きをしない。瞳孔が開き切ったような目が怖い。
不自然にならないように、大通りへ足を向ける。
少しだけ後ろをついてくるのが恐ろしい。
カバンの中をごそごそと漁って、スマホを取り出す。出てきたのはプライベートのスマホだった。社用携帯が良かったけど、仕方ない。暗記している番号を打ち込んで、通話ボタンは押さないでおく。
「紗央里に会いたかった。やっぱり俺には紗央里しかいないって、気づいたんだ」
「……そう」
「あんなふうに傷つけたのに申し訳ないっていう気持ちはあるんだけど、でもやっぱり紗央里以上の人はいないよ。見た目も、俺のことを大事にしてくれるところも、思いやりがあって、」
誠治の言葉は全然頭に入ってこなかった。まるで誦じて歌うように語る様子が、まっとうじゃないと感じさせられる。
まるでぱんぱんに膨らんだ風船のような。
ひとつ応対を間違えたら、その一瞬の刺激ですべてが破裂してしまいそうで、恐怖に駆られる。
誠治の手が伸びてきて、わたしの頬を撫でようとした。近づく腕が怖い。身体が竦みそうだったけれど、なんとか避ける。
角を曲がって大通りに出た瞬間、地面を蹴って駆け出した。
ヒールなので走りづらい。数軒先の三階立てのスーパーに飛び込んで、通話ボタンを押した。