凍った花がとけるとき

8.そばにいたい

「絶対に副社長のことなんて好きになりません!」

 あんな失礼なことを叫んでまだ二ヶ月も経っていないのに、結局副社長に惹かれてしまっている。
 しかも家に押しかけてお世話になっている。たまに食べる、休日の食事の材料費くらいしかお金も払っていないまま。

 誰とも付き合いたくない気持ちは変わらないけれど、ただこうして好意を利用しているだけの自分は、一番卑怯で汚い。

 
 朝食を食べながら「年末年始はどうする?」と聞かれてしまった。確かに、もうクリスマスも目前。真瀬は12月28日まで勤務日で、29日以降は年末年始休業に入る。
 婚約破棄になって以来、実家に帰ったことはないけれど、副社長はご実家の予定もあるだろう。まさか家だけ貸してくださいとは言いづらい。
 けれど実家に帰る気もない。年末年始の数日だけ、家から一歩も出なければ、アパートに帰っても大丈夫だろうか。別に誠治に家がバレているわけではない。
 ただ副社長は心配するだろう。実家に帰りますと嘘を吐いて、実際はアパートで過ごすのも気が引ける。
 一体どうしたものかと、八方塞がりだった。


 副社長はあの日以来、全く近づいてこない。半径2メートル以内に近寄らないと決めたんだろうか、というくらい、普段働いている時でさえ、距離を取るようになった。
 まさか、こちらがまた触れてほしいと思っているなんて。そんな不埒なことを考えているとは、思っていないだろう。
 つまり、わたしから気持ちを伝えなければ永遠にこのまま。いつか副社長に別の相手ができるまで、片想いを続けるかどうかという選択は、わたし自身の手の中にある。
 いつか離れなければいけなくなるまで、それまででもいいから一緒にいたいと思ってしまっているのも事実だった。
 婚約破棄になり、あんなに苦しんだのにどうして、またひとを好きになってしまうんだろう。
 

 副社長が外出したあとのデスクを覗く。コーヒーのマグカップは綺麗に空になっていた。わたしが片付けるまでもなく整ったデスクだけど、埃がないように時々拭き上げる。コースターには小さなシミがあったけれど、拭いたらすぐに落ちた。
 以前は副社長が出勤してくる前にデスクや部屋を掃除していたけれど、今は一緒に通勤しているから難しい。だから副社長が出かけた隙に片付ける。もっとも床は業者が掃除してくれているので、大した手間はかからない。
 こうやって、副社長の過ごす空間に、少しでも自分の手を入れられることを嬉しいと思ってしまっている。
 気持ちを自覚して、そんな自分の思考をごまかせなくなった。

 その後、事務作業をしていると社用携帯にメールが届いた。急遽お客様と食事をしてくることになった、という報告だった。
 一人では会社から出ないように、と書かれていて、今日も副社長に心配をかけていることを実感する。お昼は社食にいくので外には出ません、と返事をした。

 昼休みになって実際に社食に向かうと、窓際の席に帆足くんの姿が見えた。
 ランチセットを持って隣にトレイを置くと、がばっと驚いたように見上げられる。

「どうしたの……?」
「いや、久しぶりだからびっくりして」
「ここ、いい?」
「もちろん」

 そう言って微笑んでくれる姿にほっとした。
 帆足くんはもう食べ終わったらしく、コーヒーを飲みながら本を開いていた。
 わたしが今読んでいる本の著者と同じだった。

「三崎さんは? 今何か読んでる?」と聞かれて、持ち歩いていた本を取り出す。

 帆足くんはぺらぺらと捲って、「へー、すごい」と呟いた。

「何が?」
「え、めっちゃ読み込んでるじゃん。ラインも引いてるし」

 差し出されたページには、確かにマーカーが引かれていた。

「あ、ほんとだ」
「三崎さんが書き込んだんじゃないの」
「その本、実は副社長からお借りしていて……」
「えっ」

 帆足くんが驚いたように本とわたしを見比べている。

「だからまだ全然読んでないの……」
「そうなんだ。でもさすが副社長、めっちゃポイントに線引いてるし、書き込みもしてるし」
「へえ。今まで借りた本ではそんなに書き込みなかったけど、どうしてだろう」
「そうなんだ。ちょっと古いからかな」
「そうなの?」
「と言っても4、5年前に出たやつ」

 と言って帆足くんはぱらぱらとページを捲る。奥付けまで辿り着くと、

「ほら、2018年だって」
「へえ」

 副社長が海外にいた頃に読んだ本なんだろうか。
 海外にいた頃は別の業種だったはずだけれど、いつか実家に戻るときのことを考えて勉強していたのかもしれない。
 帆足くんは本を置くと、「副社長の本とか、気軽に触れないから返す」と言って笑った。

「そっか、でも副社長に本借りられるんなら、オレが出る幕もないかな」
「そんなことないよ。説明だってめちゃくちゃわかりやすかったし。感謝してます」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど。でも、三崎さんは本当に副社長と付き合ってないの?」
「えっ」
「何度も聞いて悪いんだけど、俺、あの人がそんなに人に親切にしてるところ見たことないっていうか。もちろん誰にでも優しいし親切だけど、三崎さんに対してはどこか特別だなって思ってて。もちろん秘書だから特別に信頼してるんだろうけど、でもそれ以上っていうか」
「……どう、かな」

 もう、特別な思いは消えてしまったかもしれない。

「悔しいけどすっごくお似合いだなあって思ってるし。でももし……副社長とそういう関係じゃないんだったら、俺もチャンスが欲しい」
「えっ」

 それってーーと言いかけて、わたしを見下ろす瞳にいつもと違う色を感じ取って口を噤んだ。
 まさか、という思いにまわりのざわめきが遠のいていく。

「改めて言うけど、ちょっとは意識してほしいなって」

 そう言うと、お先と帆足くんは珍しく先に席を立った。
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