凍った花がとけるとき
翌日。朝から副社長の機嫌がよろしくない。例の会議のせいだろうか、と思いながら会議室に向かう副社長を見送り、自分の仕事をこなしていく。
会議は午前いっぱいかかったうえに、まともな休憩も取れぬまま来客が続き、夕方戻ってきた副社長の機嫌はいっそう悪くなっていた。
「お疲れさまでした。一点スケジュールの確認を宜しいでしょうか」
怯んではいられないので、手帳を片手に近づくと、資料を胡乱げにデスクに置いた副社長が顔を上げる。
「こちら、土曜日に視察を入れてよろしいでしょうか」
また別の資料を手渡しながらそう尋ねると、副社長の眉間にいっそう皺が寄った。
「ああ、ごめん。これ日曜日にしてもらっていい?」
さきほど確認した限り、土曜日のスケジュールは空いていたはずだけれど。
そう言われれば従うのみなのだが、珍しいなと思いながら頷く。
するとさらに珍しいことに、副社長が重いため息を吐いた。
どうしたのだろうか、声をかけようかと思った瞬間、部屋のドアがノックされた。
やってきたのは、北條秘書室長。まるでデジャヴだな、と考えていると、「副社長、本日もご両親が実家でお待ちですので……」と遠慮がちに、でも有無を言わせぬ声で北條さんが言う。
「わかってる。昨日きちんと話したはずだけど?」
「社長は、副社長がお約束を忘れたふりをされるのではないかと、懸念されているようです」
「ちゃんと帰るよ。面倒ごとはさっさと片付けたいから」
副社長はそう言うと、まるで追いやるように北條さんに退出を促した。
「三崎さんも、今日は早めに上がってね。いつも残業させちゃってるし。俺も今日は定時で実家に向かうから」
「はい、ではそうさせていただきます」
それでは先に片付けてしまおうと、空になっていた副社長のカップを手に執務室を出た。給湯室に向かう道すがら、これまた珍しく秘書室のお姉様方三人に囲まれる。
「三崎さん、誰が相手か知ってるんでしょう?」
「聞いてるんでしょ、贈り物とか用意したことないの」
「二人仲が良いと思っていたけれど、やっぱりそれはただの信頼関係だったのね」
「いろいろと疑ってごめんなさい」
矢継ぎ早に言葉を投げかけられて、全く話が読めない。無言で目を瞬かせていると、お姉様方が「まさか……」と顔を顰めた。
「三崎さん、知らないの? 副社長のお見合い」
ガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。
え? と呟いたつもりだったが、声にはならず口だけがぽかんと開いてしまう。
そのせいか、一瞬でカラカラに喉が渇いて、目の前が暗くなりかける。
「わたしは、プライベートなことは全然……」
なんとか言葉を絞り出したものの、存じ上げません、と最後まで言えたかどうか、覚えていなかった。
どきどきと心臓が早鐘のように鳴っている。
愛想笑いを浮かべて、給湯室へ急いだ。背後から、哀れみの視線が向けられているような気がしたが、確認することはできなかった。
震える指先でカップを洗ったけれど、それでも動悸が収まらない。そのまま手を冷たい水に浸して、考えた。
副社長がお見合いをする。考えてみたら当たり前のことだ。適齢期の御曹司。相応しい相手と結婚するのは当然。なのに、どうしてこんなにショックを受けているのだろう。
もうしばらく恋愛は御免だと思っていたはずだ。副社長のことを恋愛的に好きとか嫌いとか、そんな目で見たことはない。
ただ、信頼されていることは感じていた。他のひとには見せない素顔も、ちょっと疲れたらその様子も、隠さずに見せてくれる。
それは、わたしだけに許されている特権だと思っていた。もちろん、秘書として、だけれど。それでも、他のひとよりは近い距離にいさせてもらえているのだと。
だから、特別な相手がいる、という事実に動揺してしまった。
考えてみれば、なんと図々しい話だろう。あれだけ魅力的なひとに、恋人がいないほうがおかしいのだから。
これまで副社長のスケジュールは常にオープンにされていて、土日だろうがどこに予定を入れようがわたし次第だった。
もちろん、意向は訊ねるけれど、わたしが「ここはどうですか?」と聞いた日でNGが出ることはなかった。副社長は会社のことを一番に考えていて、仕事の予定のあとにプライベートの予定を入れていたからだ。少しくらい気遣ってスケジューリングすべきだったな、と反省する。
それに今まで、打ち合わせでもないのに夕飯をご馳走になったり、外出帰りに社用車で送ってもらったこともあった。「会食に使いたいから下見をしておきたい」という理由はあったものの、これからは控えた方がよいかもしれない。奥様、となる方は良い思いをしないだろう。
今まで恵まれすぎた待遇だったのだから、出過ぎた真似をしないように気をつけなければ、と心に決めて給湯室を出た。
会議は午前いっぱいかかったうえに、まともな休憩も取れぬまま来客が続き、夕方戻ってきた副社長の機嫌はいっそう悪くなっていた。
「お疲れさまでした。一点スケジュールの確認を宜しいでしょうか」
怯んではいられないので、手帳を片手に近づくと、資料を胡乱げにデスクに置いた副社長が顔を上げる。
「こちら、土曜日に視察を入れてよろしいでしょうか」
また別の資料を手渡しながらそう尋ねると、副社長の眉間にいっそう皺が寄った。
「ああ、ごめん。これ日曜日にしてもらっていい?」
さきほど確認した限り、土曜日のスケジュールは空いていたはずだけれど。
そう言われれば従うのみなのだが、珍しいなと思いながら頷く。
するとさらに珍しいことに、副社長が重いため息を吐いた。
どうしたのだろうか、声をかけようかと思った瞬間、部屋のドアがノックされた。
やってきたのは、北條秘書室長。まるでデジャヴだな、と考えていると、「副社長、本日もご両親が実家でお待ちですので……」と遠慮がちに、でも有無を言わせぬ声で北條さんが言う。
「わかってる。昨日きちんと話したはずだけど?」
「社長は、副社長がお約束を忘れたふりをされるのではないかと、懸念されているようです」
「ちゃんと帰るよ。面倒ごとはさっさと片付けたいから」
副社長はそう言うと、まるで追いやるように北條さんに退出を促した。
「三崎さんも、今日は早めに上がってね。いつも残業させちゃってるし。俺も今日は定時で実家に向かうから」
「はい、ではそうさせていただきます」
それでは先に片付けてしまおうと、空になっていた副社長のカップを手に執務室を出た。給湯室に向かう道すがら、これまた珍しく秘書室のお姉様方三人に囲まれる。
「三崎さん、誰が相手か知ってるんでしょう?」
「聞いてるんでしょ、贈り物とか用意したことないの」
「二人仲が良いと思っていたけれど、やっぱりそれはただの信頼関係だったのね」
「いろいろと疑ってごめんなさい」
矢継ぎ早に言葉を投げかけられて、全く話が読めない。無言で目を瞬かせていると、お姉様方が「まさか……」と顔を顰めた。
「三崎さん、知らないの? 副社長のお見合い」
ガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。
え? と呟いたつもりだったが、声にはならず口だけがぽかんと開いてしまう。
そのせいか、一瞬でカラカラに喉が渇いて、目の前が暗くなりかける。
「わたしは、プライベートなことは全然……」
なんとか言葉を絞り出したものの、存じ上げません、と最後まで言えたかどうか、覚えていなかった。
どきどきと心臓が早鐘のように鳴っている。
愛想笑いを浮かべて、給湯室へ急いだ。背後から、哀れみの視線が向けられているような気がしたが、確認することはできなかった。
震える指先でカップを洗ったけれど、それでも動悸が収まらない。そのまま手を冷たい水に浸して、考えた。
副社長がお見合いをする。考えてみたら当たり前のことだ。適齢期の御曹司。相応しい相手と結婚するのは当然。なのに、どうしてこんなにショックを受けているのだろう。
もうしばらく恋愛は御免だと思っていたはずだ。副社長のことを恋愛的に好きとか嫌いとか、そんな目で見たことはない。
ただ、信頼されていることは感じていた。他のひとには見せない素顔も、ちょっと疲れたらその様子も、隠さずに見せてくれる。
それは、わたしだけに許されている特権だと思っていた。もちろん、秘書として、だけれど。それでも、他のひとよりは近い距離にいさせてもらえているのだと。
だから、特別な相手がいる、という事実に動揺してしまった。
考えてみれば、なんと図々しい話だろう。あれだけ魅力的なひとに、恋人がいないほうがおかしいのだから。
これまで副社長のスケジュールは常にオープンにされていて、土日だろうがどこに予定を入れようがわたし次第だった。
もちろん、意向は訊ねるけれど、わたしが「ここはどうですか?」と聞いた日でNGが出ることはなかった。副社長は会社のことを一番に考えていて、仕事の予定のあとにプライベートの予定を入れていたからだ。少しくらい気遣ってスケジューリングすべきだったな、と反省する。
それに今まで、打ち合わせでもないのに夕飯をご馳走になったり、外出帰りに社用車で送ってもらったこともあった。「会食に使いたいから下見をしておきたい」という理由はあったものの、これからは控えた方がよいかもしれない。奥様、となる方は良い思いをしないだろう。
今まで恵まれすぎた待遇だったのだから、出過ぎた真似をしないように気をつけなければ、と心に決めて給湯室を出た。