凍った花がとけるとき
休み明け、副社長のお見合いの噂は、瞬く間に広まっていた。どこでもその話題で持ちきりで、社内で知らないひとはいないのではないか、というほど耳にした。
そしてそれから数日の間に、秘書室のお姉様方からの情報ををはじめ、耳に飛び込んでくる噂を聞いた限り、お相手は某代理店のお嬢様だそうだ。
なぜこんなに詳しくなってしまったかというと、副社長と過ごす時間を業務以外極力減らそうと、お昼を社食で取るようにしたからだった。
これまで副社長は、自分の昼食と一緒にわたしの分もデリバリーを頼んでくれたり、ランチミーティングといって社外に連れ出してくれていたので、社食にはほとんど来たことがなかった。社屋の最上階にある社食は、明るくて綺麗で安くて美味しくて、活用しないことが申し訳ないくらい、恵まれた環境だった。すっかり気に入ってしまい、ランチのあとコーヒーを飲みながらちょっと休憩をして、執務室に戻るようにしていた。
「三崎さん、今日もここいい?」
窓際のカウンター席に座っていると、もうお馴染みとなった営業部の帆足くんがトレイを片手に立っている。
「もちろん、どうぞ」
そう言って隣の椅子を引くと、帆足くんは「ありがとう」と爽やかな笑みを浮かべた。
営業部のエースと呼ばれる帆足拓実くんは、全体的に色素が薄く線の細い男性だけれど、その人当たりの良さを活かしているのか、ダントツの営業成績を残しているらしい。新卒で入社したから社歴的にはだいぶ先輩なのだけれど、わたしが同い年だと知ると同期会にも誘ってくれたし、何かと気にかけてくれる恩人だ。出会ったばかりの頃、遠慮がちに「帆足さん」と呼んでいたら、「他人行儀すぎ。なんなら拓実、で良いくらいだよ」と言ってくれて、それ以来すっかり甘えて仲良くしてもらっている。
帆足くんは人の噂話で盛り上がるタイプじゃないし、なんなら食べるときはほとんど喋らない。社食を使うようになると、他部署の知らない社員から「副社長のお見合いってどうなんですか?」などという下世話な質問をされることが多く、さすがにそろそろうんざりしていたから、帆足くんが一緒にいてくれるととても助かる。
しかも帆足くんは、食べ方がとても綺麗だ。
まじまじと見ることもできないので、ちらりと視線を走らせると、今日も帆足くんは箸を器用につかって定食の焼き魚を食べている。
「三崎さん、どうかした……?」
「え、ごめん。なんでもない」
少しだけ見たつもりだったのに、気づかれてしまったらしい。
「別に謝らないでいいんだけど」
「いやほんとごめん。食べてるのに」
「大丈夫。だけど、照れる」
そう言って目を伏せる帆足くんの顔が少し赤くなっていて、見たことない様子にこちらまで恥ずかしくなってしまう。
それから食べ終わった帆足くんと、お互いオフィスに戻るまでコーヒーを片手に会話を交わした。入社してすぐに営業部に配属されたという帆足くんは、業界の知識も、わたしなんかとは比べ物にならないくらい豊富だ。
今日も拙いわたしの質問に答えてくれて、本まで貸してくれるという。
「持ってくるから、明日の昼またここでいい?」
「もちろん! ほんと助かる」
「三崎さんは勉強熱心だね。同期も転職しちゃったり、結婚して辞めたひとも多いし、同い歳で刺激もらえる人が来てくれると思ってなかったから、嬉しい」
「いや、わたしなんて全然。もっと出来るようにならないと」
「……そういえば今度さ、」
帆足くんがそう言いながら頬に指を当てるのを見ていると、いつも穏やかな社食がざわつき始める。
二人で顔を見合わせて入口に視線を向けると、そこには副社長が立っていた。
「え……?」
今日は社長と食事って聞いていたけれど。
慌てて立ち上がるのと同時に、副社長と目が合った。
まわりの社員が当然のように副社長を避ける。そのおかげで、まるでモーセの十戒かのごとく道ができて、副社長はあっという間にわたしの目の前にやってきた。
「三崎さん、この後の資料が見当たらないんだけど、どこかな」
一見優しそうな笑顔を浮かべているけれど、苛立っているのが伝わってきた。
「デスクの上ですが、すぐに戻ります」
「いいよ、食べてからで」
「いえ。もう食べ終わっていますので」
そう言って下げるためにコーヒーカップを掴もうとすると、横から出てきた手がすっと攫っていく。
「いいよ、一緒に戻しておくから」
「帆足くん、ありがとう」
「ううん。また明日ね」
ごめん、と小さく手を合わせて、お言葉に甘えさせてもらう。
とっくに踵を返している副社長の後を追いかけた。
そしてそれから数日の間に、秘書室のお姉様方からの情報ををはじめ、耳に飛び込んでくる噂を聞いた限り、お相手は某代理店のお嬢様だそうだ。
なぜこんなに詳しくなってしまったかというと、副社長と過ごす時間を業務以外極力減らそうと、お昼を社食で取るようにしたからだった。
これまで副社長は、自分の昼食と一緒にわたしの分もデリバリーを頼んでくれたり、ランチミーティングといって社外に連れ出してくれていたので、社食にはほとんど来たことがなかった。社屋の最上階にある社食は、明るくて綺麗で安くて美味しくて、活用しないことが申し訳ないくらい、恵まれた環境だった。すっかり気に入ってしまい、ランチのあとコーヒーを飲みながらちょっと休憩をして、執務室に戻るようにしていた。
「三崎さん、今日もここいい?」
窓際のカウンター席に座っていると、もうお馴染みとなった営業部の帆足くんがトレイを片手に立っている。
「もちろん、どうぞ」
そう言って隣の椅子を引くと、帆足くんは「ありがとう」と爽やかな笑みを浮かべた。
営業部のエースと呼ばれる帆足拓実くんは、全体的に色素が薄く線の細い男性だけれど、その人当たりの良さを活かしているのか、ダントツの営業成績を残しているらしい。新卒で入社したから社歴的にはだいぶ先輩なのだけれど、わたしが同い年だと知ると同期会にも誘ってくれたし、何かと気にかけてくれる恩人だ。出会ったばかりの頃、遠慮がちに「帆足さん」と呼んでいたら、「他人行儀すぎ。なんなら拓実、で良いくらいだよ」と言ってくれて、それ以来すっかり甘えて仲良くしてもらっている。
帆足くんは人の噂話で盛り上がるタイプじゃないし、なんなら食べるときはほとんど喋らない。社食を使うようになると、他部署の知らない社員から「副社長のお見合いってどうなんですか?」などという下世話な質問をされることが多く、さすがにそろそろうんざりしていたから、帆足くんが一緒にいてくれるととても助かる。
しかも帆足くんは、食べ方がとても綺麗だ。
まじまじと見ることもできないので、ちらりと視線を走らせると、今日も帆足くんは箸を器用につかって定食の焼き魚を食べている。
「三崎さん、どうかした……?」
「え、ごめん。なんでもない」
少しだけ見たつもりだったのに、気づかれてしまったらしい。
「別に謝らないでいいんだけど」
「いやほんとごめん。食べてるのに」
「大丈夫。だけど、照れる」
そう言って目を伏せる帆足くんの顔が少し赤くなっていて、見たことない様子にこちらまで恥ずかしくなってしまう。
それから食べ終わった帆足くんと、お互いオフィスに戻るまでコーヒーを片手に会話を交わした。入社してすぐに営業部に配属されたという帆足くんは、業界の知識も、わたしなんかとは比べ物にならないくらい豊富だ。
今日も拙いわたしの質問に答えてくれて、本まで貸してくれるという。
「持ってくるから、明日の昼またここでいい?」
「もちろん! ほんと助かる」
「三崎さんは勉強熱心だね。同期も転職しちゃったり、結婚して辞めたひとも多いし、同い歳で刺激もらえる人が来てくれると思ってなかったから、嬉しい」
「いや、わたしなんて全然。もっと出来るようにならないと」
「……そういえば今度さ、」
帆足くんがそう言いながら頬に指を当てるのを見ていると、いつも穏やかな社食がざわつき始める。
二人で顔を見合わせて入口に視線を向けると、そこには副社長が立っていた。
「え……?」
今日は社長と食事って聞いていたけれど。
慌てて立ち上がるのと同時に、副社長と目が合った。
まわりの社員が当然のように副社長を避ける。そのおかげで、まるでモーセの十戒かのごとく道ができて、副社長はあっという間にわたしの目の前にやってきた。
「三崎さん、この後の資料が見当たらないんだけど、どこかな」
一見優しそうな笑顔を浮かべているけれど、苛立っているのが伝わってきた。
「デスクの上ですが、すぐに戻ります」
「いいよ、食べてからで」
「いえ。もう食べ終わっていますので」
そう言って下げるためにコーヒーカップを掴もうとすると、横から出てきた手がすっと攫っていく。
「いいよ、一緒に戻しておくから」
「帆足くん、ありがとう」
「ううん。また明日ね」
ごめん、と小さく手を合わせて、お言葉に甘えさせてもらう。
とっくに踵を返している副社長の後を追いかけた。