凍った花がとけるとき

 なんとか追いついて執務室に戻ると、応接セットのテーブルに見慣れた資料が置いてある。

「え、副社長……?」
「なに?」
「あの、資料はこちらに……」
「うん、知ってる。嘘だから」

 あっさりとそう言われて、頭の中が真っ白になった。

「え、嘘……?」
「うん、ここに資料ある」
「……なんでそんな嘘吐くんですか!」

 副社長相手に思わず声を荒げてしまったことを、後悔する間もなく。
 資料を確認しようと伸ばした手を掴まれた。

「三崎さん、最近おかしいよね?」
「え……?」
「ごまかしても無駄だよ」
「お、おかしくないです……」

 しどろもどろになってしまうのは、手を掴んだ副社長がじっとこちらを見下ろしてくるからだ。
 やっぱり、異様に近い距離で。

「おかしいよ。昼休みになるとすぐいなくなっちゃうし、扉だって閉めっぱなしにするし」
「それは……あんまり馴れ馴れしくしないよう、態度を改めようと思っただけ、で」
「どうして」
「どうしてって……副社長はご結婚されるわけですし、分を弁えた行動をとるようにしようと」

 だからこの手を早く離してほしい。
 そう言うと、副社長は、心底ーー本当に心からうんざりしたようなため息を吐いた。

「俺、結婚しないよ?」
「……はい?」
「噂が広まっているのは知ってる。でも俺は結婚しない。だから三崎さんに誤解してほしくない」
「誤解というか、そう聞いただけで……」
「でも俺からは言ってない」

 怒っている。
 初めて聞く感情を抑えた、けれど隠しきれない怒りを含んだ声に背筋が凍った。
 確かに、副社長から直接結婚の報告を受けたわけじゃない。
 私が勝手に思い込んだだけだ。それも社内の噂を真に受けて。
 噂に振り回された秘書なんて、首かもしれない。
 そう思うと、恐怖がひたひたと襲ってくる。

「申し訳、ありません」

 突然謝ったわたしに呆れたのか、副社長は再びため息を吐いた。

「で、しかも。俺が結婚するからって、同期とつき合うの?」

 一瞬、副社長の言っていることが本気でわからなかった。

「同期……って帆足くんですか? まさか」
「まさかっていう感じじゃなかったけど」
「そんなこと考えてもいません」
「へえ。まあいいけど。珍しいね。三崎さんが確認もせずに思い込むなんて」
「それは……」

 確かに副社長は結婚しない。今回は。
 でも、いずれ相応しい相手を奥様に迎えることは、変わらない。

「ですが、やはりおかしいと思います。その、あんなに日常的にご馳走になったり……」

 近づいたり、という言葉を言いかけて口籠った。自意識過剰なんじゃないかという不安もあった。
 言い淀んだことに気づいたのか、

「それは、三崎さんだから、特別だよ」

 そう言って、副社長は掴んだままの手首をくいっと引っ張った。予想外の行動に、抗うことはできなかった。すぽんと、まるでそこにあるべきもののように、わたしの身体は副社長の胸に収まった。そのまま背中に腕がまわされる。
 何が起きているのかわからない。慌てて、ありったけの力を込めてその胸を押し返す。
 力強い腕も、体もびくともしなくて焦る。
 ひゅっと喉が鳴ったからか、こちらの様子を窺おうとした副社長の力が弱まった瞬間に、全力で腕のなかから抜け出した。
 呆然と副社長をみつめる。でも、副社長も目を見開いてこちらを見ていた。目が合う。その瞬間、副社長は目もとを緩めた。

「好きだよ、きみが」

 理解が追いつかないわたしを逃さないように、副社長の口が言葉を紡いだ。

「三崎さんとしか結婚するつもり、ないから。だから早く俺を好きになって」

 頭のなかが真っ白になった。ドッキリ? 揶揄ってる? そう思うのに、こちらをみつめる副社長の瞳はかつてないほど真剣で。
 しかも。

「ていうかさ、俺が結婚するからってそんなに考えてくれるってことは……。三崎さん、俺のこと好き?」

 告げられた言葉に、どきりと胸が鳴った。そんなわけ、ない。
 でも鼓動はどんどん速くなって、収まる気配がない。
 だから、思わず言ってしまった。

「わたしは、絶対に副社長のことを好きにはなりません……!!」
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