君の心に触れる時
妊娠生活も順調に進み、春香はついに臨月を迎えた。お腹の中の赤ちゃんは元気で、日に日にその存在感が大きくなっていくのを感じていた。
蓮は診察の合間を縫って春香のために家事を手伝い、二人で名前を考えるのが日課になっていた。

「女の子なら…咲良(さくら)ってどう?」

春香が微笑みながら提案すると、蓮は「いい名前だな。お前みたいに、強くて優しい子になるといいな。」と頷いた。

しかし、そんな穏やかな日々の中でも、蓮はどこか落ち着かない様子を見せることがあった。春香の体への負担や、心臓の状態がいつ悪化するか分からないという不安が彼の胸の奥に潜んでいた。



その朝、蓮を見送った後、食卓の上に置き忘れられたファイルに気づく。

「これ…蓮が使うんじゃないかな…」

ふと手に取ったファイルには、患者の記録や手術のスケジュールが書かれていた。

「届けてあげた方がいいよね…」

お腹をさすりながら、彼女は少しでも蓮の役に立ちたいという気持ちで支度を始めた。


病院への道のりは決して遠くなかったが、春香は途中で急に胸に違和感を覚えた。
軽い痛みが徐々に強くなり、呼吸が浅くなるのを感じる。

「大丈夫…あと少しで病院だから…」

汗を拭いながら無理に歩を進めるが、鼓動が耳元で響き、息苦しさが増していく。

ついに足を止め、街路樹に手をついて立ち止まった。視界が揺れ、頭がぼんやりとしていく。震える手でスマートフォンを取り出し、蓮に電話をかけた。

「お願い…出て…」

電話はコール音が鳴るだけで、蓮が出る気配はない。春香の心臓の鼓動が次第に不規則になり、手が力を失いスマートフォンを落としてしまう。

「蓮…助けて…」

その場に膝をつき、ついには地面に倒れ込んだ。視界が暗くなり、遠くで人々の声が聞こえるが、もう何も反応することができなかった。
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