秘密のカーテンコール〜人気舞台俳優の溺愛〜
4.ありえない代役
父と叔父の職場でもある稽古場に顔を出してから、二週間ほど経っていた。
今週からバイトの陸くんが戻ってきたので、しばらくはウェルメイドに顔を出す予定もない。
仕事に行き、帰ったらご飯を作って食べる。休日はたまった家事を片付けて、本を読んだり美術展に出かけて過ごした。
当たり前の穏やかな毎日。
父は週一回の稽古休み以外は、毎日日付が変わる頃に帰ってくるので、ほとんど顔を合わせることもなかった。
だんだん暖かくなってきて、洋服も春物の出番が増えてきたころ。
いつもの通り、会社に向かうと朝からオフィス内が騒がしかった。
始業には十分ゆとりをもって出勤したのに、デスクのパソコンはほとんど起動しているし、コピー機も慌ただしく何やら用紙を吐き出している。
電話に出ていた営業の男性社員に事情を聞こうとしたが、むしろ通話中から私が視界に入っていたらしく、受話器を置くと同時に話しかけられた。
「東雲さん、ごめん。撮影が前倒しになってさ、現場パニクってるから行ってくれる? 途中でケータリング揃えて」
差し出されたメモに目を走らせると買い物リストだった。
場所は隣駅から徒歩圏内の撮影スタジオだった。確か近くに24時間営業のスーパーがあったはず。
買い物は向こうでしようと、脱いだばかりの上着を羽織っていると、ぽつりと呟く声が聞こえた。
「柊木さんもツイてないよなあ。うちでの一発目の仕事なのに」
聞こえてくる会話をはっきりと耳が捉えてしまい、思わず足を止めた。
「どういうことですか?」
「いや、スケジュール直前で変更になったんだって。むこうの都合で」
「え……?」
どうやら昼からだった撮影の前倒しを頼まれたらしい。もちろんこちらも可能だと思って了承したわけだけど、社内の連絡が上手く行き渡らなかった部署があり、今の大混乱が起きているようだ。
でも、連絡ミスを起こしたのはこちらの方だ。それでOKしたのだから、「急な変更だったから」なんて言い訳は通用しない。
とはいえ、まだ関係性が出来てないタレントであり事務所。もし関係が悪化すれば、今回限りで今後の契約には繋がらないかもしれない。
ふいに先日の本読みでの歌声が過った。
台本に目を落とす真剣な横顔と、彼が第一声を発したとたんぴりりと震えた稽古場の空気も。
ぎゅっと拳を握ると会社を飛び出す。
とにかく、私にできることをやらなくては。
撮影はとあるハウススタジオで行われることになっていた。リビングとキッチンが撮影スペースだ。
空き部屋でケータリングを整えていると、外がにわかに騒がしい。
廊下へ顔を覗かせると、マネージャーさんに連れられて柊木さんが入ってきたところだった。
会社の先輩の先導によってメイクルームに案内される姿を眺めてみる。柊木さんは、まわりのスタッフに目線を配りながら明るく挨拶をしている。
ふいにその瞳がこちらをむいて、ばちりと目が合った。
柊木さんの目が大きく見開かれて、足が止まる。
ほんの一瞬のはずなのに、何故だか時が止まったように感じた。
柊木さんの目尻がわずかに下がって、どきりと胸が高鳴る。けれど声を掛けようかと思ったときには、すでに目の前を通り過ぎていた。
「やっぱり格好良いわよね」
「背たかーい!」
最初は一般知名度の高くない柊木さんを起用することに反対意見もあったようだけれど、実際に打ち合わせやリハーサルを重ねる上で魅力が伝わっていったらしい。
女性スタッフがこそこそと、でもテンション高く話しているのを聞いて、何故だか自慢したい気持ちになった。
――そう、読み稽古ですら彼にはあんなにオーラがある。
思わずほうっと息を吐いてしまって、我に返る。いけない、準備の続きをしなくては。
元々アシスタントを務めていた女性社員が、連絡ミスによるアクシデント対応に翻走しているらしく、私はその代打で呼ばれたのだった。
急遽必要になったものを買いにいったり、人手が足りない衣装さんのお手伝いでアイロンをかけたり、お弁当を買いにいったり。要は何でも屋だ。
私がばたばたと走り回っている間に、柊木さんはメイクを終え、衣装を着てセットの中でカメラに向かっていた。
家電のフォト撮影なので、いわゆる家事もできる旦那さん、というイメージで微笑んでいるショットが多い。
「柊木さん、すごいナチュラルですね」
「ていうかカメラ慣れしてないなんて嘘じゃないですか」
カメラマンと担当の先輩が驚きながらも喜んでいる。
「緊張はしてますけど…。でもフォトだからかもです。チラシ撮影はいつもしますし。動画だと多分もっとひどいですよ」
柊木さんはそう謙遜しているけれど、手元のスケジュールを巻いているくらいだから、実際に上手くいっているのだろう。
最初は時間変更に眉をしかめていた先輩も、今では心の底から機嫌が良さそうだった。
テスト、本番を繰り返しながらも撮影は順調に進み、いったん昼休憩を挟むことになり、柊木さんは控え室に戻っていく。
「東雲、ちょっと」
「はい?」
「こっち来てくれる? あ、弁当ひとつ持ってきて」
控え室から出てきた先輩に呼ばれて、首を傾げた。
柊木さんのお弁当は室内に用意しているから問題ないはずだけど。
言われた通り、お弁当とお茶を一つずつ持って控え室を覗く。
と、先輩に室内に押し込まれた。
「柊木さんが一緒に食べようって」
「……はい?」
衣装が汚れないようにだろう、上着を羽織った柊木さんがテーブルから手を振っている。
仕方なく目の前まで進むと、部屋に引っ張り込んだ張本人である先輩とすれ違った。
「え?」
「俺、この後の打ち合わせあるから、頼む!」
そう言い残し、あっさりと扉は閉まってしまう。
「座ったら?」
躊躇う私に柊木さんは言い募る。
「キャストのご機嫌を取るのも仕事のうちでしょ」
「……自分の立場を利用した発言、スタッフに嫌われますよ」
言い返しながらも向かいに座ると、柊木さんはけらけらと笑っている。
「ごめん。まさか柚さんがいると思わなかったから、嬉しくて」
「……そうですか」
視線を合わせないようにして、膝の上でお弁当の蓋を開ける。
本日の主役である柊木さんが言うのだから、私に逃げる術はないのだ。
「慣れない現場で知ってる人に会えたらホッとすると思わない?」
「知ってるって程でもないと思いますけど」
「でもほら、僕の好きなオムレツの入ったお弁当を選んでくれてるし」
柊木さんはそう言って、嬉しそうにお箸を割る。
好みを知っていてくれてるんだから、十分知人でしょう、と微笑まれてじんわり頬が熱くなった。
確かにお弁当は柊木さんのことを思って選んだけれど。あっさり見透かされたようで。
「この前途中で帰っちゃったから。気に入らなかったかなって」
「そんなことないですよ。流石だなと思いました。歌も、お芝居も」
「良かった。柚さんにそう言ってもらえると安心する」
「私、ただの素人なんですけど」
「だからかな」
思わず柊木さんを見つめると、やっとこっち見た、と満足げに笑われた。
「普通の感覚が一番知りたいから」
その一言に、ああ、この人は地に足がついた人なんだな、と思う。観客にどう思われているのか、フラットな目線を大事にするひとだ。
柊木さんの撮影の感想を聞きながら、二人でお弁当を食べた。あまりにちらちら見てくるから、オムレツは半分譲ってあげた。
柊木さんは元々自分のお弁当に入っていたものにはケチャップを、私があげた方にはソースをかけて、美味しそうに食べていた。
今週からバイトの陸くんが戻ってきたので、しばらくはウェルメイドに顔を出す予定もない。
仕事に行き、帰ったらご飯を作って食べる。休日はたまった家事を片付けて、本を読んだり美術展に出かけて過ごした。
当たり前の穏やかな毎日。
父は週一回の稽古休み以外は、毎日日付が変わる頃に帰ってくるので、ほとんど顔を合わせることもなかった。
だんだん暖かくなってきて、洋服も春物の出番が増えてきたころ。
いつもの通り、会社に向かうと朝からオフィス内が騒がしかった。
始業には十分ゆとりをもって出勤したのに、デスクのパソコンはほとんど起動しているし、コピー機も慌ただしく何やら用紙を吐き出している。
電話に出ていた営業の男性社員に事情を聞こうとしたが、むしろ通話中から私が視界に入っていたらしく、受話器を置くと同時に話しかけられた。
「東雲さん、ごめん。撮影が前倒しになってさ、現場パニクってるから行ってくれる? 途中でケータリング揃えて」
差し出されたメモに目を走らせると買い物リストだった。
場所は隣駅から徒歩圏内の撮影スタジオだった。確か近くに24時間営業のスーパーがあったはず。
買い物は向こうでしようと、脱いだばかりの上着を羽織っていると、ぽつりと呟く声が聞こえた。
「柊木さんもツイてないよなあ。うちでの一発目の仕事なのに」
聞こえてくる会話をはっきりと耳が捉えてしまい、思わず足を止めた。
「どういうことですか?」
「いや、スケジュール直前で変更になったんだって。むこうの都合で」
「え……?」
どうやら昼からだった撮影の前倒しを頼まれたらしい。もちろんこちらも可能だと思って了承したわけだけど、社内の連絡が上手く行き渡らなかった部署があり、今の大混乱が起きているようだ。
でも、連絡ミスを起こしたのはこちらの方だ。それでOKしたのだから、「急な変更だったから」なんて言い訳は通用しない。
とはいえ、まだ関係性が出来てないタレントであり事務所。もし関係が悪化すれば、今回限りで今後の契約には繋がらないかもしれない。
ふいに先日の本読みでの歌声が過った。
台本に目を落とす真剣な横顔と、彼が第一声を発したとたんぴりりと震えた稽古場の空気も。
ぎゅっと拳を握ると会社を飛び出す。
とにかく、私にできることをやらなくては。
撮影はとあるハウススタジオで行われることになっていた。リビングとキッチンが撮影スペースだ。
空き部屋でケータリングを整えていると、外がにわかに騒がしい。
廊下へ顔を覗かせると、マネージャーさんに連れられて柊木さんが入ってきたところだった。
会社の先輩の先導によってメイクルームに案内される姿を眺めてみる。柊木さんは、まわりのスタッフに目線を配りながら明るく挨拶をしている。
ふいにその瞳がこちらをむいて、ばちりと目が合った。
柊木さんの目が大きく見開かれて、足が止まる。
ほんの一瞬のはずなのに、何故だか時が止まったように感じた。
柊木さんの目尻がわずかに下がって、どきりと胸が高鳴る。けれど声を掛けようかと思ったときには、すでに目の前を通り過ぎていた。
「やっぱり格好良いわよね」
「背たかーい!」
最初は一般知名度の高くない柊木さんを起用することに反対意見もあったようだけれど、実際に打ち合わせやリハーサルを重ねる上で魅力が伝わっていったらしい。
女性スタッフがこそこそと、でもテンション高く話しているのを聞いて、何故だか自慢したい気持ちになった。
――そう、読み稽古ですら彼にはあんなにオーラがある。
思わずほうっと息を吐いてしまって、我に返る。いけない、準備の続きをしなくては。
元々アシスタントを務めていた女性社員が、連絡ミスによるアクシデント対応に翻走しているらしく、私はその代打で呼ばれたのだった。
急遽必要になったものを買いにいったり、人手が足りない衣装さんのお手伝いでアイロンをかけたり、お弁当を買いにいったり。要は何でも屋だ。
私がばたばたと走り回っている間に、柊木さんはメイクを終え、衣装を着てセットの中でカメラに向かっていた。
家電のフォト撮影なので、いわゆる家事もできる旦那さん、というイメージで微笑んでいるショットが多い。
「柊木さん、すごいナチュラルですね」
「ていうかカメラ慣れしてないなんて嘘じゃないですか」
カメラマンと担当の先輩が驚きながらも喜んでいる。
「緊張はしてますけど…。でもフォトだからかもです。チラシ撮影はいつもしますし。動画だと多分もっとひどいですよ」
柊木さんはそう謙遜しているけれど、手元のスケジュールを巻いているくらいだから、実際に上手くいっているのだろう。
最初は時間変更に眉をしかめていた先輩も、今では心の底から機嫌が良さそうだった。
テスト、本番を繰り返しながらも撮影は順調に進み、いったん昼休憩を挟むことになり、柊木さんは控え室に戻っていく。
「東雲、ちょっと」
「はい?」
「こっち来てくれる? あ、弁当ひとつ持ってきて」
控え室から出てきた先輩に呼ばれて、首を傾げた。
柊木さんのお弁当は室内に用意しているから問題ないはずだけど。
言われた通り、お弁当とお茶を一つずつ持って控え室を覗く。
と、先輩に室内に押し込まれた。
「柊木さんが一緒に食べようって」
「……はい?」
衣装が汚れないようにだろう、上着を羽織った柊木さんがテーブルから手を振っている。
仕方なく目の前まで進むと、部屋に引っ張り込んだ張本人である先輩とすれ違った。
「え?」
「俺、この後の打ち合わせあるから、頼む!」
そう言い残し、あっさりと扉は閉まってしまう。
「座ったら?」
躊躇う私に柊木さんは言い募る。
「キャストのご機嫌を取るのも仕事のうちでしょ」
「……自分の立場を利用した発言、スタッフに嫌われますよ」
言い返しながらも向かいに座ると、柊木さんはけらけらと笑っている。
「ごめん。まさか柚さんがいると思わなかったから、嬉しくて」
「……そうですか」
視線を合わせないようにして、膝の上でお弁当の蓋を開ける。
本日の主役である柊木さんが言うのだから、私に逃げる術はないのだ。
「慣れない現場で知ってる人に会えたらホッとすると思わない?」
「知ってるって程でもないと思いますけど」
「でもほら、僕の好きなオムレツの入ったお弁当を選んでくれてるし」
柊木さんはそう言って、嬉しそうにお箸を割る。
好みを知っていてくれてるんだから、十分知人でしょう、と微笑まれてじんわり頬が熱くなった。
確かにお弁当は柊木さんのことを思って選んだけれど。あっさり見透かされたようで。
「この前途中で帰っちゃったから。気に入らなかったかなって」
「そんなことないですよ。流石だなと思いました。歌も、お芝居も」
「良かった。柚さんにそう言ってもらえると安心する」
「私、ただの素人なんですけど」
「だからかな」
思わず柊木さんを見つめると、やっとこっち見た、と満足げに笑われた。
「普通の感覚が一番知りたいから」
その一言に、ああ、この人は地に足がついた人なんだな、と思う。観客にどう思われているのか、フラットな目線を大事にするひとだ。
柊木さんの撮影の感想を聞きながら、二人でお弁当を食べた。あまりにちらちら見てくるから、オムレツは半分譲ってあげた。
柊木さんは元々自分のお弁当に入っていたものにはケチャップを、私があげた方にはソースをかけて、美味しそうに食べていた。