秘密のカーテンコール〜人気舞台俳優の溺愛〜
食べ終わったあと、ケータリングコーナーで紅茶を淹れた。
柊木さんはコーヒーより紅茶派らしい。やっぱり喉に良いからだろうか。
自分用にカモミールティーも淹れて二つのカップを手に控え室に戻ると、先ほど出で行った営業の先輩と、柊木さんのマネージャーさんが揃っていた。
先輩はじっと頭を下げていて、ぴりっとした雰囲気におもわず仰反る。
「そう言われましても、こちらもタイムリミットは譲れないんです」
マネージャーさんがそう言い放ち、先輩はさらに頭を下げる。
こちらの連絡ミスが招いたスケジュール調整が、どうしても上手くいかないらしい。
この後、奥さん役のモデルさんと一緒に撮影のはずが、その女性モデルに時間変更が伝わっていなかったのだ。
慌ててかわりのモデルを探してもらっているけれど、なかなかすぐに現場に来れる人が見つからないらしい。
「過ぎたことは仕方ありません」
膠着した空気を打破するように、柊木さんが口を開いた。凛とした声が部屋に響く。
先輩が顔をあげたのと、柊木さんと私の目が合ったのは同時だった。
その瞳が一瞬妖しく揺らめき、また見慣れたあの胡散臭い笑みが浮かんだ。
「では、代理の方で続けましょう」
つかつかと真っ直ぐに歩み寄ってきた柊木さんは紅茶の入ったカップを奪い取ると、反対の手で私の肩を抱いた。
ぐいっと引き寄せられて、カモミールティーが溢れないようにバランスを保つことで精一杯の私の耳に、とんでもない宣言が飛び込んできた。
「代役は東雲さんでいかがでしょうか」
今日の主役の「いかがでしょうか」という言葉は、提案ではなく決定事項だ。
「大丈夫だ東雲! 主役はあくまで柊木さんだから、妻役の顔は写らない! 写り込んでもぼかすから!!」
控え室でファンデーションを塗りたくられる私の横で、先輩が拝むように手を合わせながら騒いでいる。
慣れないメイクのせいだけではなく、顔が引きつるのを感じていた。
――そんな大した役じゃないなら誰か連れてきなさいよ!!
そう叫びたいものの、一介の会社員にそんなことできるわけもなく。
むしろ代役が私で良いなら万々歳じゃないか、という空気が漂っている同僚たちの雰囲気に反論できるわけもなく。
ロングスカートにニットにエプロンという、いわゆる良き妻の見本のような格好をさせられ、ナチュラルに見えるけれどしっかり作り込まれたメイクを施された。
顔は写らなくても、この辺りはこだわるらしい。
ソファに座る柊木さんにマグカップを差し出すカット。
片手にトレイを持って反対の手にカップ。陶器のマグカップは、普段生活している最中は感じないけれど、緊張しているせいかずしりと重みを感じた。そのせいか、ずっと静止していると手が震えてくる。中身は空だから多少揺れても問題はないけれど。
あまりにゆらゆら揺れていたからだろうか、柊木さんが受け取るようにカップの下の部分を支えてくれて、ようやく安定した。
小さく息を吐くと、ほっとしたのがバレたのだろうか。柔らかく微笑まれて、どくりと胸が高鳴った。
ちょうどカップを受け渡す瞬間のような構図になって、嵐のように勢いよくシャッターが切られる。
その後もアイランドキッチンに二人並んで洗い物をする様子だとか、一緒に冷蔵庫を覗き込むだとか、ダイニングテーブルに向かいあって座るだとか、キッチンを使ったありとあらゆる構図で撮影をしていく。
モニターで確認させてもらったけれど、すべて焦点は柊木さんに合っているので、私は本当に風景といった感じだ。
というか首から上はまったく写っていないものが多い。あまりに背景と同化し過ぎて、この条件でわざわざ受けてくれるモデルさんが見つからないんじゃないか、という気もしてきた。
その事実に安心してだいぶリラックスした私は、カメラに写りながらも柊木さんと他愛無い会話をひそひそと続けていた。
カメラテストだったり構図決めだったり、待ち時間ではないけれど本番ではない時間も多いし、なるべくナチュラルな表情を撮りたいということで、特に声を掛けられずに撮影していくスタイルだったので、むしろカメラマンさんにも歓迎された。
最近食べて美味しかったものとか、ウェルメイドによくきている常連さんについてとか、柊木さんがこの前の本番でセリフを間違えた話だとか。
なんてことない世間話だったけれど、いつの間にか柊木さんと共通の話題が増えていることを実感する。
ラジオのパーソナリティもしているという柊木さんの声は心地よく、話題には事欠かかない。これは人気が出るのも頷けるなあなんて呑気に考えていると、だんだん撮影の空気が変わってきた。
私はフライパンで卵焼きを作っているという設定で、背後にまわった柊木さんの手が、私の手のうえからフライパンの持ち手を掴んだ。
反対の手は、フライ返しを持っている右手に重なる。
「……これじゃ卵焼き焦げませんか?」
いつぞやも感じた、甘い香りがふんわりと鼻先を掠める。
どきどきと心臓が音を立てるのをごまかしながらそう呟くと、柊木さんが吹き出した。
「そうかもね。僕は楽しいからいいけど」
まわりのスタッフに聞こえないように、声を顰めて、なおかつ耳元で喋られるから、背筋がぞわぞわと震えた。
その後も、肩に柊木さんの顎が乗せられて、全然落ち着かない。
実際に火はついていないから、フライパンの中身を気にする必要も、ひっくり返す必要もない。そのせいか、よけいに耳許に柊木さんの気配を感じてしまう。
思わず俯くと、その角度がちょうどよかったらしく大量のシャッター音が響いた。
両手に重なっていた柊木さんの手が離れたと思うと、次の瞬間、今度は両手が腰にまわされた。
振り返ると、触れそうなほど近くに端正な顔が迫っていて、慌てて向き戻る。
「どうしたの?」
「手……っ」
「大丈夫。手元まで写ってないよ」
にっこりと笑った柊木さんは、その唇を私の耳に近づけて囁く。
――だから、これをやめてほしい!!!
ぞわぞわと肌が粟立つ。
そんな私の様子を楽しそうに笑った柊木さんは、撮影の間じゅう他愛ない話を耳元で話し続けてきた。
「東雲、おつかれ!!!」
全ての撮影が終わり、へとへとの状態で柊木さんをスタジオから送り出した。
マネージャーさん――佐々木さんというのだそうだ――に憐みを含んだ視線で会釈されたのが忘れられない。散々からかわれた様子を見られていたのだから仕方ないけれど。
「いやあ助かったよ。東雲、柊木さんのお気に入りなんだな」
ばんばんと先輩に背中を叩かれ、ため息を吐く。
お気に入り……というか、親の知り合いというか、向こうが勝手に親に恩義を感じてくれているというか。とにかくそこに私である必要はないように感じたけれど、とりあえず仕事が上手く進んで会社にも貢献できたようだから、まあいいのかと思うことにする。
片付けはやっておくから直帰で良いと言ってくれたので、その通り甘えることにした。
慣れないことをしたから、なんだかとても疲れている。
定時よりだいぶ早いが、お惣菜でも買って帰ってのんびりすることにしよう。
もう料理をする気力がない。
というか、キッチンに立つと柊木さんを思い出してしまいそうで落ち着かない。
記憶を消し去るように被りを振って、ハウススタジオを後にした。
柊木さんはコーヒーより紅茶派らしい。やっぱり喉に良いからだろうか。
自分用にカモミールティーも淹れて二つのカップを手に控え室に戻ると、先ほど出で行った営業の先輩と、柊木さんのマネージャーさんが揃っていた。
先輩はじっと頭を下げていて、ぴりっとした雰囲気におもわず仰反る。
「そう言われましても、こちらもタイムリミットは譲れないんです」
マネージャーさんがそう言い放ち、先輩はさらに頭を下げる。
こちらの連絡ミスが招いたスケジュール調整が、どうしても上手くいかないらしい。
この後、奥さん役のモデルさんと一緒に撮影のはずが、その女性モデルに時間変更が伝わっていなかったのだ。
慌ててかわりのモデルを探してもらっているけれど、なかなかすぐに現場に来れる人が見つからないらしい。
「過ぎたことは仕方ありません」
膠着した空気を打破するように、柊木さんが口を開いた。凛とした声が部屋に響く。
先輩が顔をあげたのと、柊木さんと私の目が合ったのは同時だった。
その瞳が一瞬妖しく揺らめき、また見慣れたあの胡散臭い笑みが浮かんだ。
「では、代理の方で続けましょう」
つかつかと真っ直ぐに歩み寄ってきた柊木さんは紅茶の入ったカップを奪い取ると、反対の手で私の肩を抱いた。
ぐいっと引き寄せられて、カモミールティーが溢れないようにバランスを保つことで精一杯の私の耳に、とんでもない宣言が飛び込んできた。
「代役は東雲さんでいかがでしょうか」
今日の主役の「いかがでしょうか」という言葉は、提案ではなく決定事項だ。
「大丈夫だ東雲! 主役はあくまで柊木さんだから、妻役の顔は写らない! 写り込んでもぼかすから!!」
控え室でファンデーションを塗りたくられる私の横で、先輩が拝むように手を合わせながら騒いでいる。
慣れないメイクのせいだけではなく、顔が引きつるのを感じていた。
――そんな大した役じゃないなら誰か連れてきなさいよ!!
そう叫びたいものの、一介の会社員にそんなことできるわけもなく。
むしろ代役が私で良いなら万々歳じゃないか、という空気が漂っている同僚たちの雰囲気に反論できるわけもなく。
ロングスカートにニットにエプロンという、いわゆる良き妻の見本のような格好をさせられ、ナチュラルに見えるけれどしっかり作り込まれたメイクを施された。
顔は写らなくても、この辺りはこだわるらしい。
ソファに座る柊木さんにマグカップを差し出すカット。
片手にトレイを持って反対の手にカップ。陶器のマグカップは、普段生活している最中は感じないけれど、緊張しているせいかずしりと重みを感じた。そのせいか、ずっと静止していると手が震えてくる。中身は空だから多少揺れても問題はないけれど。
あまりにゆらゆら揺れていたからだろうか、柊木さんが受け取るようにカップの下の部分を支えてくれて、ようやく安定した。
小さく息を吐くと、ほっとしたのがバレたのだろうか。柔らかく微笑まれて、どくりと胸が高鳴った。
ちょうどカップを受け渡す瞬間のような構図になって、嵐のように勢いよくシャッターが切られる。
その後もアイランドキッチンに二人並んで洗い物をする様子だとか、一緒に冷蔵庫を覗き込むだとか、ダイニングテーブルに向かいあって座るだとか、キッチンを使ったありとあらゆる構図で撮影をしていく。
モニターで確認させてもらったけれど、すべて焦点は柊木さんに合っているので、私は本当に風景といった感じだ。
というか首から上はまったく写っていないものが多い。あまりに背景と同化し過ぎて、この条件でわざわざ受けてくれるモデルさんが見つからないんじゃないか、という気もしてきた。
その事実に安心してだいぶリラックスした私は、カメラに写りながらも柊木さんと他愛無い会話をひそひそと続けていた。
カメラテストだったり構図決めだったり、待ち時間ではないけれど本番ではない時間も多いし、なるべくナチュラルな表情を撮りたいということで、特に声を掛けられずに撮影していくスタイルだったので、むしろカメラマンさんにも歓迎された。
最近食べて美味しかったものとか、ウェルメイドによくきている常連さんについてとか、柊木さんがこの前の本番でセリフを間違えた話だとか。
なんてことない世間話だったけれど、いつの間にか柊木さんと共通の話題が増えていることを実感する。
ラジオのパーソナリティもしているという柊木さんの声は心地よく、話題には事欠かかない。これは人気が出るのも頷けるなあなんて呑気に考えていると、だんだん撮影の空気が変わってきた。
私はフライパンで卵焼きを作っているという設定で、背後にまわった柊木さんの手が、私の手のうえからフライパンの持ち手を掴んだ。
反対の手は、フライ返しを持っている右手に重なる。
「……これじゃ卵焼き焦げませんか?」
いつぞやも感じた、甘い香りがふんわりと鼻先を掠める。
どきどきと心臓が音を立てるのをごまかしながらそう呟くと、柊木さんが吹き出した。
「そうかもね。僕は楽しいからいいけど」
まわりのスタッフに聞こえないように、声を顰めて、なおかつ耳元で喋られるから、背筋がぞわぞわと震えた。
その後も、肩に柊木さんの顎が乗せられて、全然落ち着かない。
実際に火はついていないから、フライパンの中身を気にする必要も、ひっくり返す必要もない。そのせいか、よけいに耳許に柊木さんの気配を感じてしまう。
思わず俯くと、その角度がちょうどよかったらしく大量のシャッター音が響いた。
両手に重なっていた柊木さんの手が離れたと思うと、次の瞬間、今度は両手が腰にまわされた。
振り返ると、触れそうなほど近くに端正な顔が迫っていて、慌てて向き戻る。
「どうしたの?」
「手……っ」
「大丈夫。手元まで写ってないよ」
にっこりと笑った柊木さんは、その唇を私の耳に近づけて囁く。
――だから、これをやめてほしい!!!
ぞわぞわと肌が粟立つ。
そんな私の様子を楽しそうに笑った柊木さんは、撮影の間じゅう他愛ない話を耳元で話し続けてきた。
「東雲、おつかれ!!!」
全ての撮影が終わり、へとへとの状態で柊木さんをスタジオから送り出した。
マネージャーさん――佐々木さんというのだそうだ――に憐みを含んだ視線で会釈されたのが忘れられない。散々からかわれた様子を見られていたのだから仕方ないけれど。
「いやあ助かったよ。東雲、柊木さんのお気に入りなんだな」
ばんばんと先輩に背中を叩かれ、ため息を吐く。
お気に入り……というか、親の知り合いというか、向こうが勝手に親に恩義を感じてくれているというか。とにかくそこに私である必要はないように感じたけれど、とりあえず仕事が上手く進んで会社にも貢献できたようだから、まあいいのかと思うことにする。
片付けはやっておくから直帰で良いと言ってくれたので、その通り甘えることにした。
慣れないことをしたから、なんだかとても疲れている。
定時よりだいぶ早いが、お惣菜でも買って帰ってのんびりすることにしよう。
もう料理をする気力がない。
というか、キッチンに立つと柊木さんを思い出してしまいそうで落ち着かない。
記憶を消し去るように被りを振って、ハウススタジオを後にした。