秘密のカーテンコール〜人気舞台俳優の溺愛〜
怪我は、相手と斬り合うシーンで起きたらしい。
柊木さんと敵役の数人が対峙するシーンで、誰かの動きが少しずれたのか、力の込め具合がいつもと違ったのか、詳しい原因はわからないけれど本来は当たるはずではなかったところに刃が当たってしまったらしい。
それを避けようとした柊木さんが鉄骨のセットにぶつかって、恐らく脚を痛めた、と。
一幕終盤のシーンだったのと、柊木さんが一瞬止まったあと動きを再開したので、舞台はそのまま続行されたらしい。
佐々木さんは劇場に着くと駐車場に車を滑り込ませ、そのまま楽屋口に飛び込んだ。
顔パスなのか、守衛さんは「お疲れさまです」といっただけで通してくれた。私も慌てて後に続く。
エレベーターに乗り、所狭しと花が置かれた迷路のような廊下を進んで、暖簾の掛かった部屋にたどり着く。
もう休憩に入っているようで、楽屋の前では青ざめた顔をした役者さんが一人、立ち竦んでいた。彼が、立ち回りをしていた相手なのかもしれない。
「悠真!」
声を掛けて部屋の中に入っていく佐々木さんのあとに続く。
古く、歴史のある劇場だからか、楽屋は畳だった。靴を脱いで上がると、柊木さんは仰向けになって寝転がっていた。
脹脛に包帯が巻かれている。かなりきつく、固定してあるようだ。
額には、水で濡らしてあるのだろう手拭いが乗っている。
「大丈夫か?」
佐々木さんが声をかけると、柊木さんの閉じられていた目が開き。
その視線が私を捉えて、止まる。
「……柚さん?」
いつもよりか細い声に、躊躇う間も無く手拭いを退けて、額に手を当てる。
痛みのせいか熱も上がっているようだ。
楽屋の水道で手拭いを洗って、再び額に乗せた。
「恒さんが呼んでくれたの?」
「違う、俺が呼んだ」
「そっかー」
佐々木さんの前だからだろうか、いつもより伸びた語尾は素なのか、それほど辛いせいなのかわからない。
「さすがマネージャー」
「脚は?」
「んー、切れてるかもしれない」
「薬は? 飲んだか?」
柊木さんは佐々木さんの問いかけに小さく頷く。
休憩に入ってさらに痛み止めを飲んだらしい。
幕間は二十五分あるとはいえ、二幕開演の五分前には舞台袖に向かわないといけないから、休めてもあと十分程度しかない。
のろのろと起き上がる柊木さんの背を慌てて支える。
「ぎりぎりまで寝てた方が……」
「ん。メイク直してから休む」
そう言って鏡に向かおうとするので、慌てて寄りかかれるように座椅子を引き寄せた。
よく見ると、打ち付けた時にぶつかって切ったのだろうか、額にも固まった血がついている。
「どうだ?」
聞き慣れた声に振り返ると、父が、楽屋の入り口にやってきていた。
続けるか、止めるか、確認しに来たのだろう。
中を覗いた父と目が合う。父はぴくりと目を見開いたが、何も言わなかった。
「大丈夫です。いけます」
さっきまでとは違う、凛とした声で柊木さんが答える。
中止なんて、まったく考えていないような声色だった。
父はため息を吐き、佐々木さんと小声で話し始める。遅れてプロデューサーもやってきたようだ。三人は廊下に出て話を続けている。
ふーっと息を吐く柊木さんの額を、先ほどの手拭いで拭き取った。
それで血が出ていることに初めて気づいたらしい。一瞬驚いた顔をしたけれど、柊木さんは平然とメイクを直し始めた。
ティッシュやらブラシやら、テーブルの上に置かれているけれど手を伸ばさないと届かないものを、なるべく柊木さんの手元に近寄せる。
母の楽屋に出入りしていて良かった、と初めて思った。
楽屋を見回すと小さい冷蔵庫があったので、失礼して扉をあける。差し入れについていたのだろう保冷剤が入っていたので、取り出して手持ちのハンドタオルで包んだ。
「失礼します」
そっと、柊木さんの脹脛に当てると、鏡越しに見開かれた瞳と目が合った。
「冷たくて気持ちいい」
「はい」
「ありがとう」
柔らかく、でもいつもよりか弱い笑みに、タオル越しの手に力を込めて、支えることしか出来なかった。
メイク直しを終えた柊木さんは、横にならずそのまま座椅子に寄り掛かっていた。
だらりと下がった手が、ゆっくりと私の掌に触れる。
その熱に驚いて顔を上げるけれど、柊木さんが安心したように笑うのでそのまま動けなかった。
熱い両手が、私の掌を包む。
「柚さんの手……」
「はい」
「冷たくて気持ちいい」
「じゃあ、触っていていいですよ」
そう言うと、柊木さんは目を見開いてくつくつと笑った。
引き続き廊下で話し合う声は聞こえてくるけれど、しんと静まり返った楽屋には、柊木さんが時折苦しそうに息を吐き出す音が響いている。
触れた手にもう片方の手をそっと重ねた。
「悠真、そろそろ」
佐々木さんが声を掛けて、柊木さんが目を開ける。
鋭い眼光は、静止の言葉を受け付けるどころか、発することも許さない。
「大丈夫」
不安そうな顔をしていたからだろうか。柊木さんがぎゅっと私の手を握った。
痛みが酷いはずなのに、柊木さんはそのまま私をくいっと引き寄せる。
「頑張ってくるから、待っていてほしい」
耳元でそう囁かれて。はい、と頷けば柊木さんは満足そうに笑って立ち上がった。
佐々木さんに支えられながら、柊木さんは靴を履いて、振り返った。
「これ、借りていくね」
私のハンドタオルと保冷剤を掲げるので、慌てて頷く。そんなものでいいなら、いくらでも持っていってほしい。
楽屋の前で立ちすくんでいた役者さんに気づいた柊木さんは、口角をあげてその背中をばんと叩いた。
はっきりとは聞こえなかったけれど、「お前のせいじゃない、気にするな」と言っていたのだと思う。
そうして父に付き添われて舞台に向かう柊木さんを見送ったあと、佐々木さんに伴われて客席に向かった。
一階席の後ろの扉から場内に滑り込むと、だんだんと客電が落ちていくところだった。
壁際に佐々木さんと並んで立って、公演を見守る。
柊木さんは、脚の怪我なんて微塵も感じさせない芝居をみせつけた。
二重人格の主人公。
表の人格のときは、優しい笑顔で婚約者に接し、そっと抱きしめて愛する。
裏の人格では、娼婦に迫りながら、相手が離れられないように強く求めて、縛り付ける。
まるで二人分の人生を生きるようなハードさに、胸が締め付けられるように苦しい。婚約者と交わす優しいキスも、娼婦と交わす激しいキスも、決して観たいわけではないのに目が離せない。
――ああ、このひとに惹かれている。
観たくない、と素直に感じた自分に気づいて、きゅっと唇を噛み締めた。
もう誤魔化すことはできそうもない。
遠い世界に生きているひとなのに。
自分が苦しくなるとわかっているのに。
それでも気持ちに気づいたら、胸に残っていた重りが、すとんとどこか奥深くへ落ち着いた気がした。
とにかく今は、無事に幕が降りて、戻ってきてほしい。
なにより柊木さんが無事であるように、とだんだんと冷たくなっていく指先をぎゅっと握りしめた。
さっき触れた、彼の熱い手を思い出しながら。
柊木さんと敵役の数人が対峙するシーンで、誰かの動きが少しずれたのか、力の込め具合がいつもと違ったのか、詳しい原因はわからないけれど本来は当たるはずではなかったところに刃が当たってしまったらしい。
それを避けようとした柊木さんが鉄骨のセットにぶつかって、恐らく脚を痛めた、と。
一幕終盤のシーンだったのと、柊木さんが一瞬止まったあと動きを再開したので、舞台はそのまま続行されたらしい。
佐々木さんは劇場に着くと駐車場に車を滑り込ませ、そのまま楽屋口に飛び込んだ。
顔パスなのか、守衛さんは「お疲れさまです」といっただけで通してくれた。私も慌てて後に続く。
エレベーターに乗り、所狭しと花が置かれた迷路のような廊下を進んで、暖簾の掛かった部屋にたどり着く。
もう休憩に入っているようで、楽屋の前では青ざめた顔をした役者さんが一人、立ち竦んでいた。彼が、立ち回りをしていた相手なのかもしれない。
「悠真!」
声を掛けて部屋の中に入っていく佐々木さんのあとに続く。
古く、歴史のある劇場だからか、楽屋は畳だった。靴を脱いで上がると、柊木さんは仰向けになって寝転がっていた。
脹脛に包帯が巻かれている。かなりきつく、固定してあるようだ。
額には、水で濡らしてあるのだろう手拭いが乗っている。
「大丈夫か?」
佐々木さんが声をかけると、柊木さんの閉じられていた目が開き。
その視線が私を捉えて、止まる。
「……柚さん?」
いつもよりか細い声に、躊躇う間も無く手拭いを退けて、額に手を当てる。
痛みのせいか熱も上がっているようだ。
楽屋の水道で手拭いを洗って、再び額に乗せた。
「恒さんが呼んでくれたの?」
「違う、俺が呼んだ」
「そっかー」
佐々木さんの前だからだろうか、いつもより伸びた語尾は素なのか、それほど辛いせいなのかわからない。
「さすがマネージャー」
「脚は?」
「んー、切れてるかもしれない」
「薬は? 飲んだか?」
柊木さんは佐々木さんの問いかけに小さく頷く。
休憩に入ってさらに痛み止めを飲んだらしい。
幕間は二十五分あるとはいえ、二幕開演の五分前には舞台袖に向かわないといけないから、休めてもあと十分程度しかない。
のろのろと起き上がる柊木さんの背を慌てて支える。
「ぎりぎりまで寝てた方が……」
「ん。メイク直してから休む」
そう言って鏡に向かおうとするので、慌てて寄りかかれるように座椅子を引き寄せた。
よく見ると、打ち付けた時にぶつかって切ったのだろうか、額にも固まった血がついている。
「どうだ?」
聞き慣れた声に振り返ると、父が、楽屋の入り口にやってきていた。
続けるか、止めるか、確認しに来たのだろう。
中を覗いた父と目が合う。父はぴくりと目を見開いたが、何も言わなかった。
「大丈夫です。いけます」
さっきまでとは違う、凛とした声で柊木さんが答える。
中止なんて、まったく考えていないような声色だった。
父はため息を吐き、佐々木さんと小声で話し始める。遅れてプロデューサーもやってきたようだ。三人は廊下に出て話を続けている。
ふーっと息を吐く柊木さんの額を、先ほどの手拭いで拭き取った。
それで血が出ていることに初めて気づいたらしい。一瞬驚いた顔をしたけれど、柊木さんは平然とメイクを直し始めた。
ティッシュやらブラシやら、テーブルの上に置かれているけれど手を伸ばさないと届かないものを、なるべく柊木さんの手元に近寄せる。
母の楽屋に出入りしていて良かった、と初めて思った。
楽屋を見回すと小さい冷蔵庫があったので、失礼して扉をあける。差し入れについていたのだろう保冷剤が入っていたので、取り出して手持ちのハンドタオルで包んだ。
「失礼します」
そっと、柊木さんの脹脛に当てると、鏡越しに見開かれた瞳と目が合った。
「冷たくて気持ちいい」
「はい」
「ありがとう」
柔らかく、でもいつもよりか弱い笑みに、タオル越しの手に力を込めて、支えることしか出来なかった。
メイク直しを終えた柊木さんは、横にならずそのまま座椅子に寄り掛かっていた。
だらりと下がった手が、ゆっくりと私の掌に触れる。
その熱に驚いて顔を上げるけれど、柊木さんが安心したように笑うのでそのまま動けなかった。
熱い両手が、私の掌を包む。
「柚さんの手……」
「はい」
「冷たくて気持ちいい」
「じゃあ、触っていていいですよ」
そう言うと、柊木さんは目を見開いてくつくつと笑った。
引き続き廊下で話し合う声は聞こえてくるけれど、しんと静まり返った楽屋には、柊木さんが時折苦しそうに息を吐き出す音が響いている。
触れた手にもう片方の手をそっと重ねた。
「悠真、そろそろ」
佐々木さんが声を掛けて、柊木さんが目を開ける。
鋭い眼光は、静止の言葉を受け付けるどころか、発することも許さない。
「大丈夫」
不安そうな顔をしていたからだろうか。柊木さんがぎゅっと私の手を握った。
痛みが酷いはずなのに、柊木さんはそのまま私をくいっと引き寄せる。
「頑張ってくるから、待っていてほしい」
耳元でそう囁かれて。はい、と頷けば柊木さんは満足そうに笑って立ち上がった。
佐々木さんに支えられながら、柊木さんは靴を履いて、振り返った。
「これ、借りていくね」
私のハンドタオルと保冷剤を掲げるので、慌てて頷く。そんなものでいいなら、いくらでも持っていってほしい。
楽屋の前で立ちすくんでいた役者さんに気づいた柊木さんは、口角をあげてその背中をばんと叩いた。
はっきりとは聞こえなかったけれど、「お前のせいじゃない、気にするな」と言っていたのだと思う。
そうして父に付き添われて舞台に向かう柊木さんを見送ったあと、佐々木さんに伴われて客席に向かった。
一階席の後ろの扉から場内に滑り込むと、だんだんと客電が落ちていくところだった。
壁際に佐々木さんと並んで立って、公演を見守る。
柊木さんは、脚の怪我なんて微塵も感じさせない芝居をみせつけた。
二重人格の主人公。
表の人格のときは、優しい笑顔で婚約者に接し、そっと抱きしめて愛する。
裏の人格では、娼婦に迫りながら、相手が離れられないように強く求めて、縛り付ける。
まるで二人分の人生を生きるようなハードさに、胸が締め付けられるように苦しい。婚約者と交わす優しいキスも、娼婦と交わす激しいキスも、決して観たいわけではないのに目が離せない。
――ああ、このひとに惹かれている。
観たくない、と素直に感じた自分に気づいて、きゅっと唇を噛み締めた。
もう誤魔化すことはできそうもない。
遠い世界に生きているひとなのに。
自分が苦しくなるとわかっているのに。
それでも気持ちに気づいたら、胸に残っていた重りが、すとんとどこか奥深くへ落ち着いた気がした。
とにかく今は、無事に幕が降りて、戻ってきてほしい。
なにより柊木さんが無事であるように、とだんだんと冷たくなっていく指先をぎゅっと握りしめた。
さっき触れた、彼の熱い手を思い出しながら。