秘密のカーテンコール〜人気舞台俳優の溺愛〜

8.二人のダイアローグ

 重い体を何とか起こし、ベッドから抜け出た。珍しく空気が冷たいなと思って窓の外を見遣ると、雨が降っていた。天気が悪いのは久し振りだ。

 父は、もう出かけたようだった。
 土曜日の今日は十二時開演と十七時開演だから、柊木さんも十時には家を出ているだろう。今からゆっくり準備して向かえば、会わなくて済む。
 そう安心したはずなのに、ため息が零れた。

 好きだと気づいて、一緒にいられると嬉しくて。
 でも、絶対に叶うことのない想いだと信じていたから、逆に安心していた。
 柊木さんの怪我が治って、会うこともなくなれば、自然と忘れていく気持ちだと思っていた。だってテレビのなかの芸能人を好きになるのと同じだと思い込んでいたから。
 黙って自分の唇に触れる。昨日の記憶が蘇って、もっと近づきたい、近づけるのではないかと期待してしまう自分が怖かった。

 小雨のなかウェルメイドに向かえば、叔父が一人で鼻歌交じりに仕込みをしていた。

「あれ、どうした?」

 土曜日は早めに柊木さんの家に行き、平日はできない掃除を丁寧するんだと意気込んでいたからだろう、突然現れた私に叔父は首を傾げている。

「別に、ちょっと寄ってみただけ」
「なんだ、おかず貰いに来たのかと思った」
「違いますー」

 一品でも恵んでもらえれば楽できるのは確かなのに、何故かお願いしようという気は全く起きなかった。
 私が作った料理を食べて、じっとこちらを見つめてから、「美味しい」と微笑む姿が好きで――。

「そういえば柊木さん、叔父さんと私の作ったもの、見分けつかないらしいよ」

 そう言って笑うと、叔父は少しだけ心外そうな顔をした。

「さすがにそれは無いだろ」
「お世辞かな、やっぱり」
「うーん、でも悠真は嘘吐かないやつだからなあ」

 叔父の中で、柊木さんの株は異様に高いようだ。

「嘘吐かないひとは、お芝居しないでしょ」

 そう小さく呟くと、調理の音で聞こえなかったのか、叔父がカウンターの方へまわってきた。

「なんだって?」
「……ううん。ねえ、お芝居マジックって言うでしょ」
「恋人役が、本当に付き合ったり結婚したりするって話な」
「そうなの? お芝居しているときは相手が格好良く見えるって話だと思ってた」

 そう言うと、叔父はぷっと吹き出した。

「そりゃ衣装もメイクもありゃ格好良く見えるかもしれないけど、むしろ濃すぎないか? 俺、家での遥さんの方が舞台に乗ってるときより絶対綺麗だったと思う」

 叔父がさらりと母の名前を出したせいで、私も自然と想像できた。
 確かに、舞台メイクの母は綺麗というより派手で強烈だった。家にいるときはほぼほぼすっぴんだったから、目の大きさが全然違うと子供心に思ったものだ。
 でも舞台から睨まれる(別に私を睨んでいたわけではなくそういう芝居だったわけだけど)より、家でにっこり微笑む母の方が、断然好きだった。
 舞台に立つ母はどこか遠い世界にいるようで、私の知っている母ではないし、当然私だけの母でもなかったからだろう。

 でもーーー。
“柚のことが世界で一番好き”
 家での母がそう言っていて笑いかけてくれた顔も、声も、思い出せるのに。

「舞台での恋人役って、のめり込む役者はのめり込むんだよ。稽古も含めたら何ヶ月も一緒にいて、毎日恋人のフリをするわけだから」
「嘘の感情が、本物になるってこと?」
「そうかもな。でも嘘ってわけでもないと思う。大体稽古中なんて、怒られたり落ち込んだり、上手くできなくてイライラしたり、お互いの嫌な部分だって山ほど見せ合うわけだけど、それでも好きになるんだから」

 まあ俺は役者じゃないから経験ないけど、と長々語ったあげくに叔父は最後は首を竦めてみせた。

「恋人役が本物に、か……」

 ふと柊木さんが舞台上で共演者を引き寄せるシーンが過ぎって、慌てて頭から追い出した。
 ちらりと思い出しただけで胸の中に靄がかかったような気がする。その靄の正体を突き止めたら、もっと苦しくなるような気がした。
 ため息を吐くと、目の前に湯気のたったカップが置かれる。

「それでも飲んで、さっさと悠真の家の掃除してきな。ま、アイツは家も綺麗なんだろうけど」

 叔父は、そう言ってにかっと笑った。
 言われた通り一休みして向かった柊木さんの家は、しんと静まり返っていた。当たり前だ。
 電気を点けてキッチンへ向かうと、用意しておいたサンドウィッチは食べてくれたらしく、洗ったお皿がカゴに伏せてあった。
 怪我がなければ何でも自分でこなすに違いない。シンプルな家具はセンスが良いし、家の隅々まで片付けられている。
 買ってきた食材を冷蔵庫にしまって、掃除機をかける。
 さっさと済ませようとしているのに、ダイニングテーブルが視界に入ると、昨夜のことを思い出して手が止まってしまった。
 無意識のうちに、自分の唇にそっと触れていた。

 自分の望みは口に出さない方がよい、と思っている子どもだった。
 きっかけは小学生の頃だ。買ってもらったさらさらの髪の毛に青い瞳のお人形が可愛くて大好きで、さすがに学校には持っていけないけれど、家に帰ってきてからはどこに行くにも連れて歩いていた。
 大好きといって憚らず、「可愛いでしょ」と何も考えずに見せびらかしては、みんなが「いいね」「可愛いね」と言ってくれているのを、なんの疑いもなく受け止めていた。
 けれどある日、「あの子のうちは特別なのよ」「みんなリカちゃんなのにね」と友人の親たちがこそこそとこちらを見ながら話しているのを耳にした。その時は、何となく嫌な感じ、と思っただけだったけれど、しばらくしてその人形は海外の限定品で、手に入りにくいものである、ということを知った。
 恐らく、母が誰かから貰ったものだったんだろう。
「お子さんがいるならぜひ」と言って、私が喜ぶ差し入れを持ってお芝居を観にきてくださる方も多かったようだから。
 でも、私の心に残ったのは、こちらをちらちらと見ながら潜めた声で交わされる言葉。人は陰で何を言われているかわからない。だから目立つこと、他人と違うことはせず生きていく方が幸せだ、ということだった。
 だから、俳優なんて、他人と違うことを誇りとするような人を好きになってしまうなんて、まったくの想定外だった。
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