秘密のカーテンコール〜人気舞台俳優の溺愛〜
9.何度でもコールバック
それからあっという間に数日が経って。
土曜日のマチネ。東京公演の千穐楽がやってきた。
この前来たときは、佐々木さんに連れられて慌てて覗いたようなものだったから、久し振りの劇場に緊張が高まる。
『せっかく行くんだからお洒落しましょ』
劇場に行くとき、母はいつもそう言っていた。
自分は毎日のように通っているけれど、出るときは仕事、観にいくときは非日常の世界に遊びに行く感覚なのだ、と。
だから、幼い頃の私は、父の仕事に連れていかれるときは母に、母の出演作を観に行くときは父に、ワンピースやセットアップを着せられ、髪をセットされ――今思えば父はなんであんなに器用だったのだろう――、スニーカーではない綺麗な靴を履いて、劇場に向かっていた。
その時の名残だろうか。やはりせっかく劇場に行くなら綺麗にしないと、という意識が働いて、おろしたてのワンピースとお気に入りのジャケット、アクセサリーもピアスとネックレスをセットにし、化粧もいつもより丁寧に施した。
父は準備をする私を見て察したのだろう。「気をつけて来いよ」と言い残して出かけていった。
細いヒールも久し振りだ。十分に時間を見て、家を出た。
客席が開場して間もない時間に劇場についたけれど、正面のエントランスは既に人でいっぱいだった。
『本日千穐楽』の看板が出ていて、携帯を片手に写真に収めようとしている人が多く並んでいる。
この前はそれどころではなく気がつかなかったけれど、正面には作品の衣装を着た柊木さんの大きなポスターが貼られていて、みんなそれも写真に撮っていた。
もちろん他の役者のファンや作品が好きなひともいるだろうけれど、大多数の人が柊木さんを観に来ているのだと思うと、足が竦みそうになってしまった。
「嘘でしょ」
貰ったチケットを手に座席に向かって、何度も印字された席番号と椅子の番号を見比べる。
何度か繰り返して、間違いないと判断すると同時に、落ち着かなくなった。
柊木さんに渡されたチケットは、1階席の中通路を挟んですぐの列、しかもど真ん中の席だった。
劇場というのは、中通路の後ろが少し高くなっていて、前の席とも詰まっていないぶん、視界が開けて一番見やすいと言われている。
リハーサル中の演出家はここから見てチェックし、指示を出すくらいだ。
母と一緒に観劇にいったとき何度か似たような席に座ったけれど、まわりは錚々たる芸術家や俳優ばかりで、ひどく肩身が狭かったのを覚えている。
「柚さん」
落ち着かない気持ちで席に座り俯いていると、声を掛けられ慌てて顔を上げた。
あまりに挙動不審だったからだろうか、見上げた先の佐々木さんは苦笑いを浮かべている。
「こんにちは」
「今日は、ありがとうございます」
慌てて立ち上がって頭を下げる。
「それは後で本人に伝えてあげてください。これ、渡してほしいと」
そう言って佐々木さんが差し出したのは、今日の公演プログラムだった。
「いいんですか?」
「チケットもこれも、本人が用意したものですから」
「ありがとうございます」
「それも本人に。俺がお礼を言われたなんて、本人にバレたら怒られますから」
佐々木さんはそう言って、くすりと笑った。
「終演後、入口で待っています。楽屋にご案内するように、と言われているので」
「う……」
「くれぐれも黙って帰らないように」
「は、はい」
「責任問題になりますからね」
佐々木さんはそう念を押すと、ごゆっくり、と微笑んでロビーへと戻っていった。
一幕は、稽古場で読み合わせを聞いたから、話の流れはわかっていた。
それでも実際に舞台上に組まれたセット、照明や音響、衣裳やメイクが揃った状態の出演者……という要素が合わさると、まるで違うものだった。
物語のおおまかなあらすじは、柊木さん演じる医者が、人間の中にある善と悪の人格を分ける薬を作って、心の中の悪のみを取り除こうする話だ。だが薬の危険性を感じ取ったまわりの人々から人体実験を禁じられ、自分の体でその薬を試すことにする。実験には成功し、主人公は自らの善と悪を分けることができたが、二重人格者のようになった主人公は、やがて悪の人格を制御できなくなっていく……。
舞台上では、主人公の研究室や家、街並み、娼館などのセットが目まぐるしく入れ替わる。例えば研究室のセットが舞台の後方にすーっと下がっていって、舞台の両側から次のセットが半分ずつ出てきて真ん中でくっつくと、娼館が現れるーーーといった具合だ。これをすべて指示しているとは、我が父ながら、凄い仕事をしているものだと改めて感じた。
そしてその中で歌い、踊り、芝居をする柊木さんは、もう私の知っている普段の温和な柊木さんではなかった。
柊木さんは、主人公の善と悪の部分をひとりで演じるので、顔つきも歩き方も仕草も、場面によって変えていた。まるで二人の人間を自由に演じわけているかのようだった。
善の主人公には、心優しい婚約者がいて、二人は間もなく結婚式を控えている。
婚約者の女優さんは、稽古場で休憩中に話していた人だった。稽古着でも十分綺麗だったけれど、舞台上でドレスを纏った姿は比べ物にならないくらい美しい。
もっともその女優さんと並んでも引けを取らない柊木さんも、相当頭身が高いということなんだろうけど。
一方悪の人格になった主人公は娼館に出入りし、そこで出会った娼婦と関係を築いていくのだが……。
笑う間が一切ないシリアスなストーリーに、休憩に入ったときには疲れ果てていて立ち上がる気力もなかった。
と同時に、怪我をしたシーンがどこだったのか、気付かないくらいでほっとする。素人目だからかもしれないけれど、演出が変わったなんてまったく思い至らなかった。
「悠真さん、いつにも増してすごくない!?」
「気合いが違うよね。やっぱり楽だから?」
「めっちゃくちゃ格好良かった! 今日頑張ってチケット取って良かった!!」
「ほんとほんと! これ見逃したら一生後悔してた!」
興奮気味に語り合う女性たちが目の前を通り過ぎていく。
共演者の女優さんの名前を挙げながら、羨ましい!と 連呼する彼女たちを見て、心臓がどくどくと音を立てている。
――オムレツが好きで、自分の意志を強引に通そうとする、子どもみたいな一面を持ってるのに。
それは彼女たちには見せない姿だろう、と思うと自分の心に浮かんでくるのは喜びだ。
まるで独占欲のような。
私は、自分の心の中の悪を全然コントロール出来てないな、と内心溜息を吐くしかなかった。
二幕はさらに怒濤の展開だった。この前、客席の後ろから見守ったけれど、話の内容はまったく頭に入っていなかったのだと気付かされた。
まるで初めて観る物語として、自分の緊張が高まっていくのがわかる。
柊木さんが二重人格の主人公を演じ分けるスパンがどんどん短くなっていき、極め付けは曲のなかで人格が入れ替わっていくソロ。ワンフレーズごとに善の人格と悪の人格が交互に現れ、柊木さんは声質も表情も的確にころころ変えていく。
オーケストラの音楽がバックで盛り上がっていくなか、柊木さんが最後のワンフレーズを歌い上げる。客席は水を打ったように静まり返り、一瞬の沈黙ののち割れんばかりの拍手に包まれた。
結局、主人公は自らの悪を制御できなくなり、惹かれあっていた娼婦でさえ自分の手で殺害してしまった。それが殺人事件として世の中に広まり、警察の捜査が進んでいく。その中で、親友や婚約者が主人公に疑念を持って、いつ見つかってしまうのか、という緊張感が客席を満たす。最終的に、主人公が人々に襲い掛かろうとしたところを撃たれてしまう。傷は致命傷で、死ぬ間際、主人公の心には、それまでの善き人であった本心が戻ってきて、婚約者の腕の中でひっそりと息を引き取っていき、幕が下りた。
一通りカーテンコールが終わっても拍手は鳴り止まず、キャストが何度も舞台上に呼び込まれる。客席はスタンディングオベーションで熱狂に満ちていた。一方私は腰が抜けたように動けず、それでもひたすら拍手だけは送り続けていた。
最後、一人出てきた柊木さんが東京公演の感謝と大阪公演への決意を述べて終演した。舞台から捌ける間際、袖の手前で立ち止まった柊木さんは、充実感に満ちた表情で客席を見回す。
その最後に、目が合ったように感じたのは、きっと気のせいだ。
最後にちょうど客席の真ん中を見ただけ。舞台まで十列以上あるのに、その距離で目が合うわけがない。
そう思っているのに、最後に見せた柔らかい微笑みが、私に向けられているのではないかと錯覚してしまいそうだった。
土曜日のマチネ。東京公演の千穐楽がやってきた。
この前来たときは、佐々木さんに連れられて慌てて覗いたようなものだったから、久し振りの劇場に緊張が高まる。
『せっかく行くんだからお洒落しましょ』
劇場に行くとき、母はいつもそう言っていた。
自分は毎日のように通っているけれど、出るときは仕事、観にいくときは非日常の世界に遊びに行く感覚なのだ、と。
だから、幼い頃の私は、父の仕事に連れていかれるときは母に、母の出演作を観に行くときは父に、ワンピースやセットアップを着せられ、髪をセットされ――今思えば父はなんであんなに器用だったのだろう――、スニーカーではない綺麗な靴を履いて、劇場に向かっていた。
その時の名残だろうか。やはりせっかく劇場に行くなら綺麗にしないと、という意識が働いて、おろしたてのワンピースとお気に入りのジャケット、アクセサリーもピアスとネックレスをセットにし、化粧もいつもより丁寧に施した。
父は準備をする私を見て察したのだろう。「気をつけて来いよ」と言い残して出かけていった。
細いヒールも久し振りだ。十分に時間を見て、家を出た。
客席が開場して間もない時間に劇場についたけれど、正面のエントランスは既に人でいっぱいだった。
『本日千穐楽』の看板が出ていて、携帯を片手に写真に収めようとしている人が多く並んでいる。
この前はそれどころではなく気がつかなかったけれど、正面には作品の衣装を着た柊木さんの大きなポスターが貼られていて、みんなそれも写真に撮っていた。
もちろん他の役者のファンや作品が好きなひともいるだろうけれど、大多数の人が柊木さんを観に来ているのだと思うと、足が竦みそうになってしまった。
「嘘でしょ」
貰ったチケットを手に座席に向かって、何度も印字された席番号と椅子の番号を見比べる。
何度か繰り返して、間違いないと判断すると同時に、落ち着かなくなった。
柊木さんに渡されたチケットは、1階席の中通路を挟んですぐの列、しかもど真ん中の席だった。
劇場というのは、中通路の後ろが少し高くなっていて、前の席とも詰まっていないぶん、視界が開けて一番見やすいと言われている。
リハーサル中の演出家はここから見てチェックし、指示を出すくらいだ。
母と一緒に観劇にいったとき何度か似たような席に座ったけれど、まわりは錚々たる芸術家や俳優ばかりで、ひどく肩身が狭かったのを覚えている。
「柚さん」
落ち着かない気持ちで席に座り俯いていると、声を掛けられ慌てて顔を上げた。
あまりに挙動不審だったからだろうか、見上げた先の佐々木さんは苦笑いを浮かべている。
「こんにちは」
「今日は、ありがとうございます」
慌てて立ち上がって頭を下げる。
「それは後で本人に伝えてあげてください。これ、渡してほしいと」
そう言って佐々木さんが差し出したのは、今日の公演プログラムだった。
「いいんですか?」
「チケットもこれも、本人が用意したものですから」
「ありがとうございます」
「それも本人に。俺がお礼を言われたなんて、本人にバレたら怒られますから」
佐々木さんはそう言って、くすりと笑った。
「終演後、入口で待っています。楽屋にご案内するように、と言われているので」
「う……」
「くれぐれも黙って帰らないように」
「は、はい」
「責任問題になりますからね」
佐々木さんはそう念を押すと、ごゆっくり、と微笑んでロビーへと戻っていった。
一幕は、稽古場で読み合わせを聞いたから、話の流れはわかっていた。
それでも実際に舞台上に組まれたセット、照明や音響、衣裳やメイクが揃った状態の出演者……という要素が合わさると、まるで違うものだった。
物語のおおまかなあらすじは、柊木さん演じる医者が、人間の中にある善と悪の人格を分ける薬を作って、心の中の悪のみを取り除こうする話だ。だが薬の危険性を感じ取ったまわりの人々から人体実験を禁じられ、自分の体でその薬を試すことにする。実験には成功し、主人公は自らの善と悪を分けることができたが、二重人格者のようになった主人公は、やがて悪の人格を制御できなくなっていく……。
舞台上では、主人公の研究室や家、街並み、娼館などのセットが目まぐるしく入れ替わる。例えば研究室のセットが舞台の後方にすーっと下がっていって、舞台の両側から次のセットが半分ずつ出てきて真ん中でくっつくと、娼館が現れるーーーといった具合だ。これをすべて指示しているとは、我が父ながら、凄い仕事をしているものだと改めて感じた。
そしてその中で歌い、踊り、芝居をする柊木さんは、もう私の知っている普段の温和な柊木さんではなかった。
柊木さんは、主人公の善と悪の部分をひとりで演じるので、顔つきも歩き方も仕草も、場面によって変えていた。まるで二人の人間を自由に演じわけているかのようだった。
善の主人公には、心優しい婚約者がいて、二人は間もなく結婚式を控えている。
婚約者の女優さんは、稽古場で休憩中に話していた人だった。稽古着でも十分綺麗だったけれど、舞台上でドレスを纏った姿は比べ物にならないくらい美しい。
もっともその女優さんと並んでも引けを取らない柊木さんも、相当頭身が高いということなんだろうけど。
一方悪の人格になった主人公は娼館に出入りし、そこで出会った娼婦と関係を築いていくのだが……。
笑う間が一切ないシリアスなストーリーに、休憩に入ったときには疲れ果てていて立ち上がる気力もなかった。
と同時に、怪我をしたシーンがどこだったのか、気付かないくらいでほっとする。素人目だからかもしれないけれど、演出が変わったなんてまったく思い至らなかった。
「悠真さん、いつにも増してすごくない!?」
「気合いが違うよね。やっぱり楽だから?」
「めっちゃくちゃ格好良かった! 今日頑張ってチケット取って良かった!!」
「ほんとほんと! これ見逃したら一生後悔してた!」
興奮気味に語り合う女性たちが目の前を通り過ぎていく。
共演者の女優さんの名前を挙げながら、羨ましい!と 連呼する彼女たちを見て、心臓がどくどくと音を立てている。
――オムレツが好きで、自分の意志を強引に通そうとする、子どもみたいな一面を持ってるのに。
それは彼女たちには見せない姿だろう、と思うと自分の心に浮かんでくるのは喜びだ。
まるで独占欲のような。
私は、自分の心の中の悪を全然コントロール出来てないな、と内心溜息を吐くしかなかった。
二幕はさらに怒濤の展開だった。この前、客席の後ろから見守ったけれど、話の内容はまったく頭に入っていなかったのだと気付かされた。
まるで初めて観る物語として、自分の緊張が高まっていくのがわかる。
柊木さんが二重人格の主人公を演じ分けるスパンがどんどん短くなっていき、極め付けは曲のなかで人格が入れ替わっていくソロ。ワンフレーズごとに善の人格と悪の人格が交互に現れ、柊木さんは声質も表情も的確にころころ変えていく。
オーケストラの音楽がバックで盛り上がっていくなか、柊木さんが最後のワンフレーズを歌い上げる。客席は水を打ったように静まり返り、一瞬の沈黙ののち割れんばかりの拍手に包まれた。
結局、主人公は自らの悪を制御できなくなり、惹かれあっていた娼婦でさえ自分の手で殺害してしまった。それが殺人事件として世の中に広まり、警察の捜査が進んでいく。その中で、親友や婚約者が主人公に疑念を持って、いつ見つかってしまうのか、という緊張感が客席を満たす。最終的に、主人公が人々に襲い掛かろうとしたところを撃たれてしまう。傷は致命傷で、死ぬ間際、主人公の心には、それまでの善き人であった本心が戻ってきて、婚約者の腕の中でひっそりと息を引き取っていき、幕が下りた。
一通りカーテンコールが終わっても拍手は鳴り止まず、キャストが何度も舞台上に呼び込まれる。客席はスタンディングオベーションで熱狂に満ちていた。一方私は腰が抜けたように動けず、それでもひたすら拍手だけは送り続けていた。
最後、一人出てきた柊木さんが東京公演の感謝と大阪公演への決意を述べて終演した。舞台から捌ける間際、袖の手前で立ち止まった柊木さんは、充実感に満ちた表情で客席を見回す。
その最後に、目が合ったように感じたのは、きっと気のせいだ。
最後にちょうど客席の真ん中を見ただけ。舞台まで十列以上あるのに、その距離で目が合うわけがない。
そう思っているのに、最後に見せた柔らかい微笑みが、私に向けられているのではないかと錯覚してしまいそうだった。