弟、お試し彼氏になる。
家族計画
「あ、ねぇ、絢。今度、母さんが遊びにおいでって」
あれから、何事もなかったかのようにそれまでの日常が戻ってきたと思っていた。
「たぶん、父さんはいないよ。大丈夫」
振り向いたまま固まっている私を抱きしめて、ゆっくり言い聞かせるように髪を耳に掛けてくれる。
「……嫌な思いしなかった? 」
一体、いつお母さんと話したんだろうと目の前のネクタイを見つめながら思う。
悠は忙しい。
残業も多いし、この前も休日出勤があった。
その分私と休み合わせるんだって笑って、私との時間も確保してくれる。
帰宅してからだって、こんなふうにまずは私の相手だ。
(倒れないかな……。ずっと、こうだったんだろうな)
何の病気だったのか詳しくは聞いてないし、再発したって話ももちろんない。
でも、こんなに忙しかったら心配になってしまう。
「してないよ。母さんとの関係は良好だし、父さんとも別に仲が悪いわけじゃないんだ。娘の父親にもなっちゃったからさ、きっと他の男でもある程度反対するんじゃない」
「ん……そうだよね」
うん。きっと、そう。
お父さんって、きっとこんな感じなだけ。
「俺は楽しみだよ。彼女のお母さんにご挨拶。普通と違って既にどんな人か知ってるから、変な緊張もないし。あ、でも無理にじゃないからね。絢の気が向いた時でいいんだよ」
「私は大丈夫。それより、悠、忙しすぎない? 少し、悠だけの休日、取った方がいいよ」
帰って来るなり抱きしめて、まだスーツのままの悠を見上げたけど、あまり効果らしい効果はない。
「やだ、絢といたい。もう、絢がいない生活は考えられないもん。でも、家事とかしてくれなくてもいいんだからね。俺の帰宅が遅いからって、最近いつも絢がやってくれてるし。来てくれるのは嬉しいけど、ここでのんびりしてていいんだよ。これだと、絢の方が大変になる」
確かに、あれから悠の部屋にいることがいっそう増えた。
待ち合わせしようとしても、いつも迎えに来てくれるって聞かないし、ここにいることで安心してくれるならそれもいいかと思ってきた。
もともと悠は几帳面だから、それほど部屋が散らかったりすることもない。
悠が言うほど何もしてないんだけど、ちょっとでも負担が減ってくれたらいい。
「いっそ、ここに住む? ……には、絢の会社から遠いか。送ってあげてもいいんだけど……」
「い、いいよ。悠を楽にしたいのに、意味なくなる」
「……やっぱり、俺のこと考えてくれてたんだ」
(……すぐ、そんな顔する)
嬉しくて愛しくて堪らないって表情。
その一瞬前に、すごくびっくりするのも変わらない。
「俺は、絢がいてくれたら癒されるから。だから、いつか一緒に住めたらいいな。昔はあんなに同居が辛かったのに、今は幸せで仕方ない。お泊りも嬉しいけど、そうじゃなくなったら……想像するだけで、ものすごく幸せ」
「……う、と、とりあえず着替えてきなよ」
ネクタイを引っ張ると、ふと見下ろしてくる視線とぶつかる。
「……」
何も、言われてない。
好きも、可愛いも、一言も。
なのに、そのどちらも溢れるほど含んだ瞳だけで、かくんと膝が折れてしまいそう。
「……ありがと。待ってて。すぐ着替えて、後は俺がやるね」
「……あ、ゆっくりで……」
笑って額にキスされただけなのに、それ以上言えない。だって、私、今。
――ネクタイ、無意識に解いてた。