あなたが運命の番ですか?
 私がやっとの思いで最上階である4階まで上りきると、橘先輩は息を切らしながら前屈みになっていた。
 私はそんな橘先輩の背中を見つめながら、息を整える。
「お願いします……。一体、何があったのか、教えてください……。私は、橘先輩のことが心配なんです……。私だけじゃない。東部長も、川田先生も先輩のことを心配してて……」
 すると、橘先輩は前屈みだった上体を起こし、突然クルッとこちらを向いた。
 
 腫れ上がった橘先輩の顔を改めて見て、私は息を()んだ。
 そして、橘先輩は眉間に皺を寄せながら、私を睨みつける。
「いいよ、そこまで言うなら教えてあげる」
 橘先輩は冷徹な声で吐き捨てると、私の腕を掴んで、無理やり視聴覚室の中へ引っ張り込んだ。

「きゃっ――!!?」
 私は橘先輩に突き飛ばされて、長机の上に仰向けの状態で倒れる。その際、私は背中や腰、肘を長机にぶつけ、鈍い痛みを感じて顔をしかめた。
 そして、橘先輩は仰向けで倒れている私の上に覆い被さった。

「僕がされたのと同じこと、今から君にしてあげる」
「えっ?」
 冷ややかに私を見下ろす橘先輩の言葉に、私は困惑する。
「知りたいんでしょ?僕がされたこと……」
 橘先輩は私の両手首を掴んで、机に縫い合わせるように押さえつける。私は反射的に、橘先輩の手を振り解こうとした。
 動けない……。
 橘先輩の腕は細くて筋肉があまり付いていないが、オメガ女性の私を押さえつけるには十分な筋力を持っている。

 橘先輩に力で敵わず、私は腕を解くのを諦めて先輩の顔を改めて見た。
 橘先輩は鋭い目つきで私を睨んでいるが、その目は真っ赤に充血している。
 橘先輩の痛々しく腫れ上がった顔と、私の今の状況によって、私は橘先輩の「されたこと」の意味が分かってしまった。
 私は涙がこぼれた。

「泣いてるだけじゃダメだよ。ちゃんと大声を出して助けを求めないと……。ああ、でも、本当に怖い時は『声が出ない』って言うもんね」
 橘先輩は引き攣った笑みを浮かべる。
「ほら、『助けて』って叫びなよ。もしかしたら、前園くんが助けに来てくれるかもよ?」
 わざとらしい口調で話す橘先輩に対して、私は静かに首を横に振った。
 私の反応を見た橘先輩は、困惑したように顔を歪める。
 
 「ど、どうして……?僕が、怖くないの……?」
 橘先輩は声を震わせる。
 
 知らないベータの男たちや水瀬先輩に腕を掴まれた時は、本当に怖かった。
 今の状況だって、相手が橘先輩じゃなかったら、恐怖で泣き叫んでいたと思う。
 だけど、橘先輩なら怖くない。だって――。

「だって、橘先輩はそんな酷いことをする人じゃないから――」

 私は知っている、橘先輩が本当は心優しい人だってことを――。
 私が初めてヒートで倒れた時、橘先輩は優しく介抱してくれた。

 ――落ち着いて。
 ――川田先生を呼ぶから、それまで辛抱して。とりあえず、僕の抑制剤をあげるね。
 ――でも、ああいうことするのは本当に好きな奴だけにしなよ。じゃないと、僕みたいになっちゃうよ。

 あの優しい橘先輩が本当の橘先輩だと、私は知っている。
 だから、橘先輩が私に乱暴なことをする人とは、とても思えない。
 今のこの状況だって、私に嫌われて、私を自分から遠ざけるためにしている演技なのだろう。
 だって、目の前にいる橘先輩は今にも泣きそうな顔をしている。
 
 私は悲しかった。
 橘先輩が誰かに酷いことをされて、心も身体も傷だらけになって、私はそれが悲しくて涙が溢れた。

 私の言葉を受けた橘先輩は、動揺したようにユラユラと目を泳がせる。
「うっ、うぅ……」
 橘先輩は突然嗚咽を漏らしながら泣き始め、徐々に腕の力を緩めていく。
 そして、泣き崩れるように床にうずくまった。

 私はゆっくりと身体を起こして、橘先輩を見下ろす。
 橘先輩は背中を丸め、膝を抱えて肩を震わせながら泣いていた。
 私は橘先輩の傍にしゃがみ込むと、先輩の震える背中に手を伸ばして優しく(さす)った。
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